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    電脳コイル〈3.00〉 -第17話 思い出の帰る日-

    intermission

     この道を、と人のいう。

     私の進む先、それとも歩んだ後、道は続く。それは私のもの? それとも、本当は人のもので、私がよこから割り込んで奪い取ってしまったのか? 私にはわからない。わかっているのは私がこれまで進んできたことで、それからこの後も進んでいくべきだ、と。
     べきだ、と。
     もしかすると私は歩みを止めてもいいのかもしれない。もし私が誰かから進むべき道を横取りしたというなら、むしろそうして、本来歩むべきだったその人に返してあげればいいのだ。その後で私はもう誰からもせっつかれることなく、この場所でまどろめばいい。そういうのもありだ。

     私は歩いていた。
     人は何故夕映えの景色を好むのだろう。それは過去に似ている。過去というのはよくわからない。私は必死で今を生きているだけなのに、いつの間にかそれが澱のように積み上がって私を閉じ込める。そんな過去から私は逃れたがっているに違いないのに、それでいてそこから切り離されるのがこわくて仕方ない。
     みんな、過去がこわくないのだろうか。私は夢に見るのも嫌なのに。私の取った態度、私の放った言葉、どれもこれも思い出すほどに嫌で嫌でならない。
     それなのにこの景色は、私のそんな昔を1歩ごとに確かなものと変える。私は本当は不安なのだ。何でこんなところに来たんだろう。

     電脳の歴史はかなり新しい。今のように、世界の主要都市を電脳空間が覆い尽くしたのは、つい最近のことだ。電脳都市の最前衛なんていわれる大黒市だって、市街地の電脳化が完了したのはほんの5年前。それに、稼働当初は慮外の事故が多かったと聞く。
     たとえばこんなふうに、現実の空は移り変わっているのに、メガネの現すそれは朝から晩まで夕暮れだったなんて事故も、調べてみればあったんじゃないだろうか。
     いや、大黒ではもっと大きな事故があった。私はそれを知っている。でも、私はそれを思い出したくない。思い出したくないのに、私はそこへ向かって歩いていく。歩みは止まらない。私の力では、止めることができない。

     泣いて帰って私は見た。
    『本日午後5時過ぎ、大黒市で大規模な電脳事故が発生しました。被害の影響、規模は今だ不明ですが、現場からの情報によりますと、多数のオートマトンの損傷あるいは消失、また被害の大きかった空間にいた子供に影響が出ているとも言います。詳細な情報が入り次第、改めてお伝えします』
    『これについてメガマス、コイルス両社は事の次第が判明次第会見を開くとのみ回答しており、依然として現地の情勢は不透明です』
    『国内、海外主要都市の電脳化の矢先に起こったこの事件により、今後の計画に遅延が発生するのはほぼ確実と見られ、拡張路線に偏った路線への見直しが迫られることになるでしょう』
     それは私の見てきた事実を伝える報道だったはずなのに、私の見たこととはまるで違っていた。理由のわからぬまま、私はそれについて考えるのをやめた。

    電脳コイル〈3.00〉 -第17話 思い出の帰る日-

    G part

     Cドメインに接続を続けるのは辛かった。
     私のスキルでは、2.0にアクセスはできても、その正確な構造がわからない。間違いのきかない細かい作業を目隠しでやっているのと同じで、神経ばかり使ってハッキングはなかなかはかどらなかった。そのうえ、どうしてなのか、2.0の防壁をクリアして1歩を進めるたび、もやった重いものが心にのしかかってくる。その正体もつかめないまま、不安だけが報酬の息苦しい仕事を、半分目を閉じて私は続けていた。
    「ヤサコ、もう少しだ!」
     背中に響く声は宗助さんだ。自分も苦しい中でかけてくれるその応援がなかったら、私はとっくに音を上げていただろう。
    「私は大丈夫」
     答えた自分自身の声があまり辛そうで驚いた。ねばっこい汗が頬を伝う。必死で指を動かす私はぬぐうこともできない。
     ばん、と目の前で轟音が爆ぜた。びっくりして見上げると、斜めに傾いたサッチーから黒煙が上がっている。
    「やるな。Cドメインと現実空間の両方で戦っていてこの堅さか」
     宗助さんのつぶやきが聞こえた。
    「こりゃまずくねえか? 最初の作戦と違うぜ」
     ダイチ君の影が私にかかった。守ろうとしてくれているらしい。
    「いや、あせらなくてもいい。現時点で2.0は、総力の80%をCドメインでの応戦に割いている。こっちには負けないくらいの対応でいっぱいいっぱいのはずだ」
    「それでこれかよ。勘弁してくれよマジで」
     いつの間にかガチャギリ君も近くに来ていた。宗助さんが連れてきたサッチーの裏に隠れながら、黒客は散発的な攻撃を続けている。
    「こっちもそろそろ限界よ! なんとかならないの!?」
     つなぎっぱなしの電話から、ノイズにまみれたフミエちゃんの声が聞こえる。
    「すまない。もう少しだけ我慢してくれ」
     私は真横を見た。宗助さんは信じられないスピードでキーボードをたたいている。その表情は、何もない前方をにらみつけ、落ち着いた声からは想像もつかない鬼気迫るものだった。
     私も。私もがんばらないと。目を閉じ、深く息を吸って、どこか違う世界にいる2.0の姿に意識を集中する。
     ふと、体が楽になった。細かに展開された意識の先端から、私は見る。いくつかの動く点。きっとイサコたち、それからフミエちゃん、そして目指す2.0。
     私の攻撃が加えたかすかな傷が見える。こんなもので。あとどれだけ。絶望感を無理に押さえつけ、次の攻撃を準備する。ささいな、ほんのちっぽけなものだ。それでもその小さな1歩分だけ、あなたに近づける。
     あなた? イサコじゃない、あなたは誰? もちろんフミエちゃんじゃない、ハラケン、それともカンナ?
     違う。誰とも違う。それなのに私はあなたを知っている。
    「お姉ちゃん」
     唇から漏れでたつぶやきに、あなたはほほえむ。
    「お姉ちゃん!」
     それがいつ、どこでだったのか、私はほとんど覚えていない。それなのに、いつも一緒だった、私はそう感じている。いつも一緒だったのに。その手を離したのは。
    「もうあなたのほうが年上なのに」
     お姉ちゃんは笑った。
    「それに私の名は……」
     夕陽が言葉をさえぎった。にわかに強くなったそれが、私をお姉ちゃんを、私たちを取り巻く景色を次々飲み込んで。
    「ヤサコ、戻れ!」
    「おいヤサコ!」
     何人かの声が遠くから聞こえた。私は抵抗することもできず、その声の方向に引き戻された。

