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    さくらのその

    やっとで『3.00』の新作エピソードまでたどりつきました。今後は従来どおり、週末に1パートずつ追加していきますので、どうぞよろしくお願いします。

    また、これからは他の過去作品も載せていくつもりですが、文章がまずいのはともかく、特に初期のは、小説を書く上でのお約束(スペースの付け方とか記号の打ち方といったレベルです)が守れてないので、修正しながらの掲載となります。少し時間がかかりますのはご寛恕ください。

    時に、所用で紀尾井町に出向いてまいりました。帰りに少し寄り道をしまして、紀尾井ホールのすぐ前から上智大のグラウンドを見下ろす土手に上れるんですね。

    桜というのは満開を少し過ぎると黄ばみ始め、また花の落ちたがくや新芽が点々と見えて興ざめですが、その時新しく知ったのが、夕刻の陽を通してだと黄味が隠れ、また芽の黒も逆光に沈んで、盛りの鮮やかさを取り戻すものということです。

    しかし、桜に夕映えとはなんだか食い合わせのようで、また清少納言であれば、いたずらに同様の傾向を重ね合わせ、それを興趣があると騒ぎ立てる人は、見るからに寒々しく「悪し」と断ずるでしょう。桜も夕陽も落ち、果てるものだからですね。

    我々が桜に感じる美というのは、やはりそれが儚いというのが根底にあって、桜の幹も、あれはやけに黒くてごつごつしています。そういう非生命のようなのを、にわかに白くて小さい花が埋め尽くし、そしてすぐ散ります。

    散るのを死に見立てることもできますが死というのは少し重く、流転くらいがちょうどいいかとも思いますが、その満開の時は満開であるからこそ後の散り果てぬ姿も意識され、一種こわいような鮮やかさを、安吾は究極的な孤独と捉え、また梶井基次郎はストレートに死体云々と言いました。

    桜の根本が死体なら散った花びらもまたそうでしょう。帰りの道すがら、外堀を白に染めてゆるく渦巻く無数の花びらが凄惨に見えたのもまた確かで、その辺り、人と桜の共同正犯で幻想を築いているのかもしれません。

    そういえば私は「自然と共存する」という言葉が大嫌いで、そんなことをいう人は、自分が毎日の食卓で化学工業製品のかたまりでも食ってると思ってるんでしょうか(化学工業製品だって自然ですが)。

    ただしかし人が主観において唯一無二の人たるを免れないなら、共存とはまさに逃れ得ぬ主観において共犯となるという、情感における体験の幻想を取ってしかあり得ないでしょう。
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