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    電脳コイル〈3.00〉 -第17話 思い出の帰る日-

    J part

     ハラケンはうまくやっているだろうか。
     私は背後を振り向いた。
     隙間なく並んだ民家の背中を通り抜け、今まで歩いてきた路地は細くゆがんで、けれどずっと向こうからまっすぐ伸びている。この眺めの思い出がないのにもかかわらず、私の心には昔を懐かしむ感情が生まれている。きっとここは親しかった誰かの風景なのだ。
     ハラケンが何を考えて私についてきたのか、結局聞くことはなかった。あいつには反発を覚えた時もあったが、それでもハラケンの心はハラケンのものだ。私は干渉すべきではないし、何より私のこれからやろうとしていることだって、ハラケンとたいして変わりないのかもしれない。それならば、聞いて自己嫌悪におちいるより、聞かずに別れたほうがお互いのためだ。私は再び前を向いて、不確かな空間を目指す先へと歩き出す。

     空間の作用だろうか。体が熱っぽく、脈と合わせて頭痛がする。何か考えようとすると痛みが激しくなるので、私はなるべく頭も心も空っぽにして、足だけを前に進める。次第に歩みも重くなる。この道をもう少し進めば、私も知っているあの風景にたどり着くのだ。
     イサコ。
     後ろから呼ばれたような気がして私は振り返る。いや、気のせいだ。後ろには、壁となって立ちふさがる家々と、照り返しでわずかに赤く染まった道しかない。ハラケンがこの道を来るはずはないのだから、一体誰が私を呼ぶというのか。
     イサコ。
     まただ。だが違う。呼び声は前から。呼び声は少し年上の女の子だ。足が止まった。
     地面に黒い染みができるのを、私はじっと眺めていた。5年間探し求めて、それなのに夢にさえ出てきてくれなかったお姉ちゃん。もし中学生になっていればどんな姿になっていたろう。どんな声で話したろう。私はひとりで想像して架空のお姉ちゃんを頭の中に作り上げていた。今聞こえた声は、私が願ったお姉ちゃんの声、そのものだ。
     路地を照らしていた夕陽の赤色が、それとわかるほどにはっきりと濃くなった。同時に闇も深く。私はこわくなる。せかされるように前へ進んで、つい踏み出たその場所は出発地とそっくり同じ、ただ時間だけが凍りついて動かない、はざま交差点だった。
     私は素早く左右を見た。大丈夫だ、誰もいない。そう思ってから何が大丈夫だったのかと苦笑し、そして目の前、交差点の反対側を見つめる。
     光る影がたたずんでいる。
    「お姉ちゃん……」
     その言葉だけがため息とともに漏れた。伝えたかったことはいくらでもある、でもそれをうまく言い表すことができなかった。やっと会えたという喜びは何故か少なく、そうしてか後ろめたさばかりが心を満たして、私はお姉ちゃんから視線をそらした。
    「助けに来たんだよ。私と一緒に帰ろう、元いた町へ」
     ひとりごとのようにそれだけつぶやいて、私は歩き出した。交差点を向こうに渡る信号は青。ずっと青のままだ。きっと私が通るのを待っているのだろう。
     道路のアスファルトがきらきらと夕陽に反射して、まるで川の流れのようだ。見上げれば遠い、くすんだ青に変わりつつある空に、星がまたたき始めている。暗く沈んだ町は次第に遠ざかり、この広い、鮮やかな世界を私とお姉ちゃんだけのものにしてくれる。そうだ、こわがりもためらいもする必要はない。お姉ちゃんはいつだって私を待ってくれていた。いつもお姉ちゃんのほうからつないでくれた手を、今度は私が差し出す番。
     踏み出した足が交差点についた瞬間、お姉ちゃんの影が首を振った。同時に、電気の走ったような嫌な感じが体に伝わる。私は反射的に飛びのいた。
    「なんだ、今のは」
     見回しても辺りはさっきと同じ風景のまま。
    「お姉ちゃん! 聞こえる? 私だよ、イサコだよ。助けに来たの」
     お姉ちゃんの影はゆらめきながら少しこっちに近づいた。よく見ると、顔のあたりの光の濃淡が表情のようなものを形作っている。ほほえんでいるのだ。私を受け入れてくれている。
    「今そっちに行くよ。一緒に帰ろう」
     もう1度、私が交差点に進み出そうとした時。
    「イサコ、待て!」
     突然、予想しなかった声が響き渡った。声は景色を揺るがし、お姉ちゃんは再び遠のいた。
     私は後ろを見ずに言った。
    「お兄ちゃん、どうしてここにいるの」
    「イサコを連れ戻すためにだ」
     お兄ちゃんは間を置かずに答えた。
    「私よりお姉ちゃんのことを考えて。ほら、見てよ。いたんだよ、お姉ちゃん」
     お兄ちゃんの足音が近づいて、私に並んだ。お姉ちゃんはやや遠ざかったけれど、十分にそれをわかる距離に立っていた。
    「ミチコなのか?」
     お兄ちゃんが声をかけると、お姉ちゃんは私にやったのと同じようにこっちに近づいた。
     お兄ちゃんは笑いともため息ともつかない息を漏らした。
    「ミチコ……。良かった、消えずにいてくれて」
     いつも落ち着いているお兄ちゃんが見せたことのない涙声を、私はむしろ不思議に思った。お兄ちゃんには私が感じた、やましさのような気持ちはないのだろうか。私の心にはあってお兄ちゃんの心にはないその感情が、小さなとげとなって私の心に残った。
