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    電脳コイル〈3.00〉 -第18話 あなたはいさましいこ-


     メガマスによると、一斉フォーマットの結果、危険な空間は完全に抹消したそうです。

    A part

     事件から1週間が過ぎた。
     イサコはまだ学校に来ない。最初は騒いでいたみんなも、ここ数日で急に静かになってしまった。イサコがいない環境に慣れたのだ。余計な詮索がないのは本人のためにいいのだろうけど、みんながイサコを忘れていくようで、俺は寂しかった。
     放課後、俺は誰ともつるまずにまっすぐ家へ帰った。事件が起きてからこっち、黒客はもちろん、探偵局も開店休業だ。公式にはフォーマットを終えたといいながら、メガマスはまだ警戒態勢を解除してないらしく、時々2.0の姿を見かける。
     金魚にエサをやりながら、窓に映った空を見上げる。灰色だ。メガネを通しても、そうでなくても。頭の芯がぼやっとする。俺はこのまま金魚マニアになるしかないのだろうか。
     とその時、救いの神のように電話が鳴った。はね起きて発信元を確かめる――ハラケン!?
    「おう、ダイチだけど。……どうした?」
     ハラケンとは事件以来1度も口を聞いていないのだ。
    「いや、ごめん――っていうか謝ろうと思って。ごめん」
    「謝る? 俺にか」
    「う、うん。それもそうなんだけど」
    「なら今謝ったろうが」
    「いや、うん。でも――」
     どうも要領を得ない。が、俺にはなんとなくハラケンの言いたいことがわかった。
    「とにかく一旦俺んとこ来いよ。話はそれからだ」
    「ああ。ありがとう」
     ハラケンはようやく少し朗らかな声を出した。

     5分後にハラケンは俺の部屋にいた。つまり電話をかけようかどうしようかと迷いに迷って、結局かけたのは俺の家のすぐそばまで来てからだったというわけだ。
     ふたりともしばらくは黙って部屋の隅を見つめていた。
     先に口を開いたのはハラケンだ。
    「果し合いの時に僕が裏切ったってわかったのに、どうして何も言わなかったんだい」
     ハラケンの声が思ったより穏やかだったことに俺は安心し、だが一方でどこか反発を感じてもいた。だからというわけか、答えの前半には同情が、後半にはいらだちが、それぞれこもった。
    「お前が探偵局を裏切るのならそれなりの理由があると思ったからだ。そいつを先に確かめたかった。結果としちゃ大失敗だったけどな」
     ハラケンは目を落として声もなく笑った。
    「理由を知ったら君は怒ったろうね。僕の動機は、完全なわがままさ。子供っぽい、僕のわがまま」
    「カンナがお前を止めてくれたからこそ言えるセリフだな」
     どういうわけか、ハラケンが落ち着けば落ち着くほどに俺のいらだちは高まるようだった。
    「もしカンナがお前に逆らわなかったらどうなってたろうな」
     ハラケンは首を振った。
    「カンナはそうしない。絶対にしない。僕がカンナを好きになったのは、カンナがそんな子だからだ」
     そのままゆっくりとうつむく。
    「だから、僕は完全に間違ってたんだ。すまない」
    「いいんだ。俺はもう」
     それはまあ、嘘だ。俺にだって言いたいことはたくさんある。けど、放っておけばハラケンの肩は震え出すだろう。俺が見たいのはそういう結果じゃない。謝るべき相手に、きちんと謝ってほしい。
    「行こうぜ」
     ハラケンは驚いたように顔を上げた。
    「どこへ?」
    「お前が決めんだよ」

     そういうわけで俺たちはメガシ屋へやってきた。ハラケンは、いきなりイサコの家へ行く勇気は出なかったらしい。とはいえ俺もそこは同じで、情けない話だが、ハラケンの選択にややほっとしていた。
    「皆さん、ご迷惑をおかけしました」
     居並ぶ小此木先生、メガばあ、ヤサコの3人に向かって、正座したハラケンが深々と頭を下げる。
    「もういいのよ、私たちは。終わったことじゃない」
     ヤサコが小さく笑って首を振った。メガばあもうなずく。
    「カンナの付き添いなしで来たのはほめてやるぞい。余計なのが1匹おるがの」
    「余計はねえだろ。せっかくついてきてやったのに」
    「まあまあ、怒るな、ダイチ。ハラケンもこれで探偵局復帰じゃな」
     小此木先生が無難にまとめて、
    「しかし、問題はこの先じゃて」
     少し眉をひそめた。
     俺はここで、一番気になっていた疑問を口にした。
    「メガマスが空間のフォーマットは終わったって言ってるよな。あれ、本当なのか」
     もしそれが事実なら、イサコの兄さんがこっちに戻ってくる手段はない。それどころか、最悪古い空間と一緒にデリートされてしまった可能性もある。
     俺の顔色を読んだメガばあが口を出した。
    「安心せい。”あっち”自体は残っておる」
    「本当に!?」
     ハラケンがぱっと顔を輝かせた。
    「オババのいうとおりじゃ。2.0の本体が古い空間にあったのはおぬしらも見たろう? メガマスは古い空間を手つかずの空き地として利用するつもりじゃ。消したりはせん。よってミチコも天沢信彦も、まだ”あっち”に存在する」
     俺は思わず大きなため息をついて、ハラケンと顔を見合わせた。とりあえず、最悪の事態は免れたらしい。
     だが、ヤサコの言葉が俺たちの気持ちを破った。
    「悪いけど、ふたりとも、安心するのは早いのよ。”あっち”が残ってることはわかった。でも、”あっち”に行く手段はもうないの」
    「何だって!?」
     俺とハラケンはまたも顔を見合わせた。小此木先生がしぶい顔でお茶をひと口すすり、話し出す。
    「メガマスはの、古い空間を残す代わりに、通常空間の接点を徹底的に管理して、2度と空間事故が起こらない体制を整えつつあるんじゃ。具体的には、空間管理室からメガマスへの大幅な権限移譲と、サーチマトンとして2.0の正式配備じゃな。昨日の大黒市議会で、メガマスは大黒の電脳空間を特別保護区として管理する条例を、超スピード採決で通してしまったんじゃ」
    「け、ケンゲンイジョー? トクベツホゴク?」
     当然俺には何のことやらさっぱりわからない。メガばあがちらと俺を見て口を開いた。
    「ダイチの頭にもわかるようにかみ砕いていえばこうじゃ。大黒市内の電脳空間の管理は、今まで空間管理室がやっておったろう。つまり、サッチーを走らせて空間のメンテをするのは大黒市だったわけじゃ。じゃが、今後は電脳空間を直接メガマスがメンテする。裏を返せば、これからはメガマスのやりたい放題じゃ。サッチーの代わりに2.0が巡回するようになるから、古い空間との接点は徹底的にフォーマットされるの。それどころか、今までみたいなお茶目なツールを使ったメガネ遊びもできん。商売あがったりじゃ」
    「オババ、お店のことはいいから。それより、何か方法はないの? 例えばメガシ屋の中に古い空間を作ったりとか。あっ、鹿屋野神社でもいいわ」
     ヤサコは無理に明るい声で言ったが、メガばあは左右に首を揺すった。
    「残念ながら、それもダメじゃ。2.0の正式名称は、電脳治安維持法に基づく……、基づく、何じゃったかの」
     オジジが後を引き継ぐ。
    「『電脳治安維持法に基づく緊急避難的措置としての超法規的電脳装置』じゃ。そういっても何だかわからんじゃろうがの、要は、電脳空間維持のためなら、2.0は法律を無視して行動できる。フミちゃんからの又聞きじゃが、黒客のアキラ君の体験では、実際に2.0は鹿屋野神社に入ってきたそうじゃ。先週の一斉フォーマットの時、空間異常の激しかった地域では民家に侵入してきたという情報もちらほら入ってきておる」
    「そんな……。じゃあ、僕たちは一体どうしたら」
     ハラケンがつぶやいて頭を抱えた。
    「オバちゃんとか宗助さんを通じて対抗手段が取れないのか」
     思いついたことを聞くと、メガばあは再び首を振った。
    「ふたりは先週の騒ぎの責任を取って出勤停止になったぞい。無期のな。事実上のクビじゃよ。今回ばかりは、本当に打つ手なしじゃ」
     重い空気が降りた。いくら考えても、この状況を打開できるような方法は思いつかない。
    「そうじゃ、先週の騒ぎといえば、ひとついいニュースもあるぞい。メガマスでは、事件は全て空間管理室の怠惰によって引き起こされた、ウィルスの一時的大量繁殖によるもの、と結論づけるそうじゃ。よって、イサコのやったサイバーテロは不問に付される。強力なオートマトンを導入しておきながら、小学生の単独ハッカーにやられましたとは、メガマスも口が裂けても言えんようじゃな」
    「そうか……」
     不幸中の幸い、だろうか。俺は今日何度やったかわからんが、またしてもハラケンと顔を見合わせて、ふたりで大きなため息をついた。
    「これからイサコの家へ行くの?」
     気がつくと、ヤサコが俺たちを見つめていた。ハラケンが口ごもったので、代わりに俺が答えた。
    「そのつもりだ。ヤサコはもう行ったか」
    「ううん」
    「じゃあその、どうだ? お前も一緒に行かないか。そうだ、フミエも呼んで、4人で」
     道連れはひとりでも多いほうが頼もしかった。
    「そうね……」
     うなずきかけたヤサコを、意外にもハラケンがさえぎった。
    「待って。イサコの家には、僕たちだけで行く」
    「えっ、何でだよ」
    「その……、ヤサコには、今度の事件で特に迷惑をかけたから。これ以上力を借りるのは悪いよ」
     ヤサコは黙ってハラケンを見ている。
    「そうじゃ、そろそろ店番に戻らんと。2.0が来る前に店のおもちゃをたたき売らんといかんでな」
    「わしも病院に行くとするか。情報集めもあるし、そもそも最近腰が痛くての」
     メガばあと先生のふたりはさっさと部屋を出ていき、俺は取り残された。さっきよりも深い沈黙がやってくる。
     許したといっても、ヤサコの心にはまだわだかまっているものがある。それは俺にだってわかる。
    「ヤサコ、本当にごめん。僕は本当にひどいことをした」
     やがてハラケンが言って、畳に手をついた。
    「もういい、いいの――」
     ヤサコはやや虚ろに答え、その後でうつむいた。
    「やっぱりダメかも」
     ヤサコは突然立ち上がった。
    「ちょっと来て」
     ハラケンのすそをつかんで強引に立ち上がらせ、床の間からいずこかへ引きずっていく。
    「お、おい」
    「ダイチ君はそこで待ってて」
     ヤサコはぴしゃりと言ってのけ、襖を閉めた。
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    電脳コイル〈3.00〉 -第17話 思い出の帰る日-

    J part

     ハラケンはうまくやっているだろうか。
     私は背後を振り向いた。
     隙間なく並んだ民家の背中を通り抜け、今まで歩いてきた路地は細くゆがんで、けれどずっと向こうからまっすぐ伸びている。この眺めの思い出がないのにもかかわらず、私の心には昔を懐かしむ感情が生まれている。きっとここは親しかった誰かの風景なのだ。
     ハラケンが何を考えて私についてきたのか、結局聞くことはなかった。あいつには反発を覚えた時もあったが、それでもハラケンの心はハラケンのものだ。私は干渉すべきではないし、何より私のこれからやろうとしていることだって、ハラケンとたいして変わりないのかもしれない。それならば、聞いて自己嫌悪におちいるより、聞かずに別れたほうがお互いのためだ。私は再び前を向いて、不確かな空間を目指す先へと歩き出す。