     目を開けると、宗助さん、ダイチ君、フミエちゃんが輪になって、あおむけに倒れた私をのぞき込んでいた。
    「なに……? どうしたの」
     聞きながら、私は力なく上半身を起こす。
     その肩をフミエちゃんが揺すぶった。
    「やったのよ。宗助さんが」
    「え――」
     そうだ。2.0。
     慌てて振り向くと、2.0はまだそこにいた。でも動きがない。触手をしまいこんで、ぽかんと空を切り取っている。
    「安心して。フリーズしてる」
     宗助さんが言う。
    「作戦成功だ。君たちが2.0を引きつけている間に、空間管理室を経由してメガマスのサーバをハックしたんだ。これで何時間かは2.0を止めておける」
    「その間に私たちでイサコたちを連れ戻せばいいってわけよ」
     フミエちゃんがにかっと笑顔を見せた。
    「待って。でも2.0の別の機体が来たらどうするの?」
     聞くと、宗助さんは首を振った。
    「そこは心配ないよ。ここにいる2.0から通常パトロール信号を出させてる。このエリア一帯は問題なく巡回中ってことになってるから、他の機体が入ってくる恐れはない」
    「そういうわけだから、後ろは気にせず行こうぜ」
     ダイチ君が空間の裂け目に向き直る。と、ガチャギリ君がその前をふさいだ。
    「待てよ、そうは行かねえぜ。イサコの計画は俺たちが邪魔させねえ」
    「ああ? お前、今の戦い見てたろうが。もうそれどころじゃねえんだよ」
    「ダイチ君のいうとおりだ。イサコが何をしようとしていたのかは僕にもわからない。だが、いずれにせよ今は危険だ」
     ダイチ君に宗助さんも加勢する。けれど、ガチャギリ君は道を明けない。それどころか、アキラ君にデンパ君までガチャギリ君と並んで立ちはだかった。
    「2.0のことくらいイサコだって計算済みだ。どうしても止めるってんなら、ここで一戦やらかしてからだ」
    「ちっ、無茶言いやがる」
    「ちょっと、ダイチ」
     フミエちゃんがダイチ君の腕を握った。
    「やめるんだ、君たち。ここで戦ったって無益だ」
     宗助さんが1歩前に出る。
    「そう言ってんのは探偵局の人間だけだ。俺たちに取っちゃわからねえ」
     ガチャギリ君がミサイルを構えた。
    「ちょ、ちょっと待っ――」
    「待つんだ!」
     私の声にかぶせて、横から別の声が響いた。
    「誰だ!」
     ガチャギリ君が構えたミサイルをそっちに向け……、しかしそれはすぐに降ろされた。
    「信彦さん――」
    「今回の計画はイサコが独断でやったことだ」
     信彦さんはきびきびと話しながら歩いてくる。その後ろにメガネをかけてないナメッチの姿も見えた。
    「これまでのイリーガル捕獲は僕とイサコが協力して計画を練ってきた。だがここに来てイサコは先走ったんだ。残念だけど、一旦やり直しだ。探偵局の面々のいうとおり、イサコを連れ戻そう。危険すぎる」
     ガチャギリ君は急に気弱な表情を浮かべると、かたわらのアキラ君、デンパ君を振り返った。ふたりはそろって目を落とし、黙ったまま小さくうなずいた。
    「納得してくれたか。ありがとう」
     信彦さんは軽く息をついて、私に向き直った。
    「急ごう。時間は多くはないぞ」
     イサコ、カンナ、――ハラケン。私はうなずいた。
    「待ってよ、当然私たちも行くからね」
     フミエちゃんがダイチ君を引っ張って空間の裂け目に歩き始める。私は宗助さんを見た。
    「大丈夫。ここは僕が――」
    「兄ちゃん!」
     宗助さんの答えはけれど、予想外の声にかき消された。タケル君だった。
     タケル君は宗助さん、サッチー、そしてその向こうに開いた空間の裂け目を見て、語気を荒げた。
    「どういうことなんだ! やっぱり兄ちゃんは”あっち”を、父ちゃんの作った空間を――」
    「何言ってんだ、お前? 宗助さんは俺たちを助けてくれたんだぜ」
     ダイチ君が言う。
    「だまされるな! 兄ちゃんはいつだってそうやって――」
     言葉は最後まで聞き取れなかった。閃光が走る。
    「うわっ!」
     宗助さんが素早くメガネを顔からはぎ取って地面に投げた。ほぼ同時にばんと乾いた音がして、メガネから火花が散った。
    「宗助さん!?」
     私は手で目を覆った宗助さんに駆け寄った。宗助さんはゆっくりと手を離し、投げ捨てたメガネを見つめた。メガネは柄から細い煙を上げ、レンズには大きなひびが入っている。
    「完全におシャカだな。困ったね。実はこれ、玉子のを勝手に持ち出してきたんだ」
     宗助さんはこっちを振り向いて苦笑いを浮かべた。宗助さん自身は無事らしいとわかって、私は少しだけ安心した。
    「タケル、お前はいきなり何だってんだよ!」
     大声に振り向くと、ダイチ君がタケル君の胸ぐらをつかんでいる。
    「離せよ!」
     タケル君はダイチ君を強引に突き放し、
    「兄ちゃんは古い空間を抹消しようとしてるんだ。今だって、せっかく開いた入口をフォーマットするつもりだ」
    「ちげーよ! 宗助さんはこの空間をメガマスから守ってくれたんだぜ」
    「君こそ間違ってる。兄ちゃんにだまされてるんだ。兄ちゃんは古い空間を消して、コイルスの空間が存在する証拠をなくしてしまおうとしてるんだぞ」
    「待って、タケル君」
     私が呼ぶと、タケル君はどきっとした顔でこっちに向き直った。
    「宗助さんが私たちを助けてくれたのは確かよ。イサコたちがここから古い空間に入っちゃったの。それで、連れ戻すまでの間、ここを維持するために来てくれたの」
    「そ、そんな」
     タケル君は不安そうな顔になって、周りを見た。みんながうなずくと、うろたえた様子で1歩退き、うつむいた。
    「タケル、僕のメガネをどこへやった」
     宗助さんが声をかける。
    「――ハラケンに貸したよ。あいつが何に使うのかは知らない」
    「そうだ、おかしいと思ったのよ。カンナはメガネが故障中だって言ってたもん。きっと宗助さんのメガネで”あっち”に入ったんだわ」
     フミエちゃんが言うと、宗助さんは首を傾げ、
    「変だな。僕は玉子から、ハラケンのメガネを没収したって聞いたんだ。ハラケンとカンナのがないなら、メガネは2個必要なはずだけど」
    「もうひとつはきっと僕のだ」
     信彦さんがつぶやいた。
    「イサコは僕のメガネを勝手に持ち出していった。てっきりこっちの動きを遅らせるためかと思ってたんだけど、そういうわけだったのか」
     その時、サッチーがぎぎ、とうなった。
    「まずい。指令元がなくなったせいでサッチーが混乱してる。空間管理室へ戻って、指示を出し直さなくちゃ」
     宗助さんが言うと、
    「行ってくれよ。こっちは俺たちで十分だぜ」
     ダイチ君が胸を張った。
    「すまない。急いで行くけど、その前にサッチーが通常モードに戻った場合、古い空間を攻撃するかもしれない。何とか耐え抜いてくれ」
     宗助さんが頭を下げると、今度はガチャギリ君が前に出た。
    「俺たち黒客を信頼してくれよ。サッチーの足止めくらい、慣れたもんだぜ」
     フミエちゃんが私を見てうなずいた。
    「じゃあダイチ、あんたもサッチー対策で残って。ヤサコ、私たちふたりで”あっち”へ行くわよ」
    「ダメだ」
     突然、信彦さんが口を開いた。
    「古い空間の中でも、イサコが向かった場所は大きく変質してる。イマーゴを持たない人間には入ることができないだろう」
    「イマーゴ?」
     私とフミエちゃんは顔を見合わせる。
    「ああ。特定の子供だけが持っている、意識と電脳を直リンクする能力さ。僕にはイサコほどじゃないがそれがある。だから”あっち”には僕が行くよ」
    「それじゃ、私たちはここで指をくわえて見てるしかないっての?」
     フミエちゃんににらみつけられ、信彦さんは困ったように目をそらした。
     わだかまった沈黙を破ったのは宗助さんだった。
    「仕方ない。天沢信彦君だね、”あっち”のほうは君に頼む――」
    「待って」
     意外な声が宗助さんを止めた。タケル君だ。しかしその言葉はもっと意外だった。
    「ヤサコにもイマーゴの力がある」
    「えっ、私!?」
     タケル君はうなずいた。
    「果し合いの前に君たちに暗号を教えたろ。あれは、Cドメインにアクセスして、意識から直接電脳物質を作る力だったんだ。だから、暗号が使えるってことは、イマーゴを持っているはずだ」
    「……そうだったの」
     さっきの苦しさを私は思い浮かべる。”あっち”に入ったら、私はずっとあの思いを抱いていなければならない。でもハラケン、カンナ、それにイサコを守るため、他に選択はない。
    「わかったわ、行きましょう」
     私は笑顔を浮かべ、信彦さんにうなずいてみせた。