    「ほら、お姉ちゃんでしょ。早く連れて帰ろう」
     私は心の傷を隠そうと、なるべく明るい声をつくろってお兄ちゃんに呼びかけた。
     お兄ちゃんははっとしたように私を見て、地面に視線を落とした。
    「どうしたの。行こうよ、早く」
    「待ってくれ」
     お兄ちゃんは私の顔を見ずに答える。
    「待つ必要なんかないじゃない。お姉ちゃん、出てきてくれたのよ。一緒に帰ろう」
     返事をしないお兄ちゃんの表情に悪い予感を覚えながら、けれどそれを振り切ろうと、私は再び交差点の横断歩道に足をついた。
     さっきと同じ悪寒が走る。全身から冷たい汗が吹き出した。
    「イサコ!」
     誰かが袖をつかんだ。お兄ちゃん? その分だけ悪寒がやわらいだ気がして、私は息をつきながら振り返った。
     が、すぐに自分の表情がこわばったのがわかった。
    「ダメよ。行っちゃダメ」
    「――何故、お前がここにいる?」
     腹が立つというよりは、ひどくみじめな気分だった。理由はわからないままに、ヤサコに見られたのが恥ずかしい。
    「あなたたちを止めに来たのよ」
     ヤサコは強気に言い放つ。だが、私はその言葉から別のことに思い当った。
    「ハラケンとカンナはどうなった」
     この場面でそんな質問は場違いだ。私はきっと、ヤサコを傷つけるためだけにそう聞いたのに違いない。
     予想どおり、ヤサコは表情を曇らせた。
    「ふたりは先に戻ったよ。自分の意志でね」
     口ごもったヤサコの後をお兄ちゃんが引き取った。
    「イサコ、僕たちも帰ろう。今はまだミチコを連れ戻せない」
     お兄ちゃんの言うことは、理屈でなく感覚で理解できた。足元の横断歩道からの悪寒。交差点の向こうで立ったままのお姉ちゃん。私たちとお姉ちゃんの間には大きな溝がある。
     だが、私にはそれを認めることができなかった。認めることは私の、お兄ちゃんの弱さだと思った。
    「ヤサコ、手を離せ」
    「イサコ!」
     ヤサコは離すどころか、つかんだ手首をますます強く握りしめてくる。
    「あなたの気持ち、わかるつもり。でもダメよ。”あっち”との接続が不安定なのよ。今連れ帰ろうとしても――」
     ヤサコはそこでまた黙りこむ。続きは聞かないでもわかった。わかったけれど、
    「だからなんだ。やってみなくちゃわからん。いや、私がなんとかする。してみせる」
     私の気持ちはヤサコなんかにはわからない。お姉ちゃんを連れ戻すために、これまでどれほどの努力を重ねて来たか。そのお姉ちゃんがもうすぐそこにいて、諦めるなんて。
    「イサコ」
     ふと目の前に影が差した。
    「僕が行くよ」
    「お兄ちゃん――」
     言葉が止まり、息がつまる。お兄ちゃんの行動に対してではない。お兄ちゃんは私と同じように交差点に入っていながら、ちっとも苦しそうではない。
    「イサコの言うとおりだ。僕は今まで臆病だった。あの時の事故も、僕のせいで起きたのかもしれない。だから僕が行く。行ってミチコを連れてくるよ」
    「信号が!」
     突然ヤサコが声を上げた。青だった信号が、点滅を始めている。夕陽が大きくかしいで、伸びた影から闇が生まれる。
    「待って! 戻れなくなる!」
     私はなかば直感で叫んだ。
    「その可能性もある。覚悟の上だ」
    「信彦さん!」
     手首を握っていたヤサコの力が弱まり、私は強引にそれを振りほどいた。
    「私も行く!」
     が、駆け出した体は見えない壁に当たって押し戻された。
    「何だ、これは!?」
     もう交差点の中ほどまで差しかかっていたお兄ちゃんは、私のほうを見てちょっと笑った。
    「イサコ、すまなかった」
     なんで今そんなことを言うのか、問いただそうとしても声にならなかった。
    「イサコ!」
     ヤサコがどなり、信号が赤に変わり、足元の地面が崩れる。耳をつんざく轟音が響いて、空に亀裂が走った。空間が壊れる。
    「お兄ちゃん、戻ってきて」
     つぶやいた言葉の届くはずもなかった。水面を隔てるように遠ざかったお兄ちゃんは、交差点の向こうでお姉ちゃんと手を取りあった。ふたりは並んでこっちを見る。はっきりと見える、お姉ちゃんの優しいほほえみ。そうだ、私はあのほほえみが好きだった。私だけのものであってほしかった。だから。
    「走って!」
     それから後は、誰かに腕を引っ張られていたことくらいしか覚えてない。音も光も、目に見えないくらいの断片になって記憶の底の塵になっていった。

     気がつくと実体に戻っていた。ヤサコやハラケンにカンナ、探偵局、黒客、全員そろっている。
     みんなは私と、電脳体を失って横たわるお兄ちゃんを取り囲んでいた。私は泣いている。お兄ちゃんを失ったことが悲しいのか、それともひとり取り残されたのが悲しいのか、私自身にもわからない。ただ支えのない心細さに、私は泣き続けた。
     空には本当の夕焼けが迫っていた。その向こうの闇が、私にはこわかった。
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