     空間の作用だろうか。体が熱っぽく、脈と合わせて頭痛がする。何か考えようとすると痛みが激しくなるので、私はなるべく頭も心も空っぽにして、足だけを前に進める。次第に歩みも重くなる。この道をもう少し進めば、私も知っているあの風景にたどり着くのだ。
     イサコ。
     後ろから呼ばれたような気がして私は振り返る。いや、気のせいだ。後ろには、壁となって立ちふさがる家々と、照り返しでわずかに赤く染まった道しかない。ハラケンがこの道を来るはずはないのだから、一体誰が私を呼ぶというのか。
     イサコ。
     まただ。だが違う。呼び声は前から。呼び声は少し年上の女の子だ。足が止まった。
     地面に黒い染みができるのを、私はじっと眺めていた。5年間探し求めて、それなのに夢にさえ出てきてくれなかったお姉ちゃん。もし中学生になっていればどんな姿になっていたろう。どんな声で話したろう。私はひとりで想像して架空のお姉ちゃんを頭の中に作り上げていた。今聞こえた声は、私が願ったお姉ちゃんの声、そのものだ。
     路地を照らしていた夕陽の赤色が、それとわかるほどにはっきりと濃くなった。同時に闇も深く。私はこわくなる。せかされるように前へ進んで、つい踏み出たその場所は出発地とそっくり同じ、ただ時間だけが凍りついて動かない、はざま交差点だった。
     私は素早く左右を見た。大丈夫だ、誰もいない。そう思ってから何が大丈夫だったのかと苦笑し、そして目の前、交差点の反対側を見つめる。
     光る影がたたずんでいる。
    「お姉ちゃん……」
     その言葉だけがため息とともに漏れた。伝えたかったことはいくらでもある、でもそれをうまく言い表すことができなかった。やっと会えたという喜びは何故か少なく、そうしてか後ろめたさばかりが心を満たして、私はお姉ちゃんから視線をそらした。
    「助けに来たんだよ。私と一緒に帰ろう、元いた町へ」
     ひとりごとのようにそれだけつぶやいて、私は歩き出した。交差点を向こうに渡る信号は青。ずっと青のままだ。きっと私が通るのを待っているのだろう。
     道路のアスファルトがきらきらと夕陽に反射して、まるで川の流れのようだ。見上げれば遠い、くすんだ青に変わりつつある空に、星がまたたき始めている。暗く沈んだ町は次第に遠ざかり、この広い、鮮やかな世界を私とお姉ちゃんだけのものにしてくれる。そうだ、こわがりもためらいもする必要はない。お姉ちゃんはいつだって私を待ってくれていた。いつもお姉ちゃんのほうからつないでくれた手を、今度は私が差し出す番。
     踏み出した足が交差点についた瞬間、お姉ちゃんの影が首を振った。同時に、電気の走ったような嫌な感じが体に伝わる。私は反射的に飛びのいた。
    「なんだ、今のは」
     見回しても辺りはさっきと同じ風景のまま。
    「お姉ちゃん! 聞こえる? 私だよ、イサコだよ。助けに来たの」
     お姉ちゃんの影はゆらめきながら少しこっちに近づいた。よく見ると、顔のあたりの光の濃淡が表情のようなものを形作っている。ほほえんでいるのだ。私を受け入れてくれている。
    「今そっちに行くよ。一緒に帰ろう」
     もう1度、私が交差点に進み出そうとした時。
    「イサコ、待て!」
     突然、予想しなかった声が響き渡った。声は景色を揺るがし、お姉ちゃんは再び遠のいた。
     私は後ろを見ずに言った。
    「お兄ちゃん、どうしてここにいるの」
    「イサコを連れ戻すためにだ」
     お兄ちゃんは間を置かずに答えた。
    「私よりお姉ちゃんのことを考えて。ほら、見てよ。いたんだよ、お姉ちゃん」
     お兄ちゃんの足音が近づいて、私に並んだ。お姉ちゃんはやや遠ざかったけれど、十分にそれをわかる距離に立っていた。
    「ミチコなのか?」
     お兄ちゃんが声をかけると、お姉ちゃんは私にやったのと同じようにこっちに近づいた。
     お兄ちゃんは笑いともため息ともつかない息を漏らした。
    「ミチコ……。良かった、消えずにいてくれて」
     いつも落ち着いているお兄ちゃんが見せたことのない涙声を、私はむしろ不思議に思った。お兄ちゃんには私が感じた、やましさのような気持ちはないのだろうか。私の心にはあってお兄ちゃんの心にはないその感情が、小さなとげとなって私の心に残った。
    「ほら、お姉ちゃんでしょ。早く連れて帰ろう」
     私は心の傷を隠そうと、なるべく明るい声をつくろってお兄ちゃんに呼びかけた。
     お兄ちゃんははっとしたように私を見て、地面に視線を落とした。
    「どうしたの。行こうよ、早く」
    「待ってくれ」
     お兄ちゃんは私の顔を見ずに答える。
    「待つ必要なんかないじゃない。お姉ちゃん、出てきてくれたのよ。一緒に帰ろう」
     返事をしないお兄ちゃんの表情に悪い予感を覚えながら、けれどそれを振り切ろうと、私は再び交差点の横断歩道に足をついた。
     さっきと同じ悪寒が走る。全身から冷たい汗が吹き出した。
    「イサコ!」
     誰かが袖をつかんだ。お兄ちゃん? その分だけ悪寒がやわらいだ気がして、私は息をつきながら振り返った。
     が、すぐに自分の表情がこわばったのがわかった。
    「ダメよ。行っちゃダメ」
    「――何故、お前がここにいる?」
     腹が立つというよりは、ひどくみじめな気分だった。理由はわからないままに、ヤサコに見られたのが恥ずかしい。
    「あなたたちを止めに来たのよ」
     ヤサコは強気に言い放つ。だが、私はその言葉から別のことに思い当った。
    「ハラケンとカンナはどうなった」
     この場面でそんな質問は場違いだ。私はきっと、ヤサコを傷つけるためだけにそう聞いたのに違いない。
     予想どおり、ヤサコは表情を曇らせた。
    「ふたりは先に戻ったよ。自分の意志でね」
     口ごもったヤサコの後をお兄ちゃんが引き取った。
    「イサコ、僕たちも帰ろう。今はまだミチコを連れ戻せない」
     お兄ちゃんの言うことは、理屈でなく感覚で理解できた。足元の横断歩道からの悪寒。交差点の向こうで立ったままのお姉ちゃん。私たちとお姉ちゃんの間には大きな溝がある。
     だが、私にはそれを認めることができなかった。認めることは私の、お兄ちゃんの弱さだと思った。
    「ヤサコ、手を離せ」
    「イサコ!」
     ヤサコは離すどころか、つかんだ手首をますます強く握りしめてくる。
    「あなたの気持ち、わかるつもり。でもダメよ。”あっち”との接続が不安定なのよ。今連れ帰ろうとしても――」
     ヤサコはそこでまた黙りこむ。続きは聞かないでもわかった。わかったけれど、
    「だからなんだ。やってみなくちゃわからん。いや、私がなんとかする。してみせる」
     私の気持ちはヤサコなんかにはわからない。お姉ちゃんを連れ戻すために、これまでどれほどの努力を重ねて来たか。そのお姉ちゃんがもうすぐそこにいて、諦めるなんて。
    「イサコ」
     ふと目の前に影が差した。
    「僕が行くよ」
    「お兄ちゃん――」
     言葉が止まり、息がつまる。お兄ちゃんの行動に対してではない。お兄ちゃんは私と同じように交差点に入っていながら、ちっとも苦しそうではない。
    「イサコの言うとおりだ。僕は今まで臆病だった。あの時の事故も、僕のせいで起きたのかもしれない。だから僕が行く。行ってミチコを連れてくるよ」
    「信号が!」
     突然ヤサコが声を上げた。青だった信号が、点滅を始めている。夕陽が大きくかしいで、伸びた影から闇が生まれる。
    「待って! 戻れなくなる!」
     私はなかば直感で叫んだ。
    「その可能性もある。覚悟の上だ」
    「信彦さん!」
     手首を握っていたヤサコの力が弱まり、私は強引にそれを振りほどいた。
    「私も行く!」
     が、駆け出した体は見えない壁に当たって押し戻された。
    「何だ、これは!?」
     もう交差点の中ほどまで差しかかっていたお兄ちゃんは、私のほうを見てちょっと笑った。
    「イサコ、すまなかった」
     なんで今そんなことを言うのか、問いただそうとしても声にならなかった。
    「イサコ!」
     ヤサコがどなり、信号が赤に変わり、足元の地面が崩れる。耳をつんざく轟音が響いて、空に亀裂が走った。空間が壊れる。
    「お兄ちゃん、戻ってきて」
     つぶやいた言葉の届くはずもなかった。水面を隔てるように遠ざかったお兄ちゃんは、交差点の向こうでお姉ちゃんと手を取りあった。ふたりは並んでこっちを見る。はっきりと見える、お姉ちゃんの優しいほほえみ。そうだ、私はあのほほえみが好きだった。私だけのものであってほしかった。だから。
    「走って!」
     それから後は、誰かに腕を引っ張られていたことくらいしか覚えてない。音も光も、目に見えないくらいの断片になって記憶の底の塵になっていった。

     気がつくと実体に戻っていた。ヤサコやハラケンにカンナ、探偵局、黒客、全員そろっている。
     みんなは私と、電脳体を失って横たわるお兄ちゃんを取り囲んでいた。私は泣いている。お兄ちゃんを失ったことが悲しいのか、それともひとり取り残されたのが悲しいのか、私自身にもわからない。ただ支えのない心細さに、私は泣き続けた。
     空には本当の夕焼けが迫っていた。その向こうの闇が、私にはこわかった。

    電脳コイル〈3.00〉 -第17話 思い出の帰る日-

    I part

    「夕暮れがきれいなのは何故か、わかる?」
     僕は言った。

     小さい頃から僕はいつも、一見くだらない、答えのない問いの答えを探していた。するといつも、懐かしさと恐れのない交ぜになった感情がわき上がる。
     その感情をなんと名付ければいいのかわからない。半分は宙ぶらりんな気持ち、けれどもう半分はこれで良かったのだいうわけもない安心感。春の穏やかな午後のようにゆったりとした気分で、僕は幸せさを感じる。同時に寂しさ。僕の心をのぞけるのは僕ひとりだから、僕は一生、僕ひとりに違いない。
     それはカンナと会ってからも変わらなかった。お互いひとりっこで家も近かった僕たちは出会ってすぐ仲良くなった。でも、僕は僕のくだらない問いをカンナには明かさなかった。カンナは多分、僕が人生で初めて会った他人なのだ。だから僕はカンナと一緒にいて時に怒り、傷つき、いらだった。ケンカもした。それでもふたりでいて、なんとなくそれが当り前だと思っていた。
    「『わかりあう』って大事よね」
     いつかカンナがそう言った時、僕は笑ってしまった。カンナのいうことはとても幼いか、それとも非現実的に思えた。僕たちがわかりあうことはない。僕はそう信じていたからだ。
     そう伝えるとカンナは答えた。
    「そうね。それでも大事だと思わない?」
     僕は心に鈍い衝撃を感じた。カンナと僕は、僕が考えている以上に違ったから。それでいて、カンナの言葉は僕の心の別の部分を刺した。
     僕たちは違う。それでも、お互いの言葉はお互いの心に何かを伝える。それは時々、僕たちの違いをはっきりと示して悲しい。けれど、その違いから新しい風景を見つけることができる。
     好きだと伝えあった時、僕たちはわかりあっていた。すぐその次の日にはそれがひとりよがりだったのではないかとも思ったけど、カンナといると僕は何かがつながっているのを感じた。引越しの日が近づくにつれその感じはますます強く僕の心の隅々にまで根を張った。