    電脳コイル〈3.00〉 -第17話 思い出の帰る日-

    F part

     当り前だけど望んだ戦いじゃない。ではなくても今は影となって横たわる3人を助けるには、全力を尽くさなくてはならなかった。
     といって全力で当たったから勝てると保証されたわけでもない。というより、そうではない可能性のほうがはるかに大きく、実際戦いの流れは悪いほうへ、悪いほうへと傾いていった。
    「守れ、守れ!」
     真っ黒に切り取られた空間からはい出してくる半透明の触手を、ガチャギリたちは必死で攻撃している。けれどそれは堅かった。ミサイルやメガビーの直撃を受けても、わずかにひるんだ様子を見せるだけで、ほとんどダメージを受けたふうには見えない。おまけに本体からフォーマット光線が次々と発射される。
     私は振り向いてヤサコを見た。
    「どうなの、そっち!?」
    「ごめんフミエちゃん。ちょっと、もうちょっと待って」
     ヤサコはタケルに教えられた2.0への攻撃方法を試しているのだが、なかなかうまくいかないらしい。
    「ちょっとってどのくらいだよ!? このままじゃ押し込まれるぞ」
     ミサイルを連射しながらのダイチの声は切羽詰まっていた。
     ダイチのいうとおり、2.0の本体は切り開かれた空間の向こうへ、徐々に移動していた。戻れなくなる? ハラケンやカンナ、それにイサコも。
    「私、呼んでくる!」
     気がつくと叫んで、走り出していた。
     呼んでくるというのは、3人を、ということだ。イサコの開いた異質な電脳空間の内部がどうなっているか、それに3人がそのどこにいるのか、一緒なのかばらばらなのか、そういうのをひとつも知らずに、よくぞまあ無茶な判断ができるものだ。だけどそういう自分だからしかたない。
    「バカ、待て! お前まで巻き添えになるぞ」
     ダイチが追いかけてきた。
    「ならないようにしっかり守ってよ。ほら、わきが甘い!」
     投げた鉄壁は、ダイチを狙ったフォーマット光線の進路を見事にふさぐ。
    「おい、俺も――」
    「あんたはヤサコのサポートやっといて!」
     ダイチは口を動かした。が、言葉を聞きとる前に、私は違空間の入口をくぐっていた。

     出たところは夕焼けだった。視界の7割を覆い尽くした空は、擦りガラスを通したような柔らかいだいだい色に染まっている。眼下の町は反対に、わずかに夕焼けを反射しながら闇に沈みこもうとしている。
     次の瞬間、私は落っこちた。
    「あ、イタッ!?」
     思わず叫んだものの、痛みは感じない。電脳体分離した証拠だ。
     とはいえつい腰をさすりながら見上げると、2階屋の屋根より少し上に空間の裂け目があった。何も考えずに突っ込んだはいいけど、その向こうが空中に浮かんでいるとは思わなかった。これじゃどうやって戻ればいいのか――
     と思って見つめていると、裂け目は上がったり下がったり、少しずつ動いている。待っていればそのうち、地面ぎりぎりまで降りてきそうだ。降りてくる、ということにして、辺りをうかがった。
     ここが”あっち”? 見た感じ、普通の街並みと変わらない夕暮れの景色だ。ただ、人の気配が感じられない。通行人の姿はまるで見えないし、軒を並べる家々の玄関も窓も、照明の灯っているところはひとつもなかった。
    「ハラケン! カンナ!」
     大声で呼んでみたが、答えはない。音のない世界に呼び声はかき消されていく。一体どこに行ったんだろう。
     その時電話が鳴って私は飛び上がった。
    「フミエ、無事か!」
     声はか細くて聞き取りづらかったが、私は安心した。
    「大丈夫よ! そっちこそどう」
    「ヤサコがCドメインへの接続に成功したみてえだ。あのサイコロ野郎、とまどってやがる。今のうちに3人を探し出してくれ」
    「よし、OK――っていいたいとこだけど、どこをどう探したらいいのかしら」
    「おいおい……。お前ってヤツは本っ当考えなしだな」
    「あんたに言われたくないわよ!」
    「うっせえよ。ちょっと待ってろ。イサコが何か残していかなかったか、ガチャに聞いてみる」
    「あ、ちょっと……」
     こちらの返事も待たずに電話は切れた。あいつ、こっちの状況をわかってるんだろうか。私は少しむくれた。むくれてみてそうしたのは自分が心細かったからだと思い当り、だから「ちょっと」の後にはもっと甘えた言葉が出るところだったともわかってひとりで赤くなり安心し、その後で安心できる場面じゃなかったと、ひと巡りして気がついた。
    「まっずいわねえ」
     陽がどんどん暮れてきているのか、暗さが増したような気がする。このままじゃますます道がわからなくなりそうだ。
     ここは住宅街の路地裏だ。とりあえずもっと見晴らしのいい場所に出よう。私は歩き始めた。
    「なんでもいいのよ。手がかり、足がかり、なんでも……」
     つぶやくとますますこわくなってきて、黙りこんだその時、遠くで何かがぱちっとはじけた。
    「な、なに!?」
     見つめているとぱちっともう1回、音と小さな光だ。
     敵? 味方? それとも――
     とにかく行ってみるしかない。そんなに時間はかからないはずだ。

    「げげ!? な、何これ?」
     気色悪いオートマトンとかイリーガルとやりあった経験から、大抵のものには驚かないだろうと思っていたが、やっぱりそうでもなかった。10分ほどして光の元にたどり着いた私の目の前には、道路をいっぱいにふさいで、直径で5メートル以上はありそうな繭が、民家の塀に寄りかかっていた。
    「さっきの光って……やっぱりこれかしら」
     カイコの繭をところどころでこげ茶に染めたような外見だ。何故かすぐ前の道路には黄色地に黒で「KEEP OUT」と書かれたラインが敷かれている。
     ラインを越えて良いものかためらっていると、繭の一部が光った。ばちっと、間近ではけっこう強烈な音。続けてひとすじの煙が立ち上る。繭の上のほうだ。
     私はダイチに電話をかけた。
    「どう。そっちは何か進展あった?」
    「ねえよ、すまん」
     ぶっきらぼうな答えが返ってきた。
    「ガチャたちも、”あっち”の中までは知らされてないってよ。ヤサコのほうは一進一退だ。今のところ2.0の前進だけは抑えてるけど、かなりきつそうだぜ」
    「そう。こっちは謎の物体を発見したわ」
    「はあ? 謎ってなんだそりゃ?」
    「すぐ画像を送るわ。でね、とりあえず入ってみようと思う」
    「えっ!?」
     ダイチのあきれ顔が目に浮かんで、私はつい吹き出した。
    「待てよこら。その物体ってやつ、イサコと関係があんのか?」
    「わかんない。でもぐずぐずしてる暇はないのよ」
    「ダメだ。いくらなんでもせっかちすぎるぜ。待て。お願いだから待て」
    「待っても意味ないから」
     私は電話を切って、残酷にもダイチの番号を着信拒否に設定した。無茶なのはわかってる。けれど私は止まってられない。
     「KEEP OUT」の表示をおそるおそる越える。幸い、警報が鳴ったり、いきなり電撃を食らったりはしない。少し勇気が出て、繭に手をかけた。ごわごわした感じだ。なにせ電脳体だから手触りを感じたりはしないが、なんとなくわかる。これなら行ける。ちょっとした木登りだ。
     するすると簡単に繭のてっぺんまで登れた。目線が2階屋の屋根くらいある。光る場所はちょうど目の前だ。よく見ると、繭の一部が黒く焦げて丸い穴が空いている。私はゆっくりと中をのぞきこんだ。
    「な……!」
     何これ、と叫びそうになったのを、私は必死で口を覆った。
     繭の内側に広がっていたのは、大黒の、というか、ついさっき私が後にした、中津交差点の光景だった。
     ダイチ、ガチャギリや黒客のみんな、ヤサコもいる。みんなこっちを向いて武器を構えている。2.0の姿は見えない――ということは。
    「これ!」
     またも私は口をふさいだ。これはきっと2.0の本体だ。
     私はダイチに電話をかけた。繭に映るダイチが電話を取る。
    「お前、ひでえな。着信拒否なんかしやがって」
    「その話は後。見つけたっぽいわ、2.0の正体。そうだ、ためしにそっちから攻撃してみて。触手じゃなくってサイコロのほう」
    「お、おう」
     映像のダイチがメガビーを構え、発射する。光線は画面に当たって四散した。やっぱりだ。
     ダイチの後ろでヤサコが何かキーボードをたたいた。するとまたばちっと音をたて、私ののぞいている穴が広がった。そうか、この穴はヤサコのハックでできたんだ。
    「よおし、内側から攻撃してやる。こういうヤツって、たいてい本体はひ弱なのよ」
    「フミエ、あんまり無茶すんなよ」
     といわれても既に無茶しまくっている。メガビーを最大出力にして、適当な1点を狙って発射――
     した瞬間、繭がうねった。
    「わっ」
     振り落とされそうになった私は必死でその辺をつかむ。と、繭の内側のあちこちで黒い触手が一斉に動いた。触手は目にも止まらぬ速さで繭の中心部に集まり、ダマになる。
    「うげえ、気持ち悪い」
     見ているうちに、ダマの中から何か押し出されてくる。まず目についたのは白いゼリー状のもの、その表面を網の目のように赤い血管が走り、さらに中心には巨大なレンズ。眼球だ。硬直した私とそれの、まさに目が合った。
     目玉の下にいくつも穴ができ、とっさに私は顔をそむけた。ほぼ同時にフォーマット光線が発射される。後ろの民家の2階部分が消えてなくなった。
    「何よ!? 本体だけでも強いじゃん!」
     私は繭から飛び降りた。というか転げ落ちた。逃げられたと思ったのもつかの間、さっきの穴から目玉が出てきて、きょろきょろ辺りを探っている。
    「ええいこのっ!」
     ヤケで放ったメガビーは見事に目玉を直撃した。目玉は一瞬、文字どおり目をしかめる。ところがすぐに別の触手が伸びて目玉を覆い隠し、さらにその先端に発射孔を開けた。
    「ダメだ」
     これじゃ勝負にならない。私は脱兎のごとく駆け出した。
     敵は動けない。とにかくこの場は逃げて、でも本体がわかったからには攻撃の方法もある。援軍を連れて出直しだ。
     背後でめきめきっと音がした。とてつもなく嫌な予感にとらわれ、私は振り向いた。
     2.0の繭が4つに割れていた。縦に長く裂けた繭は四方に広がり、真ん中あたりで折れ曲がって体を持ち上げる。まるで4つ足のクモだ。さっきまでの繭の内側、つまり大黒の映像を映し出しているほうが外側になって妙にカラフルな足、中心にはさっきの目玉が妙に歪んだ、笑ったような形で私を見ている。
    「反則よ! 完全に反則!」
     私は走った。こけつまろびつ、とにかく走る。後ろからは地響きをたて、家屋や木々をなぎ倒しながら2.0が追ってくる。
     とにかく出口へ。駆けて駆けて、けれど2.0は次第に迫ってくる。さっき小走りで10分かかったから、全力なら5分弱か。多分間に合わない。追いつかれる。電脳体分離しているところへフォーマット光線を受けたら――
     その時、電話が鳴った。ダイチ? じゃない、オバちゃんだ。
    「オバちゃん、助けて!」
     電話に出るなり私は叫んだ。
    「がんばれ! 助けられるかもしれない」
     オバちゃんじゃない!? 男の人の声だ。私はすぐに、その主に気がついた。
    「宗助さん!? どうして!」