    「夕方の太陽の光って空気の中を進む距離が多くなるでしょ。そうすると青い光が散らばって、赤とか黄色がよく見えるようになるんだって」
     僕はぽかんとした。カンナはウィンドウを立ち上げて、どこかの事典サイトを見ている。
    「おもしろいわね」
     カンナは僕を振り返り、首を傾げた。不安定に髪に引っかかったハルジオンがくるりと向きを変える。僕は笑っていた。
    「待って」
     カンナは平手を突き出して僕の答えを押しとどめた。
    「そういうことじゃないっていうんでしょ。もちろんそう。だけどそうじゃないかも。私って意外とそういうこと調べるの好きなんだよ。知ってた?」
    「いや」
     僕はほほえんだままで短く答えた。いわれてみればカンナは理科の成績がとてもいい。
    「行こうか」
     立ち上がると目の前に横断歩道と歩行者用信号があった。信号は青だけど、すぐに点滅が始まるだろう。僕たちは行かなくちゃ。
    「私を連れていきたいの」
     僕を追って立ったカンナが聞いて、大きな瞳で僕を見すえた。
    「そうだ」
     僕はうなずく。
    「”あっち”に行けば、僕たちはこれからずっと、永遠に一緒だ」
    「さっきこわいっていったくせに」
     カンナはいたずらめかして笑った。笑いの奥に違う感情がのぞいた。
    「こわいさ、何もかも。進むのもこわい、帰るのもこわい。でも一番こわいのは」
     カンナを失ってしまうことだ。僕がカンナを見つめると、涙がひと筋こぼれた。
     カンナは不思議そうに涙を眺め、そして言った。
    「研一が私を好きだっていってくれるの、すごくうれしい。私が研一を好きなのも同じくらい。だから行かない」
    「行かない?」
     僕の思考は少し混乱した。カンナが”あっち”に行くのを嫌がるかもしれないとは予想していた。けれど、うれしいなら。
    「僕はカンナのことが好きだ。カンナも僕のことが好きなんだろ。だったら一緒に行こう。それが僕たちがふたりきりでいられるたったひとつの方法なんだから。僕たちが幸せになれるたったひとつの――」
     僕はカンナの手を取った。温かい手。カンナは僕を見つめたまま、力強く手を握り返した。
    「このまま行っても、研一は幸せになれないわ。私も」
    「そんなことない!」
     僕は首を振る。
    「僕がカンナを幸せにする。それに、カンナが幸せなら僕も幸せなんだ。絶対だ」
    「研一の気持ち、とてもうれしい」
     カンナの声ははっきりと響く。全てがあいまいに温かい夕焼けにひたされたこの空間で、その声には少しだけ違和感があった。
    「でも、研一もさっき言ったでしょ。私たちって変わっていくものだよ。変わらないのはおかしい。ずっと、永遠にって、違うよ。私たちが望んでることと」
    「違わない! 僕の望みは変わらない。カンナ、君だって。行けばわかる」
     そこでカンナは目を落とした。
    「行くよ」
    「え?」
    「行く」
     カンナは僕たちのつないだ手を大げさにふってみせた。
    「私の言いたいことは言った。私はきっと幸せになれない。でも研一が幸せならそれでもいいよ。行こう」
     カンナは横断歩道に向かって歩き始める。僕は慌てて止めた。
    「ちょ、ちょっと待って」
    「どうして? 研一が行きたいって言ったんでしょ」
    「そりゃ言ったけど、でもこれじゃダメだ。僕はカンナに幸せでいてほしい。僕がカンナを幸せにする。それをわかってもらってから”あっち”へ行きたいんだ」
     カンナは振り返った。視線が僕を射た。
    「私は変わりたい。変わっていっても研一のことを好きでい続けたい」
     僕は答えられなかった。
    「研一がもうこれ以上変わらないでいてほしいなら、私は研一と一緒に行くわ。でも、私がそれを幸せと感じるようになるなら、それは研一が望んだ、研一の心の中だけの私にすぎない」
    「違う……」
     それは違う。僕はありのままのカンナが好きだった。僕の心の中で、自分勝手にカンナの虚像を作り出したりはしていない。
    「私ってけっこうイヤな子だよ。たとえばヤサコのこととか」
     カンナはさっきまでヤサコの立っていた方向を見ながら言った。
    「私、ヤサコのこと好き。友達になりたかった。だけどヤサコが研一を好きだっていうのも気づいてた。だから私から近づいたの。仲良くなれば、ヤサコのほうからあきらめてくれるだろうと思って。ヤサコがなおさら傷つくのわかってて、そうしたの」
     僕はさっきのヤサコの姿を思った。そうして、カンナとヤサコというのを思った。それはひとつの疑問で、その疑問は澱のように残った。
    「イサコちゃんも同じ。イサコちゃんが暗号を使って危ないことをやってるのを知ってて、私は止めなかった。探偵局のみんなは、ケンカになっても止めようとしたのに。私ひとりずるかった」
     そういえばイサコは、僕の前でだけ不安そうな表情を見せることがあった。僕たちと途中で別れたイサコはどうなったろう。
    「そんなずるい私が、私は嫌い。研一、知らなかったでしょ」
     僕は息をついた。
    「僕は好きだ」
     知ってる。僕はそんなカンナの弱さも、自身の弱さに傷つく心も知っていて、それがみんな好きだ。それに、カンナは必ず弱さを乗り越える。これまでもそうしてきた。これからも――?
     これからをなくしたら、カンナは変わらない。
    「変わらない私は幻」
     カンナがつぶやいたのを聞いて、僕が気づいたことがある。
     僕は変わっていくカンナが好きだった。
     成長する、と言ったら、齢が同じなんだからおこがましいのかもしれないけれど、たとえ同じものを見たとしても、昨日のカンナと今日のカンナではその受け止め方が違う。僕にはその些細な違いがよくわかって、何故か知らないけれどうれしかった。そうして、カンナに引っ張られて僕自身も変わってきた。その結果が今の僕で、それはやっぱり、これからも。
     でも、カンナがいなくなったら。
    「僕にはわからない」
     カンナのいないままに変わる僕はこわかった。でも変わらないのもこわい。嘘だった。僕は嘘の中に僕たちを閉じ込めようとして、だけどそうしなかったらカンナはいなくなってしまう。
     僕はいつの間にかしゃがみこんでいた。カンナの影が僕にかかる。全てを飲み込みそうなくらいに黒い影だった。
    「いなくならないよ」
     よく見ると僕にも影があった。
    「私はここにいるよ。研一もいなくならないで。私にはそれで十分」
     そういえるカンナは強いと思った。僕なんかよりよっぽど。そうして僕は。
    「帰ろう」
     カンナとみんなと一緒に、これからも変わっていく。

    「さっきの答えね」
     出口が見えてきたころ、カンナがふとつぶやいた。
    「沈んで、巡るから」
     多分正解だ。それを確かめに、僕たちは戻る。

    さくらのその

    やっとで『3.00』の新作エピソードまでたどりつきました。今後は従来どおり、週末に1パートずつ追加していきますので、どうぞよろしくお願いします。

    また、これからは他の過去作品も載せていくつもりですが、文章がまずいのはともかく、特に初期のは、小説を書く上でのお約束(スペースの付け方とか記号の打ち方といったレベルです)が守れてないので、修正しながらの掲載となります。少し時間がかかりますのはご寛恕ください。

    時に、所用で紀尾井町に出向いてまいりました。帰りに少し寄り道をしまして、紀尾井ホールのすぐ前から上智大のグラウンドを見下ろす土手に上れるんですね。

    桜というのは満開を少し過ぎると黄ばみ始め、また花の落ちたがくや新芽が点々と見えて興ざめですが、その時新しく知ったのが、夕刻の陽を通してだと黄味が隠れ、また芽の黒も逆光に沈んで、盛りの鮮やかさを取り戻すものということです。

    しかし、桜に夕映えとはなんだか食い合わせのようで、また清少納言であれば、いたずらに同様の傾向を重ね合わせ、それを興趣があると騒ぎ立てる人は、見るからに寒々しく「悪し」と断ずるでしょう。桜も夕陽も落ち、果てるものだからですね。

    我々が桜に感じる美というのは、やはりそれが儚いというのが根底にあって、桜の幹も、あれはやけに黒くてごつごつしています。そういう非生命のようなのを、にわかに白くて小さい花が埋め尽くし、そしてすぐ散ります。

    散るのを死に見立てることもできますが死というのは少し重く、流転くらいがちょうどいいかとも思いますが、その満開の時は満開であるからこそ後の散り果てぬ姿も意識され、一種こわいような鮮やかさを、安吾は究極的な孤独と捉え、また梶井基次郎はストレートに死体云々と言いました。

    桜の根本が死体なら散った花びらもまたそうでしょう。帰りの道すがら、外堀を白に染めてゆるく渦巻く無数の花びらが凄惨に見えたのもまた確かで、その辺り、人と桜の共同正犯で幻想を築いているのかもしれません。

    そういえば私は「自然と共存する」という言葉が大嫌いで、そんなことをいう人は、自分が毎日の食卓で化学工業製品のかたまりでも食ってると思ってるんでしょうか(化学工業製品だって自然ですが)。

    ただしかし人が主観において唯一無二の人たるを免れないなら、共存とはまさに逃れ得ぬ主観において共犯となるという、情感における体験の幻想を取ってしかあり得ないでしょう。