    電脳コイル〈3.00〉 -第17話 思い出の帰る日-

    E part

     その日の出遅れは、俺にとってまさに痛恨の失策だった。一斉フォーマットの告知を聞いて、俺は素直にメガネを外していたのだ。少し考えれば、あの一筋縄ではいかないイサコがフォーマットを逆手に取る可能性くらい思いついたろうに。

     フミエから連絡があったのは昼前だ。1年に1回くらいしか使わない家の電話の受話器を持ち上げると、唾でも飛んできそうな勢いでフミエはまくしたてた。
    「ちょっと、あんた何してんのよ! 外で起こってること、わかってんの!?」
    「外で? 一斉フォーマットだろ。お前こそ、せっかくの休みだってのに何をがっついてんだ」
    「バカ! とにかくメガネ着けて!」
     言うだけ言って、フミエは電話を切ってしまった。状況を理解しないまま、俺は相変わらずのんびりと2階の部屋へ戻り、机に置きっぱなしだったメガネをかけた。
    「おわっ!?」
     部屋が突然モノクロになり、次の瞬間にはその明暗が反転して、さらにそれが赤く染まり、最後に表示が出た。
    『空間の維持に重大な問題が発生しています。メガネの電源を切ってください』
    「何だってんだ……」
     と、フミエからメールが来た。本文は空で、やたら重い添付ファイルがついている。状況から考えてウィルスを疑い、開けるのをためらっていると、今度は電話が入る。
    「もうパッチ付けた?」
    「パッチ?」
    「そうよ。小此木先生が作ってくれたの。メールで送ったでしょ」
    「ああ、これか」
     ファイルを開くと、フミエの言ったとおり、メガネの修正パッチが圧縮されて入っていた。すぐにインストールすると、赤い画面がようやくいつもの部屋に戻った。
    「どうなってんだよ、こりゃあ」
    「メガマス本社にサイバー攻撃があったんだって。犯人は多分イサコよ。あいつ、よりにもよってこんな日にやらかすつもりなんだわ」
     フミエの鼻息は荒い。逆に、俺はそんなフミエの声を聞けば聞くほどに冷静になった。
     大変なことが起ころうとしている。この前の果し合いもすごかったけど、あれは結局電脳クラブ同士の小競り合い、というくらいのものでしかない。だが、今回は違う。メガマス本社を標的にしたサイバーテロとなったら、逮捕者が出てもおかしくない。
     そして、そういう波乱の中で、俺はフミエを守らなければならない。こいつ、口は達者でも意外とガキだからな。
    「ダイチ、聞いてんの?」
     そのガキが金切り声を上げた。
    「おっ、おう――なんだっけ」
    「バカ。カンナとハラケン、連絡が取れないのよ。家に電話したら、ふたりとも出かけたって」
    「なんだと。そいつはまずいな」
     俺の返事がよほど険悪に聞こえたのだろう、フミエは声をひそめて聞き返した。
    「まずいって、ダイチ、あんた何か知ってるの?」
    「……ああ」
     果し合いで俺たちを裏切ったのがハラケンだったという事実を、俺は今まで自分の中で眠らせていた。ハラケンは、簡単に味方を売ったりするようなヤツじゃない。探偵局を裏切るのなら、それだけの理由があるはずだ。せめてそれを明らかにしてから、フミエやヤサコに打ち明けたかった。
     だが、それは俺の甘えだったのかもしれない。今起きている事件の裏には、必ずハラケンが絡んでいる。俺はハラケンを見逃すことで、暗に手を貸してしまったのだ。
    「とにかく落ち合おう。お前、今どこにいる?」
    「学校の正門前よ。もうすぐヤサコも来るはずだから、ふたりであんたの家へ寄るわ」
    「寄る?」
     フミエの口調は、まるでもう目的地が決まっているようだった。
    「そう。ヤサコにメールがあったのよ。『はざま交差点』ってね」