    電脳コイル〈3.00〉 -第17話 思い出の帰る日-

    H part

     空間の裂け目をくぐり、外の景色を見た瞬間、私はそこが大黒だと気づいた。今の景色とはかなり違っていて、見覚えのない建物ばかりだったが、それでもわかる。
    「これは何年も前の大黒市だ」
     信彦さんがつぶやいた。
    「ええ、そうね」
     答えると、信彦さんはびっくりしたような顔で私を見た。
    「君は僕たちと同じ頃に越してきたって聞いてたんだが、知ってるのか」
    「知ってるというより、覚えてるっていうか、なんとなくわかるの」
    「そうか」
     返事に納得した感じはなかったが、とにかく信彦さんはうなずいた。
    「それより、あなたこそどうしてここが大黒だってわかったの?」
    「僕は昔、ここに住んでいたんだ。もちろんイサコもね」
    「えっ」
     イサコからそんな話は聞いていなかった。
    「住んでいたといっても、短い間だ。1年とちょっとくらいかな。僕たちの見ているこの風景は、その頃の大黒のものさ」
    「そうだったの……」
     しばらくの間、私たちはふたり並んで、初めて見る”あっち”の、それなのにどこか懐かしい町を眺めていた。懐かしいという気持ちは私たちの内のもので、風景は外のものだ。けれど私には、それとも私たちには、外と内との境はなく、今見ている景色そのものが懐かしさという感情を含んでいるように見えた。逆に言うなら、目の前に広がる大黒の町並みは、私たちの心の中から生まれてここにあるのかもしれなかった。
    「道は知ってる。行こう」
     信彦さんが歩き出し、私は半歩遅れて続いた。
     町の景色をよく見ると、しっかりと作られている場所と、いい加減というほどでもないけど、どこか作り物めいた場所がある。信彦さんの向かう方角には、だんだんリアルではない側の町並みが増えていった。フミエちゃんの見たという2.0の巣はない。多分、フミエちゃんとは反対のほうへ進んでいるのだろう。
     人の気配の感じられない町だった。それでいて、目に見えないところで何か、私たちの知らない生き物がうごめいているような、ひと言でいうなら薄気味の悪い、落ち着かない気分だ。
    「どれくらい歩くの」
     だんだん心細くなってきた私は信彦さんに声をかけた。
    「けっこうかかるね。30分くらいかな」
     素っ気ない答えが返ってくる。
    「そんなに? ここ、大黒なんでしょ。30分も歩いたら町を抜けちゃうわよ」
    「大黒市を模した空間といっても、そのままのコピーじゃない」
    「えっ、どうして」
    「空間の整合性がないからだよ」
    「せいごうせい?」
    「ああ」
     信彦さんは話を打ち切りたがっているみたいだったけど、私は食い下がった。
    「それ、どういうことなの?」
    「君はイマーゴが使えるわりにものを知らないな」
     信彦さんは根負けしたように私を振り返った。
    「そもそもCドメインは、遺棄されたコイルスの空間だ。それくらいは知ってるね」
    「ええ、まあなんとなく」
     頼りない返事に信彦さんはため息をついた。
    「歩きながら基本から説明しよう。当り前だけど、僕たちがさっきまでいた現実空間は、大黒市の本当の町並みにぴったり重ねて作られてるよね」
    「それはわかるわ」
    「道路の整備とか新しい建物の建設とか、町はどんどん変わっていく。それでも電脳空間が現実と合わさっている、つまり空間の整合が取れているのは、僕たちのメガネやオートマトンによって、電脳空間が常に上書きされ続けているからだ。これも常識として知ってるだろ」
    「うん」
     うなずくと、信彦さんは話を続けた。
    「ところがここはそうじゃない。ベースにコイルスが管理していた頃の大黒市があって、そこに時々情報が追加される。電脳霧ってあるだろう。あれが街中に発生してる時、現実空間ではCドメインが現在の空間に上書きされて古い空間が発生しているんだけど、逆にCドメインにも現実空間がコピーされてくる」
    「それって、現実空間とCドメインが入れ替わるってこと?」
    「ちょっと違う。Cドメインのベースはフォーマットできないんだ。サッチーのやってるフォーマットは、リンクを切断してその上に最新の情報を書いてるだけ。だから、何度フォーマットしても電脳霧は現れる。逆に、Cドメインのほうでは、元からある空間に、コピーされてきた空間がだぶってしまう。上書きされるんじゃなく、二重化してしまうんだ。それをなんとかするために、町並みを切って、コピーされた空間を無理に埋め込んでいる」
     よくわからなくなってきた。
    「ごめんなさい、それってパッチワークみたいなもの?」
    「いや、パッチワークなら切れ目に新しい布地をかぶせて覆ってしまうだろ。それはむしろ現実空間に近い。Cドメインでは、切れ目に沿って布地をつないでいる。布に切りこみを入れて、ポケットを作るっていえばイメージできるかな」
    「ポケットはわかるけど、それじゃ空間がだぶだぶになっちゃうじゃない」
    「そうさ、それで間違いない」
     信彦さんはにっとほほえんだ。その笑いはイサコに似ているような気がして、しかしよく考えると私はイサコのそんな笑顔なんて見たことがないのだった。
    「Cドメインには到るところに空間のポケットが作られている。というよりは、もう元の空間とポケットの区別がつかない。だから、外部からCドメインを正確に観測することはできない。中にいる人を呼ぶには、自身がそこに入らなくてはならない」
     その言葉で、私は自分の目的を思い出した。信彦さんとの会話で軽くなっていた心がずんと沈み込む。
     どうして? 私はハラケンを助けたいのに。ハラケンとカンナが仲良くしている姿を見たくないから? それとも他の、私自身にも隠された理由がある?
    「そう、だったな」
     何も言ってないのに、信彦さんは私の顔を見て納得したようにうなずいた。その目に、私と同じ辛さがかいま見えた。
     黙ったまま、ふたりでしばらく進んだ。
     信彦さんが突然、ぽつりと言った。
    「小此木さんは何のために”あっち”へ行くの?」
    「え? 知ってるでしょ、ハラケンとカンナを助け……連れ戻しに」
     信彦さんの目に夕焼けの光が宿った。
    「ふたりが戻りたくないと言ったらどうするんだい」
     私は立ち止まる。足が進まなくなった。
    「現実世界よりもふたりの幸福を選ぶと言ったら」
     信彦さんも足を止め、私を振り向いた。その声はイサコと似て、低く心地良かった。
    「そんなの間違ってる!」
     それでも私は叫ぶ。
    「間違ってると君に断言できるのか」
    「できる! 会ってハラケンにそう伝えるわ」
    「蛮勇」
     信彦さんは寂しそうに笑った。
    「イサコにもそうあってほしいな。あの子には前に進む力が欠けてるから」
    「えっ」
     意外を通り越して、実は信彦さんはイサコについてよく知らないんじゃないかさえと思った。あんなに行動的なイサコに、力が欠けてるなんて。
    「信じられないという顔だね。でも、案外すぐに、君にはわかるかもしれないよ」
     どうして、と聞く前に信彦さんは前を向いた。
    「もうすぐ”あっち”だ。原川君と葦原さん、それにイサコもそこにいる。3人を連れて早く戻ろう。空間が不安定になってきてる」

     空は暮れない夕映えで真っ赤だった。
    「懐かしさとこわさってちょっと似てるよね」
     ハラケンは水路岸の土手に腰を降ろしている。水面は油を張ったように静かで、ふたりの姿、青く染まり始めた雲、沈む草の緑、映し出されたそれらはゆっくりと混ざり合ってひとつになる。
    「2度と手に入らないとわかるから?」
     並んで座ったカンナは、手元にあったハルジオンの花を摘んでハラケンの頭に飾り、すぐに吹き出した。
    「やだ、似合わない」
    「わかってるならやるなよ」
     ハラケンは少し乱暴に花をつかみ取って、カンナの髪に差した。小さな花はカンナの柔らかい髪にぴったりなじむ。
    「手に入らないんじゃなくて、それはもう僕のものなんだ。手に入れたんだ。そうして、永遠に変わらず僕のものになってしまったのがこわい。変わるのはこわい。でもそれ以上に、変わらないのは」
     ハラケンは頭を抱えた。
    「考えすぎよ」
     カンナは立ち上がり、そして私に気づいた。
    「ヤサコが来てくれたわよ」
     ハラケンは素早く振り返って、カンナをかばうようにその前に立った。
    「何の用だい」
    「戻ろう」
     胸が苦しくて、やっと私はそれだけ言った。
     ハラケンは黙って首を振る。
    「どうして? ここは私たちのいていいところじゃない。家に帰ろうよ」
    「家、か」
     ハラケンは顔を上げた。不意に夕焼けが閃いて、私は思わず目を閉じた。すぐに開けると、今まで川と思っていたのは2車線の道路だった。タイヤに磨かれたアスファルトが輝く。ガードレールの根元からやせたハルジオンが1輪、ななめに伸びている。カンナの姿はない。
    「信彦さんが、空間が不安定になってるって。外には2.0もいるし、このままだと本当に帰れなくなるよ」
     ハラケンは笑った。
    「僕はここにいると決めて、さっきカンナにも言ったんだ」
     真っ黒い絶望が心を覆い隠すのから逃げるように、私は声を張り上げた。
    「ダメ! ダメだよ、そんなのハラケンのためにもカンナのためにもならない」
     ハラケンは笑みをひるがえさずに言った。
    「ヤサコにとっての幸せって何だい」
    「幸せ? どうして今そんなこと――」
    「ヤサコは幸せになりたい?」
    「そ、それはもちろんそうだけど」
    「僕は今幸せだ。本当に君が僕のためを思ってるなら、僕が幸せである道を選ぶべきじゃないのか」
    「そんな!」
     違う。でも何が違うのか、ハラケンが間違っているのかそれとも私なのか。
    「迷うことはないんだ」
     優しい口調でハラケンは続ける。
    「ヤサコはヤサコの幸せを追って僕を連れ戻そうとしたんだ。でも僕は僕の幸せを追って手に入れた」
     そこで喋るのを止め、ハラケンは私を見つめた。それが最後の言葉だ。
    「ふたりの道は違う。さよなら」
     そうやって、私は失敗した。

    電脳コイル〈3.00〉 -第17話 思い出の帰る日-

    intermission

     この道を、と人のいう。

     私の進む先、それとも歩んだ後、道は続く。それは私のもの? それとも、本当は人のもので、私がよこから割り込んで奪い取ってしまったのか? 私にはわからない。わかっているのは私がこれまで進んできたことで、それからこの後も進んでいくべきだ、と。
     べきだ、と。
     もしかすると私は歩みを止めてもいいのかもしれない。もし私が誰かから進むべき道を横取りしたというなら、むしろそうして、本来歩むべきだったその人に返してあげればいいのだ。その後で私はもう誰からもせっつかれることなく、この場所でまどろめばいい。そういうのもありだ。

     私は歩いていた。
     人は何故夕映えの景色を好むのだろう。それは過去に似ている。過去というのはよくわからない。私は必死で今を生きているだけなのに、いつの間にかそれが澱のように積み上がって私を閉じ込める。そんな過去から私は逃れたがっているに違いないのに、それでいてそこから切り離されるのがこわくて仕方ない。
     みんな、過去がこわくないのだろうか。私は夢に見るのも嫌なのに。私の取った態度、私の放った言葉、どれもこれも思い出すほどに嫌で嫌でならない。
     それなのにこの景色は、私のそんな昔を1歩ごとに確かなものと変える。私は本当は不安なのだ。何でこんなところに来たんだろう。

     電脳の歴史はかなり新しい。今のように、世界の主要都市を電脳空間が覆い尽くしたのは、つい最近のことだ。電脳都市の最前衛なんていわれる大黒市だって、市街地の電脳化が完了したのはほんの5年前。それに、稼働当初は慮外の事故が多かったと聞く。
     たとえばこんなふうに、現実の空は移り変わっているのに、メガネの現すそれは朝から晩まで夕暮れだったなんて事故も、調べてみればあったんじゃないだろうか。
     いや、大黒ではもっと大きな事故があった。私はそれを知っている。でも、私はそれを思い出したくない。思い出したくないのに、私はそこへ向かって歩いていく。歩みは止まらない。私の力では、止めることができない。

     泣いて帰って私は見た。
    『本日午後5時過ぎ、大黒市で大規模な電脳事故が発生しました。被害の影響、規模は今だ不明ですが、現場からの情報によりますと、多数のオートマトンの損傷あるいは消失、また被害の大きかった空間にいた子供に影響が出ているとも言います。詳細な情報が入り次第、改めてお伝えします』
    『これについてメガマス、コイルス両社は事の次第が判明次第会見を開くとのみ回答しており、依然として現地の情勢は不透明です』
    『国内、海外主要都市の電脳化の矢先に起こったこの事件により、今後の計画に遅延が発生するのはほぼ確実と見られ、拡張路線に偏った路線への見直しが迫られることになるでしょう』
     それは私の見てきた事実を伝える報道だったはずなのに、私の見たこととはまるで違っていた。理由のわからぬまま、私はそれについて考えるのをやめた。

    電脳コイル〈3.00〉 -第17話 思い出の帰る日-

    G part

     Cドメインに接続を続けるのは辛かった。
     私のスキルでは、2.0にアクセスはできても、その正確な構造がわからない。間違いのきかない細かい作業を目隠しでやっているのと同じで、神経ばかり使ってハッキングはなかなかはかどらなかった。そのうえ、どうしてなのか、2.0の防壁をクリアして1歩を進めるたび、もやった重いものが心にのしかかってくる。その正体もつかめないまま、不安だけが報酬の息苦しい仕事を、半分目を閉じて私は続けていた。
    「ヤサコ、もう少しだ!」
     背中に響く声は宗助さんだ。自分も苦しい中でかけてくれるその応援がなかったら、私はとっくに音を上げていただろう。
    「私は大丈夫」
     答えた自分自身の声があまり辛そうで驚いた。ねばっこい汗が頬を伝う。必死で指を動かす私はぬぐうこともできない。
     ばん、と目の前で轟音が爆ぜた。びっくりして見上げると、斜めに傾いたサッチーから黒煙が上がっている。
    「やるな。Cドメインと現実空間の両方で戦っていてこの堅さか」
     宗助さんのつぶやきが聞こえた。
    「こりゃまずくねえか? 最初の作戦と違うぜ」
     ダイチ君の影が私にかかった。守ろうとしてくれているらしい。
    「いや、あせらなくてもいい。現時点で2.0は、総力の80%をCドメインでの応戦に割いている。こっちには負けないくらいの対応でいっぱいいっぱいのはずだ」
    「それでこれかよ。勘弁してくれよマジで」
     いつの間にかガチャギリ君も近くに来ていた。宗助さんが連れてきたサッチーの裏に隠れながら、黒客は散発的な攻撃を続けている。
    「こっちもそろそろ限界よ! なんとかならないの!?」
     つなぎっぱなしの電話から、ノイズにまみれたフミエちゃんの声が聞こえる。
    「すまない。もう少しだけ我慢してくれ」
     私は真横を見た。宗助さんは信じられないスピードでキーボードをたたいている。その表情は、何もない前方をにらみつけ、落ち着いた声からは想像もつかない鬼気迫るものだった。
     私も。私もがんばらないと。目を閉じ、深く息を吸って、どこか違う世界にいる2.0の姿に意識を集中する。
     ふと、体が楽になった。細かに展開された意識の先端から、私は見る。いくつかの動く点。きっとイサコたち、それからフミエちゃん、そして目指す2.0。
     私の攻撃が加えたかすかな傷が見える。こんなもので。あとどれだけ。絶望感を無理に押さえつけ、次の攻撃を準備する。ささいな、ほんのちっぽけなものだ。それでもその小さな1歩分だけ、あなたに近づける。
     あなた? イサコじゃない、あなたは誰? もちろんフミエちゃんじゃない、ハラケン、それともカンナ?
     違う。誰とも違う。それなのに私はあなたを知っている。
    「お姉ちゃん」
     唇から漏れでたつぶやきに、あなたはほほえむ。
    「お姉ちゃん!」
     それがいつ、どこでだったのか、私はほとんど覚えていない。それなのに、いつも一緒だった、私はそう感じている。いつも一緒だったのに。その手を離したのは。
    「もうあなたのほうが年上なのに」
     お姉ちゃんは笑った。
    「それに私の名は……」
     夕陽が言葉をさえぎった。にわかに強くなったそれが、私をお姉ちゃんを、私たちを取り巻く景色を次々飲み込んで。
    「ヤサコ、戻れ!」
    「おいヤサコ!」
     何人かの声が遠くから聞こえた。私は抵抗することもできず、その声の方向に引き戻された。

     目を開けると、宗助さん、ダイチ君、フミエちゃんが輪になって、あおむけに倒れた私をのぞき込んでいた。
    「なに……? どうしたの」
     聞きながら、私は力なく上半身を起こす。
     その肩をフミエちゃんが揺すぶった。
    「やったのよ。宗助さんが」
    「え――」
     そうだ。2.0。
     慌てて振り向くと、2.0はまだそこにいた。でも動きがない。触手をしまいこんで、ぽかんと空を切り取っている。
    「安心して。フリーズしてる」
     宗助さんが言う。
    「作戦成功だ。君たちが2.0を引きつけている間に、空間管理室を経由してメガマスのサーバをハックしたんだ。これで何時間かは2.0を止めておける」
    「その間に私たちでイサコたちを連れ戻せばいいってわけよ」
     フミエちゃんがにかっと笑顔を見せた。
    「待って。でも2.0の別の機体が来たらどうするの?」
     聞くと、宗助さんは首を振った。
    「そこは心配ないよ。ここにいる2.0から通常パトロール信号を出させてる。このエリア一帯は問題なく巡回中ってことになってるから、他の機体が入ってくる恐れはない」
    「そういうわけだから、後ろは気にせず行こうぜ」
     ダイチ君が空間の裂け目に向き直る。と、ガチャギリ君がその前をふさいだ。
    「待てよ、そうは行かねえぜ。イサコの計画は俺たちが邪魔させねえ」
    「ああ? お前、今の戦い見てたろうが。もうそれどころじゃねえんだよ」
    「ダイチ君のいうとおりだ。イサコが何をしようとしていたのかは僕にもわからない。だが、いずれにせよ今は危険だ」
     ダイチ君に宗助さんも加勢する。けれど、ガチャギリ君は道を明けない。それどころか、アキラ君にデンパ君までガチャギリ君と並んで立ちはだかった。
    「2.0のことくらいイサコだって計算済みだ。どうしても止めるってんなら、ここで一戦やらかしてからだ」
    「ちっ、無茶言いやがる」
    「ちょっと、ダイチ」
     フミエちゃんがダイチ君の腕を握った。
    「やめるんだ、君たち。ここで戦ったって無益だ」
     宗助さんが1歩前に出る。
    「そう言ってんのは探偵局の人間だけだ。俺たちに取っちゃわからねえ」
     ガチャギリ君がミサイルを構えた。
    「ちょ、ちょっと待っ――」
    「待つんだ!」
     私の声にかぶせて、横から別の声が響いた。
    「誰だ!」
     ガチャギリ君が構えたミサイルをそっちに向け……、しかしそれはすぐに降ろされた。
    「信彦さん――」
    「今回の計画はイサコが独断でやったことだ」
     信彦さんはきびきびと話しながら歩いてくる。その後ろにメガネをかけてないナメッチの姿も見えた。
    「これまでのイリーガル捕獲は僕とイサコが協力して計画を練ってきた。だがここに来てイサコは先走ったんだ。残念だけど、一旦やり直しだ。探偵局の面々のいうとおり、イサコを連れ戻そう。危険すぎる」
     ガチャギリ君は急に気弱な表情を浮かべると、かたわらのアキラ君、デンパ君を振り返った。ふたりはそろって目を落とし、黙ったまま小さくうなずいた。
    「納得してくれたか。ありがとう」
     信彦さんは軽く息をついて、私に向き直った。
    「急ごう。時間は多くはないぞ」
     イサコ、カンナ、――ハラケン。私はうなずいた。
    「待ってよ、当然私たちも行くからね」
     フミエちゃんがダイチ君を引っ張って空間の裂け目に歩き始める。私は宗助さんを見た。
    「大丈夫。ここは僕が――」
    「兄ちゃん!」
     宗助さんの答えはけれど、予想外の声にかき消された。タケル君だった。
     タケル君は宗助さん、サッチー、そしてその向こうに開いた空間の裂け目を見て、語気を荒げた。
    「どういうことなんだ! やっぱり兄ちゃんは”あっち”を、父ちゃんの作った空間を――」
    「何言ってんだ、お前? 宗助さんは俺たちを助けてくれたんだぜ」
     ダイチ君が言う。
    「だまされるな! 兄ちゃんはいつだってそうやって――」
     言葉は最後まで聞き取れなかった。閃光が走る。
    「うわっ!」
     宗助さんが素早くメガネを顔からはぎ取って地面に投げた。ほぼ同時にばんと乾いた音がして、メガネから火花が散った。
    「宗助さん!?」
     私は手で目を覆った宗助さんに駆け寄った。宗助さんはゆっくりと手を離し、投げ捨てたメガネを見つめた。メガネは柄から細い煙を上げ、レンズには大きなひびが入っている。
    「完全におシャカだな。困ったね。実はこれ、玉子のを勝手に持ち出してきたんだ」
     宗助さんはこっちを振り向いて苦笑いを浮かべた。宗助さん自身は無事らしいとわかって、私は少しだけ安心した。
    「タケル、お前はいきなり何だってんだよ!」
     大声に振り向くと、ダイチ君がタケル君の胸ぐらをつかんでいる。
    「離せよ!」
     タケル君はダイチ君を強引に突き放し、
    「兄ちゃんは古い空間を抹消しようとしてるんだ。今だって、せっかく開いた入口をフォーマットするつもりだ」
    「ちげーよ! 宗助さんはこの空間をメガマスから守ってくれたんだぜ」
    「君こそ間違ってる。兄ちゃんにだまされてるんだ。兄ちゃんは古い空間を消して、コイルスの空間が存在する証拠をなくしてしまおうとしてるんだぞ」
    「待って、タケル君」
     私が呼ぶと、タケル君はどきっとした顔でこっちに向き直った。
    「宗助さんが私たちを助けてくれたのは確かよ。イサコたちがここから古い空間に入っちゃったの。それで、連れ戻すまでの間、ここを維持するために来てくれたの」
    「そ、そんな」
     タケル君は不安そうな顔になって、周りを見た。みんながうなずくと、うろたえた様子で1歩退き、うつむいた。
    「タケル、僕のメガネをどこへやった」
     宗助さんが声をかける。
    「――ハラケンに貸したよ。あいつが何に使うのかは知らない」
    「そうだ、おかしいと思ったのよ。カンナはメガネが故障中だって言ってたもん。きっと宗助さんのメガネで”あっち”に入ったんだわ」
     フミエちゃんが言うと、宗助さんは首を傾げ、
    「変だな。僕は玉子から、ハラケンのメガネを没収したって聞いたんだ。ハラケンとカンナのがないなら、メガネは2個必要なはずだけど」
    「もうひとつはきっと僕のだ」
     信彦さんがつぶやいた。
    「イサコは僕のメガネを勝手に持ち出していった。てっきりこっちの動きを遅らせるためかと思ってたんだけど、そういうわけだったのか」
     その時、サッチーがぎぎ、とうなった。
    「まずい。指令元がなくなったせいでサッチーが混乱してる。空間管理室へ戻って、指示を出し直さなくちゃ」
     宗助さんが言うと、
    「行ってくれよ。こっちは俺たちで十分だぜ」
     ダイチ君が胸を張った。
    「すまない。急いで行くけど、その前にサッチーが通常モードに戻った場合、古い空間を攻撃するかもしれない。何とか耐え抜いてくれ」
     宗助さんが頭を下げると、今度はガチャギリ君が前に出た。
    「俺たち黒客を信頼してくれよ。サッチーの足止めくらい、慣れたもんだぜ」
     フミエちゃんが私を見てうなずいた。
    「じゃあダイチ、あんたもサッチー対策で残って。ヤサコ、私たちふたりで”あっち”へ行くわよ」
    「ダメだ」
     突然、信彦さんが口を開いた。
    「古い空間の中でも、イサコが向かった場所は大きく変質してる。イマーゴを持たない人間には入ることができないだろう」
    「イマーゴ?」
     私とフミエちゃんは顔を見合わせる。
    「ああ。特定の子供だけが持っている、意識と電脳を直リンクする能力さ。僕にはイサコほどじゃないがそれがある。だから”あっち”には僕が行くよ」
    「それじゃ、私たちはここで指をくわえて見てるしかないっての?」
     フミエちゃんににらみつけられ、信彦さんは困ったように目をそらした。
     わだかまった沈黙を破ったのは宗助さんだった。
    「仕方ない。天沢信彦君だね、”あっち”のほうは君に頼む――」
    「待って」
     意外な声が宗助さんを止めた。タケル君だ。しかしその言葉はもっと意外だった。
    「ヤサコにもイマーゴの力がある」
    「えっ、私!?」
     タケル君はうなずいた。
    「果し合いの前に君たちに暗号を教えたろ。あれは、Cドメインにアクセスして、意識から直接電脳物質を作る力だったんだ。だから、暗号が使えるってことは、イマーゴを持っているはずだ」
    「……そうだったの」
     さっきの苦しさを私は思い浮かべる。”あっち”に入ったら、私はずっとあの思いを抱いていなければならない。でもハラケン、カンナ、それにイサコを守るため、他に選択はない。
    「わかったわ、行きましょう」
     私は笑顔を浮かべ、信彦さんにうなずいてみせた。