     最近になって越してきたヤサコは知らなかったようだが、「はざま交差点」とは、中津交差点のあだ名みたいなものだ。あそこは電脳状態もよくないし、独特のちょっと寂れた感じもあって、都市伝説の宝庫だった。「はざま」という言葉の意味は、都市伝説や噂を総合すれば、俺たちの住んでる世界と、俺たちの知らない未知の世界の境目を表しているらしい。
     電脳というもうひとつの世界。ほとんど物ごころついたころから存在し、日常にあって当り前と思ってきた世界は、本当は俺たちの誰も知らない異質なものを含んでいたのかもしれない。そうだとすれば、はざま交差点とは、気味の悪いくらいにマッチしたロケーションなんじゃないか。
     交差点に向かう途中で、果し合いでの俺の体験について全部話した。ヤサコははっきりとショックを受けていて、うつむいたきり何も言わなくなった。フミエは「やっぱりそうだったの」とか答えて、少なくとも外見上は動揺した素振りを見せなかった。驚いたのは、俺を責める言葉がひとつもなかったことだ。俺は内心フミエに感謝した。
     中津交差点が近づくと、空間の乱れが大きくなり始めた。
    「間違いないわ。ここね」
     フミエとうなずきをかわし、交差点側に抜ける狭い路地をくぐった。
    「あれ?」
     俺は思わず立ち止まった。台風の目、とでもいうべきか、周りの乱れに比べて、交差点の空間だけはぽっかりと落ち着いている。
    「こりゃ一体――」
    「ちょっとどいて! つかえてんのよ」
     と、いきなり背中を押された。フミエ、ヤサコの順で路地を出て、ふたりとも交差点を眺める。
    「おかしいわね」
     その時、道路を挟んで向かい側で動く影を俺は見つけた。
    「あっ、ガチャにアキラ!」
    「ちっ」
     ガチャギリは舌打ちしたが、すぐに何気ない顔を装って、
    「よう、これは探偵局の面々がお揃いで」
    「とぼけんじゃないわよ! イサコはどこ? あんたたち、ここで何しようとしてるの」
    「答える義務はねえ」
    「そもそもイサコさんはここにいませんよ。ねえ」
     アキラが左右を振り向くと、物影からナメッチとデンパが出てきた。
    「おい。隠しだてはためにならねえぞ」
     ガチャギリは苦笑して頭を振る。
    「誰のためだよ。俺たちのことは俺たちで考える。お前らはすっこんでろ」
    「んだと!」
    「おう、やるか」
    「待って!」
     険悪になりかけた俺たちに、ヤサコが水を差した。
    「ケンカしてる場合じゃないわ。来るわよ、2.0が」
    「えっ」
     どうしてわかる、と聞こうとした時、今くぐり抜けてきたばかりの路地がぱっと輝いた。
    「かっ、隠れろ!」
     誰かが叫び、皆が思い思いの場所に身をひそめる。俺たちも手近にあった電柱の裏に隠れた。
     路地から姿を現した2.0は、ゆっくりと俺たちに近づいてくる。無駄とわかっていつつも、俺は息まで止めた。
     間近で見る2.0に、サッチーほどの威圧感はない。大きさはキュウちゃんと同じくらいだし、外見――といっていいのかよくわからないが――はべったり平面的な黒に「No Image」の文字が踊っているだけだからだ。だがこの場合、見た目の無機質さは、何をしでかすかわからない未知の物体への警戒感をあおっていた。
     そんな俺たちに気づかないでか、それとも無視してか、2.0は速度をゆるめずに目の前を通りすぎる。
    「なんだよ、びびらせやがって」
     小声でつぶやいた瞬間、2.0が動きを止めた。どきっとしたが、狙いは俺ではないらしい。2.0には方向というものがないからよくわからないが、どうやら交差点の中心、何もない落ち着いた空間が目標のようだ。
     突然、ばつん、と空間がはじけるような音が響いた。その直後、2.0の真下の空間が凝固した。
    「何よ、あれは」
     フミエが電柱から身を乗り出す。
     空間の凝固は、2.0の下から交差点に向かって少しずつ進んでいく。つららが成長していく映像を高速再生したようにも、あるいは触手を伸ばしているようにも見える。やがて触手は4つに分かれ、散開して少しずつ進み始めた。
     後ろでがさがさ音がした。振り向くとヤサコが立ち上がり、ポシェットから何か取り出している。
    「準備しておく。タケル君から2.0を倒せるかもしれない方法を教わったの」
     フミエがヤサコの袖を引っ張る。
    「ちょっと待ってよ、ヤサコ。まだあいつが何をするのかもわからないのに。案外このまま帰っちゃうかもしれないわよ」
    「ううん」
     ヤサコは確信ありげに首を振った。
    「今2.0が調べてるあの空間、きっとダミーだわ。イサコはあの中にいる」
    「あっ、そうか」
     いわれてみればそのとおりだ。空間の乱れの中心があんなに安定しているはずがない。イサコのやつ、また新しい空間偽装のスキルを考え出したらしい。しかし――
     4つに伸びた2.0の触手から波紋のようなものが広がった。円形に広がった波紋はお互いに干渉して複雑な模様を描く。行ったり戻ったり、重なったり離れたりが繰り返され、しばらくそうするうちに波紋は重なって大きなひとつの円になった。
    「あっ!」
     突然ヤサコが頭を抱えて座り込んだ。
    「ヤサコ!? ヤサコ、大丈夫?」
     フミエが慌ててその体を支える。ヤサコは頭を押さえたまま、切れぎれにつぶやいた。
    「共鳴してる――。破られるわ」
     ぴしっと音がして、俺は振り向いた。さっきの波紋が固まって中空に巨大な氷の円を形作っている。その真ん中に大きな亀裂が見え、またたく間にそれは広がって、次の瞬間、円形の空間は粉々に砕け散った。
    「うわっ」
     ほとんど意味をなさない記号にまで分解された細かい空間の欠片が俺たちの隠れている電柱にまで降りかかった。反射的に目を覆った俺のすぐ前を、足音が通りすぎる。
    「あっ、おい!」
     無理やり目を開けると、わけのわからない光景が飛び込んできた。
     2.0に壊された場所は、空中にぽっかりあいた大きな穴になっていた。向こう側から、どうしてか夕焼けの光が差してくる。
     無意識に俺は電柱の陰を離れ、穴の中の良く見える位置に移動していた。
     夕焼けの正体はすぐわかった。穴の向こうの空間の中に、さらに大きな空間の断裂面があり、そこから禍々しいほどに真っ赤な光が発している。そして、そのすぐ手前の地面には――
    「クソッ、こうなりゃヤケだ! 全員攻撃開始」
    「りょ、了解!」
     どなりながらガチャギリがミサイルを乱射し、ナメッチとアキラがそれに続く。
    「本体に攻撃してもムダよ! 狙うなら触手にして!」
     何故かヤサコが叫び、自分もメガビーを発射した。
    「ダイチ君、フミエちゃん! あなたたちも」
    「え、えっ!?」
     俺とフミエは状況を飲み込み切れず、顔を見合わせた。
    「ちょっと待って。イサコのやろうとしてること、2.0に止めさせたほうがいいんじゃないの?」
     フミエが聞くと、ヤサコはメガビーを撃ち続けながら空間の穴を指差した。
    「ダメ! 今はダメなの。今フォーマットされたら、あの子たち帰ってこられなくなる!」
     それで、さっき見たものの正体に気がついた。夕焼けの射す世界の目の前で、その赤を吸い取るように黒くうずくまる3つの影。計算が合う。
     イサコ、ハラケン、カンナ。3人は、あの赤い亀裂の向こうへ行ってしまったのか。
     視界がぐらりと傾いだ。自分がよろめいたのだとわかるのに時間がかかった。
     悪い予感が、赤い光の向こうに行ってしまった3人と、もう2度と会えないような予感が、全身を駆け巡っていた。