    電脳コイル〈3.00〉 -第17話 思い出の帰る日-

    F part

     当り前だけど望んだ戦いじゃない。ではなくても今は影となって横たわる3人を助けるには、全力を尽くさなくてはならなかった。
     といって全力で当たったから勝てると保証されたわけでもない。というより、そうではない可能性のほうがはるかに大きく、実際戦いの流れは悪いほうへ、悪いほうへと傾いていった。
    「守れ、守れ!」
     真っ黒に切り取られた空間からはい出してくる半透明の触手を、ガチャギリたちは必死で攻撃している。けれどそれは堅かった。ミサイルやメガビーの直撃を受けても、わずかにひるんだ様子を見せるだけで、ほとんどダメージを受けたふうには見えない。おまけに本体からフォーマット光線が次々と発射される。
     私は振り向いてヤサコを見た。
    「どうなの、そっち!?」
    「ごめんフミエちゃん。ちょっと、もうちょっと待って」
     ヤサコはタケルに教えられた2.0への攻撃方法を試しているのだが、なかなかうまくいかないらしい。
    「ちょっとってどのくらいだよ!? このままじゃ押し込まれるぞ」
     ミサイルを連射しながらのダイチの声は切羽詰まっていた。
     ダイチのいうとおり、2.0の本体は切り開かれた空間の向こうへ、徐々に移動していた。戻れなくなる? ハラケンやカンナ、それにイサコも。
    「私、呼んでくる!」
     気がつくと叫んで、走り出していた。
     呼んでくるというのは、3人を、ということだ。イサコの開いた異質な電脳空間の内部がどうなっているか、それに3人がそのどこにいるのか、一緒なのかばらばらなのか、そういうのをひとつも知らずに、よくぞまあ無茶な判断ができるものだ。だけどそういう自分だからしかたない。
    「バカ、待て! お前まで巻き添えになるぞ」
     ダイチが追いかけてきた。
    「ならないようにしっかり守ってよ。ほら、わきが甘い!」
     投げた鉄壁は、ダイチを狙ったフォーマット光線の進路を見事にふさぐ。
    「おい、俺も――」
    「あんたはヤサコのサポートやっといて!」
     ダイチは口を動かした。が、言葉を聞きとる前に、私は違空間の入口をくぐっていた。

     出たところは夕焼けだった。視界の7割を覆い尽くした空は、擦りガラスを通したような柔らかいだいだい色に染まっている。眼下の町は反対に、わずかに夕焼けを反射しながら闇に沈みこもうとしている。
     次の瞬間、私は落っこちた。
    「あ、イタッ!?」
     思わず叫んだものの、痛みは感じない。電脳体分離した証拠だ。
     とはいえつい腰をさすりながら見上げると、2階屋の屋根より少し上に空間の裂け目があった。何も考えずに突っ込んだはいいけど、その向こうが空中に浮かんでいるとは思わなかった。これじゃどうやって戻ればいいのか――
     と思って見つめていると、裂け目は上がったり下がったり、少しずつ動いている。待っていればそのうち、地面ぎりぎりまで降りてきそうだ。降りてくる、ということにして、辺りをうかがった。
     ここが”あっち”? 見た感じ、普通の街並みと変わらない夕暮れの景色だ。ただ、人の気配が感じられない。通行人の姿はまるで見えないし、軒を並べる家々の玄関も窓も、照明の灯っているところはひとつもなかった。
    「ハラケン! カンナ!」
     大声で呼んでみたが、答えはない。音のない世界に呼び声はかき消されていく。一体どこに行ったんだろう。
     その時電話が鳴って私は飛び上がった。
    「フミエ、無事か!」
     声はか細くて聞き取りづらかったが、私は安心した。
    「大丈夫よ! そっちこそどう」
    「ヤサコがCドメインへの接続に成功したみてえだ。あのサイコロ野郎、とまどってやがる。今のうちに3人を探し出してくれ」
    「よし、OK――っていいたいとこだけど、どこをどう探したらいいのかしら」
    「おいおい……。お前ってヤツは本っ当考えなしだな」
    「あんたに言われたくないわよ!」
    「うっせえよ。ちょっと待ってろ。イサコが何か残していかなかったか、ガチャに聞いてみる」
    「あ、ちょっと……」
     こちらの返事も待たずに電話は切れた。あいつ、こっちの状況をわかってるんだろうか。私は少しむくれた。むくれてみてそうしたのは自分が心細かったからだと思い当り、だから「ちょっと」の後にはもっと甘えた言葉が出るところだったともわかってひとりで赤くなり安心し、その後で安心できる場面じゃなかったと、ひと巡りして気がついた。
    「まっずいわねえ」
     陽がどんどん暮れてきているのか、暗さが増したような気がする。このままじゃますます道がわからなくなりそうだ。
     ここは住宅街の路地裏だ。とりあえずもっと見晴らしのいい場所に出よう。私は歩き始めた。
    「なんでもいいのよ。手がかり、足がかり、なんでも……」
     つぶやくとますますこわくなってきて、黙りこんだその時、遠くで何かがぱちっとはじけた。
    「な、なに!?」
     見つめているとぱちっともう1回、音と小さな光だ。
     敵? 味方? それとも――
     とにかく行ってみるしかない。そんなに時間はかからないはずだ。

    「げげ!? な、何これ?」
     気色悪いオートマトンとかイリーガルとやりあった経験から、大抵のものには驚かないだろうと思っていたが、やっぱりそうでもなかった。10分ほどして光の元にたどり着いた私の目の前には、道路をいっぱいにふさいで、直径で5メートル以上はありそうな繭が、民家の塀に寄りかかっていた。
    「さっきの光って……やっぱりこれかしら」
     カイコの繭をところどころでこげ茶に染めたような外見だ。何故かすぐ前の道路には黄色地に黒で「KEEP OUT」と書かれたラインが敷かれている。
     ラインを越えて良いものかためらっていると、繭の一部が光った。ばちっと、間近ではけっこう強烈な音。続けてひとすじの煙が立ち上る。繭の上のほうだ。
     私はダイチに電話をかけた。
    「どう。そっちは何か進展あった?」
    「ねえよ、すまん」
     ぶっきらぼうな答えが返ってきた。
    「ガチャたちも、”あっち”の中までは知らされてないってよ。ヤサコのほうは一進一退だ。今のところ2.0の前進だけは抑えてるけど、かなりきつそうだぜ」
    「そう。こっちは謎の物体を発見したわ」
    「はあ? 謎ってなんだそりゃ?」
    「すぐ画像を送るわ。でね、とりあえず入ってみようと思う」
    「えっ!?」
     ダイチのあきれ顔が目に浮かんで、私はつい吹き出した。
    「待てよこら。その物体ってやつ、イサコと関係があんのか?」
    「わかんない。でもぐずぐずしてる暇はないのよ」
    「ダメだ。いくらなんでもせっかちすぎるぜ。待て。お願いだから待て」
    「待っても意味ないから」
     私は電話を切って、残酷にもダイチの番号を着信拒否に設定した。無茶なのはわかってる。けれど私は止まってられない。
     「KEEP OUT」の表示をおそるおそる越える。幸い、警報が鳴ったり、いきなり電撃を食らったりはしない。少し勇気が出て、繭に手をかけた。ごわごわした感じだ。なにせ電脳体だから手触りを感じたりはしないが、なんとなくわかる。これなら行ける。ちょっとした木登りだ。
     するすると簡単に繭のてっぺんまで登れた。目線が2階屋の屋根くらいある。光る場所はちょうど目の前だ。よく見ると、繭の一部が黒く焦げて丸い穴が空いている。私はゆっくりと中をのぞきこんだ。
    「な……!」
     何これ、と叫びそうになったのを、私は必死で口を覆った。
     繭の内側に広がっていたのは、大黒の、というか、ついさっき私が後にした、中津交差点の光景だった。
     ダイチ、ガチャギリや黒客のみんな、ヤサコもいる。みんなこっちを向いて武器を構えている。2.0の姿は見えない――ということは。
    「これ!」
     またも私は口をふさいだ。これはきっと2.0の本体だ。
     私はダイチに電話をかけた。繭に映るダイチが電話を取る。
    「お前、ひでえな。着信拒否なんかしやがって」
    「その話は後。見つけたっぽいわ、2.0の正体。そうだ、ためしにそっちから攻撃してみて。触手じゃなくってサイコロのほう」
    「お、おう」
     映像のダイチがメガビーを構え、発射する。光線は画面に当たって四散した。やっぱりだ。
     ダイチの後ろでヤサコが何かキーボードをたたいた。するとまたばちっと音をたて、私ののぞいている穴が広がった。そうか、この穴はヤサコのハックでできたんだ。
    「よおし、内側から攻撃してやる。こういうヤツって、たいてい本体はひ弱なのよ」
    「フミエ、あんまり無茶すんなよ」
     といわれても既に無茶しまくっている。メガビーを最大出力にして、適当な1点を狙って発射――
     した瞬間、繭がうねった。
    「わっ」
     振り落とされそうになった私は必死でその辺をつかむ。と、繭の内側のあちこちで黒い触手が一斉に動いた。触手は目にも止まらぬ速さで繭の中心部に集まり、ダマになる。
    「うげえ、気持ち悪い」
     見ているうちに、ダマの中から何か押し出されてくる。まず目についたのは白いゼリー状のもの、その表面を網の目のように赤い血管が走り、さらに中心には巨大なレンズ。眼球だ。硬直した私とそれの、まさに目が合った。
     目玉の下にいくつも穴ができ、とっさに私は顔をそむけた。ほぼ同時にフォーマット光線が発射される。後ろの民家の2階部分が消えてなくなった。
    「何よ!? 本体だけでも強いじゃん!」
     私は繭から飛び降りた。というか転げ落ちた。逃げられたと思ったのもつかの間、さっきの穴から目玉が出てきて、きょろきょろ辺りを探っている。
    「ええいこのっ!」
     ヤケで放ったメガビーは見事に目玉を直撃した。目玉は一瞬、文字どおり目をしかめる。ところがすぐに別の触手が伸びて目玉を覆い隠し、さらにその先端に発射孔を開けた。
    「ダメだ」
     これじゃ勝負にならない。私は脱兎のごとく駆け出した。
     敵は動けない。とにかくこの場は逃げて、でも本体がわかったからには攻撃の方法もある。援軍を連れて出直しだ。
     背後でめきめきっと音がした。とてつもなく嫌な予感にとらわれ、私は振り向いた。
     2.0の繭が4つに割れていた。縦に長く裂けた繭は四方に広がり、真ん中あたりで折れ曲がって体を持ち上げる。まるで4つ足のクモだ。さっきまでの繭の内側、つまり大黒の映像を映し出しているほうが外側になって妙にカラフルな足、中心にはさっきの目玉が妙に歪んだ、笑ったような形で私を見ている。
    「反則よ! 完全に反則!」
     私は走った。こけつまろびつ、とにかく走る。後ろからは地響きをたて、家屋や木々をなぎ倒しながら2.0が追ってくる。
     とにかく出口へ。駆けて駆けて、けれど2.0は次第に迫ってくる。さっき小走りで10分かかったから、全力なら5分弱か。多分間に合わない。追いつかれる。電脳体分離しているところへフォーマット光線を受けたら――
     その時、電話が鳴った。ダイチ? じゃない、オバちゃんだ。
    「オバちゃん、助けて!」
     電話に出るなり私は叫んだ。
    「がんばれ! 助けられるかもしれない」
     オバちゃんじゃない!? 男の人の声だ。私はすぐに、その主に気がついた。
    「宗助さん!? どうして!」