    電脳コイル〈3.00〉 -第17話 思い出の帰る日-

    D part

     2.0という強力なオートマトンを配備して自信を持ちすぎたか、それとも移転後間もないためか、メガマスの本社のセキュリティは想像以上に脆弱だった。パスワードを利用したCドメイン経由の攻撃以外にも、空間管理室を一部機能をジャックしたり、学校から教育委員会、大黒市議会と伝って何故か行き着いた本社総務、財務システムの撹乱、孫会社の貧弱なセキュリティからさかのぼった侵入、とにかく思いつく限り、ありとあらゆる手段を使ってアタックを続ける。今日付けで空間の最終的な安定を図るはずが、正反対の展開に、今頃メガマスは全社が大わらわだろう。
     一斉フォーマットの裏を衝くというハラケンの作戦は図に乗った。乗りすぎて私は逆に警戒感を持った。ハラケンは、私の戦力をかなり正確に読んできている。ならば、今日私がしようとしていることについても同様と見ていい。ヤツは私に便乗して何をしようとしているのか――
     いや、今さらそんなことを考えても無意味だ。私とハラケンは既に契約を済ませた。ふたりとももう後戻りのきかないところまで来ている。残されたのは、このまま前を向いて進む道だけだ。その道の先、今日最も空間の不安定化している場所は、偶然かそれとも必然が、あの事故の場所にあった。

     フォーマット直前で2.0が回収された中津交差点には、重たい電脳の霧が幻の恐竜のようにうごめいていた。空間の状態は予想を上回る悪さだ。だが逆に私から見ればベストコンディションでもある。いつまた2.0が戻ってこないとも限らないから、私は急いで準備を始めた。
     まずは空間の偽装、物理結界の構築を行って、周囲の目をそらす。極めて精度の高いフェイクで対象領域の周囲を覆うのには、ある程度の時間がかかった。私が作業に働く間に、招集をかけた黒客のメンバーはあらかた集まった。
    「こりゃあ本格的だな」
     感嘆の言葉を漏らしながら、ガチャギリが偽装空間の接点を見つめる。
    「ぱっと見じゃ、まるでわかりませんね」
     アキラもガチャギリの後ろから興味深そうにのぞき込んでいる。
    「すぐに本格的以上になるぞ」
     言ったところで最終調整が完了した。周囲と数センチずれていることで辛うじて見分けのついていた境目が滑らかに動き、完全に辺りに溶け込んだ。
     無言で目を丸くしている連中の顔を見ると、場違いにも私はやや得意な気分になった。
    「デンパ、入ってみろ」
    「僕が? だ、大丈夫かな……」
     指名されて不安げな表情を浮かべたデンパは、おっかなびっくりで空間の境目をくぐった。いや、くぐったはずだ。境界は全く見えなくなっているし、その向こうに進んだデンパの姿も、偽装空間上にトレースされて現れている。
    「内側から何か見えるか」
    「いや、何も」
     デンパはいぶかしげに当たりを眺め回す。本当はそこに大きな空間の歪みが存在するのだが。
    「よし、うまくいった」
     私は満足した。新しい偽装空間は、現有の空間を包み隠すだけの性質のものではない。その特徴は、サッチーのフォーマットと同じレベルで復旧した空間を用意し、古い空間の上に二重にかぶせてしまう点にある。通常のメガネを使っている人間は、上掛けされた新しい空間しか見えない。つまり、あらかじめ用意したパッチを当ててメガネをアップデートさせておかなければ、そこに古い空間があるとすら認識できないのだ。
     このフェイクでなら、サッチーの目くらいは軽くごまかせる自信がある。問題は性能未知数の2.0だが、そっちにも簡単に見破られはしないだろう。
    「さて、と」
     準備を次の段階、パスワードを使ったより深い空間への接続に進めたいところだが、その前にひとつ気にかかることがあった。
    「ナメッチはどうしたんだ?」
     超優秀な戦力とはいえないがそこそこに働いてくれるナメッチは、やはり黒客に不可欠なメンバーだろう。それに、意外と真面目なところがあって、遅刻なんかは滅多にしないナメッチから連絡もないのは疑問だ。
    「それが、さっきから電話もメールも入れてるのに、全然返信がないんですよ」
     2分おきの発信を繰り返している履歴を見せながらアキラが答えた。
    「故障かな? それとも、お母さんにメガネを取り上げられちゃったのかな」
     デンパがのんびりとありがたくない推理を披露した。が、重要なフォーマットをメガマスがうるさく宣告している状況から、親にメガネを没収されるというケースは考えられる。ナメッチについてはとりあえず諦めて、4人で準備を進めるか――
     そう思った時、私の電話が鳴った。発信元は当のナメッチだ。
    「おい、何があった? こっちはもうそろって――」
    「僕を除いて、かい」
     ナメッチの声ではない。けれど私の良く知る、
    「お兄ちゃん」
     電話の向こうでため息が聞こえた。
    「イサコ、どうして僕抜きで通路を開こうとした? 僕のメガネはどこへやったんだ」
     怒っているというより、なかば諦めたような口ぶりでお兄ちゃんは言った。
    「お兄ちゃんは元々”あっち”への接続に反対してたじゃない。嫌なら来なくていい。お兄ちゃんがいなくても私だけでやれる」
    「2.0に襲われたらどうする」
    「対策は打ってあるわ」
     お兄ちゃんは舌打ちした。
    「メガマスの『例外3』を引き起こしたのはやっぱりイサコだったんだな」
    「そうよ」
     お兄ちゃんが怒りを我慢しているのが伝わると、どこかに隠れていた後悔が降ってわいたように現れ、そうと悟られるのが嫌で、私はわざとらしく語気を強めた。
    「私がお姉ちゃんを助けてみせる」
    「無理だ」
     間髪入れずに返事は来た。
    「不確定事項が多すぎる。今からでも遅くない。計画を中止して戻ってくるんだ」
    「私に命令しないで!」
     その言葉を、他ならぬ私自身予想していなかった。が、ほとんど反射的に答えたそれが、結局私の言いたい全てだったのかもわからない。そう感じてしまえば、続きの文句も口をついてこぼれ出た。
    「パスワードを集めたのは私よ! お兄ちゃんは何もしてない。あの時もそうだった。お兄ちゃんが臆病だったから」
     感情が激して、心の一部がひどく痛んだ。その痛みだってお兄ちゃんに責任があるのだと思った。
    「お姉ちゃんの事故はお兄ちゃんのせいだ!」
     私は電話を切った。

     ガチャギリたちは気をつかってくれたのか、準備の間、私とお兄ちゃんのケンカについて聞いてきたりしなかった。私たちは黙々と作業を進め、お昼前にはいつでも”あっち”への通路を作れる状態になっていた。
     後はCドメインへの接続操作ひとつというところで、私は作業を止めた。
     冷や汗がにじみ、お兄ちゃんと変わらない自分の臆病さに苦笑が漏れた。それでも手は動かない。最後のその操作を自分の責任ひとつでやるには、私の決断力は未熟に過ぎたらしい。
    「うまく行ってるか?」
     正直に言って、その声が背中にかかった時、私は安心した。背中を押してくれる誰かが現れたと思ったからだ。
     だが、振り向いて出かかった笑顔は中途半端に固まった。
     ハラケンの後ろに半分隠れるようにして、カンナがこっちを見ていた。
    「イサコちゃん、こんにちは」
     カンナはこの場に完全に不似合いな挨拶をした。
    「カンナ――どうしてここに」
     カンナが答える前にハラケンが口を開いた。
    「君にはそれくらいわかってたんじゃない?」
     口元はほほえんでいるが、目は私を刺すようだ。
    「……お前は、はっきりと目的を話さなかった」
    「話してなくてもわかっていたろう、といってるんだよ。この通り、君の危惧は正しかった。そして、それは君自身の選択だ」
     ハラケンにすっかり心を見透かされていたことに私は驚き、カンナに対して恥ずかしく思った。
    「僕はこれからカンナにこの世で一番きれいなものを見せる。カンナも僕についてくると言ってくれたよ」
    「本当か?」
     自分の弱さを棚に上げて、私はカンナに聞いた。カンナですら、私と同じ弱さを持っているのだろうか。期待と不安が半分ずつ心を占め、そしてカンナがどんな返事をしてもそれは半々の安心と失望に変わるだろう。
     カンナはゆっくりと首を縦に振った。
    「私は研一と一緒に行くわ。研一のことが好きだから」
     それはこれ以上なくシンプルな答えだった。私は思わずカンナの顔をのぞき込み、それでいてすぐに目をそらした。
     カンナが強いのか弱いのか、私にはわからなくなった。何も言えずにいると、ガチャギリが耐え切れなくなったように割り込んできた。
    「おいおいイサコ、こりゃ一体どういうことなんだよ。何で探偵局のハラケンたちが出てくるんだ。こいつら、何をしようとしてるんだ」
     ハラケンは穏やかな顔を崩さずに答えた。
    「僕たちも”あっち”に行かせてもらう。イサコとそう契約したんだ」
    「何だって? 本当ですか、イサコさん」
     私は機械的にうなずいた。
    「細かい話は後にしよう。イサコ、もう準備は終わったの?」
    「ああ」
     短く答えると、同時に手が動いた。さっきまであれほどためらっていたCドメインへの最終接続を、私はほとんどなんでもないことのように終えた。
     空間の一部が強いオレンジ色に輝いた。照らし出されたカンナの顔をまともに見ることができずに私はうつむき、寄り添ったふたりの足音が次第に遠ざかるのを、まるで意味のある言葉のように聞いていた。
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