    電脳コイル〈3.00〉 -第17話 思い出の帰る日-

    E part

     その日の出遅れは、俺にとってまさに痛恨の失策だった。一斉フォーマットの告知を聞いて、俺は素直にメガネを外していたのだ。少し考えれば、あの一筋縄ではいかないイサコがフォーマットを逆手に取る可能性くらい思いついたろうに。

     フミエから連絡があったのは昼前だ。1年に1回くらいしか使わない家の電話の受話器を持ち上げると、唾でも飛んできそうな勢いでフミエはまくしたてた。
    「ちょっと、あんた何してんのよ! 外で起こってること、わかってんの!?」
    「外で? 一斉フォーマットだろ。お前こそ、せっかくの休みだってのに何をがっついてんだ」
    「バカ! とにかくメガネ着けて!」
     言うだけ言って、フミエは電話を切ってしまった。状況を理解しないまま、俺は相変わらずのんびりと2階の部屋へ戻り、机に置きっぱなしだったメガネをかけた。
    「おわっ!?」
     部屋が突然モノクロになり、次の瞬間にはその明暗が反転して、さらにそれが赤く染まり、最後に表示が出た。
    『空間の維持に重大な問題が発生しています。メガネの電源を切ってください』
    「何だってんだ……」
     と、フミエからメールが来た。本文は空で、やたら重い添付ファイルがついている。状況から考えてウィルスを疑い、開けるのをためらっていると、今度は電話が入る。
    「もうパッチ付けた?」
    「パッチ?」
    「そうよ。小此木先生が作ってくれたの。メールで送ったでしょ」
    「ああ、これか」
     ファイルを開くと、フミエの言ったとおり、メガネの修正パッチが圧縮されて入っていた。すぐにインストールすると、赤い画面がようやくいつもの部屋に戻った。
    「どうなってんだよ、こりゃあ」
    「メガマス本社にサイバー攻撃があったんだって。犯人は多分イサコよ。あいつ、よりにもよってこんな日にやらかすつもりなんだわ」
     フミエの鼻息は荒い。逆に、俺はそんなフミエの声を聞けば聞くほどに冷静になった。
     大変なことが起ころうとしている。この前の果し合いもすごかったけど、あれは結局電脳クラブ同士の小競り合い、というくらいのものでしかない。だが、今回は違う。メガマス本社を標的にしたサイバーテロとなったら、逮捕者が出てもおかしくない。
     そして、そういう波乱の中で、俺はフミエを守らなければならない。こいつ、口は達者でも意外とガキだからな。
    「ダイチ、聞いてんの?」
     そのガキが金切り声を上げた。
    「おっ、おう――なんだっけ」
    「バカ。カンナとハラケン、連絡が取れないのよ。家に電話したら、ふたりとも出かけたって」
    「なんだと。そいつはまずいな」
     俺の返事がよほど険悪に聞こえたのだろう、フミエは声をひそめて聞き返した。
    「まずいって、ダイチ、あんた何か知ってるの?」
    「……ああ」
     果し合いで俺たちを裏切ったのがハラケンだったという事実を、俺は今まで自分の中で眠らせていた。ハラケンは、簡単に味方を売ったりするようなヤツじゃない。探偵局を裏切るのなら、それだけの理由があるはずだ。せめてそれを明らかにしてから、フミエやヤサコに打ち明けたかった。
     だが、それは俺の甘えだったのかもしれない。今起きている事件の裏には、必ずハラケンが絡んでいる。俺はハラケンを見逃すことで、暗に手を貸してしまったのだ。
    「とにかく落ち合おう。お前、今どこにいる?」
    「学校の正門前よ。もうすぐヤサコも来るはずだから、ふたりであんたの家へ寄るわ」
    「寄る?」
     フミエの口調は、まるでもう目的地が決まっているようだった。
    「そう。ヤサコにメールがあったのよ。『はざま交差点』ってね」

     最近になって越してきたヤサコは知らなかったようだが、「はざま交差点」とは、中津交差点のあだ名みたいなものだ。あそこは電脳状態もよくないし、独特のちょっと寂れた感じもあって、都市伝説の宝庫だった。「はざま」という言葉の意味は、都市伝説や噂を総合すれば、俺たちの住んでる世界と、俺たちの知らない未知の世界の境目を表しているらしい。
     電脳というもうひとつの世界。ほとんど物ごころついたころから存在し、日常にあって当り前と思ってきた世界は、本当は俺たちの誰も知らない異質なものを含んでいたのかもしれない。そうだとすれば、はざま交差点とは、気味の悪いくらいにマッチしたロケーションなんじゃないか。
     交差点に向かう途中で、果し合いでの俺の体験について全部話した。ヤサコははっきりとショックを受けていて、うつむいたきり何も言わなくなった。フミエは「やっぱりそうだったの」とか答えて、少なくとも外見上は動揺した素振りを見せなかった。驚いたのは、俺を責める言葉がひとつもなかったことだ。俺は内心フミエに感謝した。
     中津交差点が近づくと、空間の乱れが大きくなり始めた。
    「間違いないわ。ここね」
     フミエとうなずきをかわし、交差点側に抜ける狭い路地をくぐった。
    「あれ?」
     俺は思わず立ち止まった。台風の目、とでもいうべきか、周りの乱れに比べて、交差点の空間だけはぽっかりと落ち着いている。
    「こりゃ一体――」
    「ちょっとどいて! つかえてんのよ」
     と、いきなり背中を押された。フミエ、ヤサコの順で路地を出て、ふたりとも交差点を眺める。
    「おかしいわね」
     その時、道路を挟んで向かい側で動く影を俺は見つけた。
    「あっ、ガチャにアキラ!」
    「ちっ」
     ガチャギリは舌打ちしたが、すぐに何気ない顔を装って、
    「よう、これは探偵局の面々がお揃いで」
    「とぼけんじゃないわよ! イサコはどこ? あんたたち、ここで何しようとしてるの」
    「答える義務はねえ」
    「そもそもイサコさんはここにいませんよ。ねえ」
     アキラが左右を振り向くと、物影からナメッチとデンパが出てきた。
    「おい。隠しだてはためにならねえぞ」
     ガチャギリは苦笑して頭を振る。
    「誰のためだよ。俺たちのことは俺たちで考える。お前らはすっこんでろ」
    「んだと!」
    「おう、やるか」
    「待って!」
     険悪になりかけた俺たちに、ヤサコが水を差した。
    「ケンカしてる場合じゃないわ。来るわよ、2.0が」
    「えっ」
     どうしてわかる、と聞こうとした時、今くぐり抜けてきたばかりの路地がぱっと輝いた。
    「かっ、隠れろ!」
     誰かが叫び、皆が思い思いの場所に身をひそめる。俺たちも手近にあった電柱の裏に隠れた。
     路地から姿を現した2.0は、ゆっくりと俺たちに近づいてくる。無駄とわかっていつつも、俺は息まで止めた。
     間近で見る2.0に、サッチーほどの威圧感はない。大きさはキュウちゃんと同じくらいだし、外見――といっていいのかよくわからないが――はべったり平面的な黒に「No Image」の文字が踊っているだけだからだ。だがこの場合、見た目の無機質さは、何をしでかすかわからない未知の物体への警戒感をあおっていた。
     そんな俺たちに気づかないでか、それとも無視してか、2.0は速度をゆるめずに目の前を通りすぎる。
    「なんだよ、びびらせやがって」
     小声でつぶやいた瞬間、2.0が動きを止めた。どきっとしたが、狙いは俺ではないらしい。2.0には方向というものがないからよくわからないが、どうやら交差点の中心、何もない落ち着いた空間が目標のようだ。
     突然、ばつん、と空間がはじけるような音が響いた。その直後、2.0の真下の空間が凝固した。
    「何よ、あれは」
     フミエが電柱から身を乗り出す。
     空間の凝固は、2.0の下から交差点に向かって少しずつ進んでいく。つららが成長していく映像を高速再生したようにも、あるいは触手を伸ばしているようにも見える。やがて触手は4つに分かれ、散開して少しずつ進み始めた。
     後ろでがさがさ音がした。振り向くとヤサコが立ち上がり、ポシェットから何か取り出している。
    「準備しておく。タケル君から2.0を倒せるかもしれない方法を教わったの」
     フミエがヤサコの袖を引っ張る。
    「ちょっと待ってよ、ヤサコ。まだあいつが何をするのかもわからないのに。案外このまま帰っちゃうかもしれないわよ」
    「ううん」
     ヤサコは確信ありげに首を振った。
    「今2.0が調べてるあの空間、きっとダミーだわ。イサコはあの中にいる」
    「あっ、そうか」
     いわれてみればそのとおりだ。空間の乱れの中心があんなに安定しているはずがない。イサコのやつ、また新しい空間偽装のスキルを考え出したらしい。しかし――
     4つに伸びた2.0の触手から波紋のようなものが広がった。円形に広がった波紋はお互いに干渉して複雑な模様を描く。行ったり戻ったり、重なったり離れたりが繰り返され、しばらくそうするうちに波紋は重なって大きなひとつの円になった。
    「あっ!」
     突然ヤサコが頭を抱えて座り込んだ。
    「ヤサコ!? ヤサコ、大丈夫?」
     フミエが慌ててその体を支える。ヤサコは頭を押さえたまま、切れぎれにつぶやいた。
    「共鳴してる――。破られるわ」
     ぴしっと音がして、俺は振り向いた。さっきの波紋が固まって中空に巨大な氷の円を形作っている。その真ん中に大きな亀裂が見え、またたく間にそれは広がって、次の瞬間、円形の空間は粉々に砕け散った。
    「うわっ」
     ほとんど意味をなさない記号にまで分解された細かい空間の欠片が俺たちの隠れている電柱にまで降りかかった。反射的に目を覆った俺のすぐ前を、足音が通りすぎる。
    「あっ、おい!」
     無理やり目を開けると、わけのわからない光景が飛び込んできた。
     2.0に壊された場所は、空中にぽっかりあいた大きな穴になっていた。向こう側から、どうしてか夕焼けの光が差してくる。
     無意識に俺は電柱の陰を離れ、穴の中の良く見える位置に移動していた。
     夕焼けの正体はすぐわかった。穴の向こうの空間の中に、さらに大きな空間の断裂面があり、そこから禍々しいほどに真っ赤な光が発している。そして、そのすぐ手前の地面には――
    「クソッ、こうなりゃヤケだ! 全員攻撃開始」
    「りょ、了解!」
     どなりながらガチャギリがミサイルを乱射し、ナメッチとアキラがそれに続く。
    「本体に攻撃してもムダよ! 狙うなら触手にして!」
     何故かヤサコが叫び、自分もメガビーを発射した。
    「ダイチ君、フミエちゃん! あなたたちも」
    「え、えっ!?」
     俺とフミエは状況を飲み込み切れず、顔を見合わせた。
    「ちょっと待って。イサコのやろうとしてること、2.0に止めさせたほうがいいんじゃないの?」
     フミエが聞くと、ヤサコはメガビーを撃ち続けながら空間の穴を指差した。
    「ダメ! 今はダメなの。今フォーマットされたら、あの子たち帰ってこられなくなる!」
     それで、さっき見たものの正体に気がついた。夕焼けの射す世界の目の前で、その赤を吸い取るように黒くうずくまる3つの影。計算が合う。
     イサコ、ハラケン、カンナ。3人は、あの赤い亀裂の向こうへ行ってしまったのか。
     視界がぐらりと傾いだ。自分がよろめいたのだとわかるのに時間がかかった。
     悪い予感が、赤い光の向こうに行ってしまった3人と、もう2度と会えないような予感が、全身を駆け巡っていた。

    電脳コイル〈3.00〉 -第17話 思い出の帰る日-

    D part

     2.0という強力なオートマトンを配備して自信を持ちすぎたか、それとも移転後間もないためか、メガマスの本社のセキュリティは想像以上に脆弱だった。パスワードを利用したCドメイン経由の攻撃以外にも、空間管理室を一部機能をジャックしたり、学校から教育委員会、大黒市議会と伝って何故か行き着いた本社総務、財務システムの撹乱、孫会社の貧弱なセキュリティからさかのぼった侵入、とにかく思いつく限り、ありとあらゆる手段を使ってアタックを続ける。今日付けで空間の最終的な安定を図るはずが、正反対の展開に、今頃メガマスは全社が大わらわだろう。
     一斉フォーマットの裏を衝くというハラケンの作戦は図に乗った。乗りすぎて私は逆に警戒感を持った。ハラケンは、私の戦力をかなり正確に読んできている。ならば、今日私がしようとしていることについても同様と見ていい。ヤツは私に便乗して何をしようとしているのか――
     いや、今さらそんなことを考えても無意味だ。私とハラケンは既に契約を済ませた。ふたりとももう後戻りのきかないところまで来ている。残されたのは、このまま前を向いて進む道だけだ。その道の先、今日最も空間の不安定化している場所は、偶然かそれとも必然が、あの事故の場所にあった。

     フォーマット直前で2.0が回収された中津交差点には、重たい電脳の霧が幻の恐竜のようにうごめいていた。空間の状態は予想を上回る悪さだ。だが逆に私から見ればベストコンディションでもある。いつまた2.0が戻ってこないとも限らないから、私は急いで準備を始めた。
     まずは空間の偽装、物理結界の構築を行って、周囲の目をそらす。極めて精度の高いフェイクで対象領域の周囲を覆うのには、ある程度の時間がかかった。私が作業に働く間に、招集をかけた黒客のメンバーはあらかた集まった。
    「こりゃあ本格的だな」
     感嘆の言葉を漏らしながら、ガチャギリが偽装空間の接点を見つめる。
    「ぱっと見じゃ、まるでわかりませんね」
     アキラもガチャギリの後ろから興味深そうにのぞき込んでいる。
    「すぐに本格的以上になるぞ」
     言ったところで最終調整が完了した。周囲と数センチずれていることで辛うじて見分けのついていた境目が滑らかに動き、完全に辺りに溶け込んだ。
     無言で目を丸くしている連中の顔を見ると、場違いにも私はやや得意な気分になった。
    「デンパ、入ってみろ」
    「僕が? だ、大丈夫かな……」
     指名されて不安げな表情を浮かべたデンパは、おっかなびっくりで空間の境目をくぐった。いや、くぐったはずだ。境界は全く見えなくなっているし、その向こうに進んだデンパの姿も、偽装空間上にトレースされて現れている。
    「内側から何か見えるか」
    「いや、何も」
     デンパはいぶかしげに当たりを眺め回す。本当はそこに大きな空間の歪みが存在するのだが。
    「よし、うまくいった」
     私は満足した。新しい偽装空間は、現有の空間を包み隠すだけの性質のものではない。その特徴は、サッチーのフォーマットと同じレベルで復旧した空間を用意し、古い空間の上に二重にかぶせてしまう点にある。通常のメガネを使っている人間は、上掛けされた新しい空間しか見えない。つまり、あらかじめ用意したパッチを当ててメガネをアップデートさせておかなければ、そこに古い空間があるとすら認識できないのだ。
     このフェイクでなら、サッチーの目くらいは軽くごまかせる自信がある。問題は性能未知数の2.0だが、そっちにも簡単に見破られはしないだろう。
    「さて、と」
     準備を次の段階、パスワードを使ったより深い空間への接続に進めたいところだが、その前にひとつ気にかかることがあった。
    「ナメッチはどうしたんだ?」
     超優秀な戦力とはいえないがそこそこに働いてくれるナメッチは、やはり黒客に不可欠なメンバーだろう。それに、意外と真面目なところがあって、遅刻なんかは滅多にしないナメッチから連絡もないのは疑問だ。
    「それが、さっきから電話もメールも入れてるのに、全然返信がないんですよ」
     2分おきの発信を繰り返している履歴を見せながらアキラが答えた。
    「故障かな? それとも、お母さんにメガネを取り上げられちゃったのかな」
     デンパがのんびりとありがたくない推理を披露した。が、重要なフォーマットをメガマスがうるさく宣告している状況から、親にメガネを没収されるというケースは考えられる。ナメッチについてはとりあえず諦めて、4人で準備を進めるか――
     そう思った時、私の電話が鳴った。発信元は当のナメッチだ。
    「おい、何があった? こっちはもうそろって――」
    「僕を除いて、かい」
     ナメッチの声ではない。けれど私の良く知る、
    「お兄ちゃん」
     電話の向こうでため息が聞こえた。
    「イサコ、どうして僕抜きで通路を開こうとした? 僕のメガネはどこへやったんだ」
     怒っているというより、なかば諦めたような口ぶりでお兄ちゃんは言った。
    「お兄ちゃんは元々”あっち”への接続に反対してたじゃない。嫌なら来なくていい。お兄ちゃんがいなくても私だけでやれる」
    「2.0に襲われたらどうする」
    「対策は打ってあるわ」
     お兄ちゃんは舌打ちした。
    「メガマスの『例外3』を引き起こしたのはやっぱりイサコだったんだな」
    「そうよ」
     お兄ちゃんが怒りを我慢しているのが伝わると、どこかに隠れていた後悔が降ってわいたように現れ、そうと悟られるのが嫌で、私はわざとらしく語気を強めた。
    「私がお姉ちゃんを助けてみせる」
    「無理だ」
     間髪入れずに返事は来た。
    「不確定事項が多すぎる。今からでも遅くない。計画を中止して戻ってくるんだ」
    「私に命令しないで!」
     その言葉を、他ならぬ私自身予想していなかった。が、ほとんど反射的に答えたそれが、結局私の言いたい全てだったのかもわからない。そう感じてしまえば、続きの文句も口をついてこぼれ出た。
    「パスワードを集めたのは私よ! お兄ちゃんは何もしてない。あの時もそうだった。お兄ちゃんが臆病だったから」
     感情が激して、心の一部がひどく痛んだ。その痛みだってお兄ちゃんに責任があるのだと思った。
    「お姉ちゃんの事故はお兄ちゃんのせいだ!」
     私は電話を切った。

     ガチャギリたちは気をつかってくれたのか、準備の間、私とお兄ちゃんのケンカについて聞いてきたりしなかった。私たちは黙々と作業を進め、お昼前にはいつでも”あっち”への通路を作れる状態になっていた。
     後はCドメインへの接続操作ひとつというところで、私は作業を止めた。
     冷や汗がにじみ、お兄ちゃんと変わらない自分の臆病さに苦笑が漏れた。それでも手は動かない。最後のその操作を自分の責任ひとつでやるには、私の決断力は未熟に過ぎたらしい。
    「うまく行ってるか?」
     正直に言って、その声が背中にかかった時、私は安心した。背中を押してくれる誰かが現れたと思ったからだ。
     だが、振り向いて出かかった笑顔は中途半端に固まった。
     ハラケンの後ろに半分隠れるようにして、カンナがこっちを見ていた。
    「イサコちゃん、こんにちは」
     カンナはこの場に完全に不似合いな挨拶をした。
    「カンナ――どうしてここに」
     カンナが答える前にハラケンが口を開いた。
    「君にはそれくらいわかってたんじゃない?」
     口元はほほえんでいるが、目は私を刺すようだ。
    「……お前は、はっきりと目的を話さなかった」
    「話してなくてもわかっていたろう、といってるんだよ。この通り、君の危惧は正しかった。そして、それは君自身の選択だ」
     ハラケンにすっかり心を見透かされていたことに私は驚き、カンナに対して恥ずかしく思った。
    「僕はこれからカンナにこの世で一番きれいなものを見せる。カンナも僕についてくると言ってくれたよ」
    「本当か?」
     自分の弱さを棚に上げて、私はカンナに聞いた。カンナですら、私と同じ弱さを持っているのだろうか。期待と不安が半分ずつ心を占め、そしてカンナがどんな返事をしてもそれは半々の安心と失望に変わるだろう。
     カンナはゆっくりと首を縦に振った。
    「私は研一と一緒に行くわ。研一のことが好きだから」
     それはこれ以上なくシンプルな答えだった。私は思わずカンナの顔をのぞき込み、それでいてすぐに目をそらした。
     カンナが強いのか弱いのか、私にはわからなくなった。何も言えずにいると、ガチャギリが耐え切れなくなったように割り込んできた。
    「おいおいイサコ、こりゃ一体どういうことなんだよ。何で探偵局のハラケンたちが出てくるんだ。こいつら、何をしようとしてるんだ」
     ハラケンは穏やかな顔を崩さずに答えた。
    「僕たちも”あっち”に行かせてもらう。イサコとそう契約したんだ」
    「何だって? 本当ですか、イサコさん」
     私は機械的にうなずいた。
    「細かい話は後にしよう。イサコ、もう準備は終わったの?」
    「ああ」
     短く答えると、同時に手が動いた。さっきまであれほどためらっていたCドメインへの最終接続を、私はほとんどなんでもないことのように終えた。
     空間の一部が強いオレンジ色に輝いた。照らし出されたカンナの顔をまともに見ることができずに私はうつむき、寄り添ったふたりの足音が次第に遠ざかるのを、まるで意味のある言葉のように聞いていた。

    電脳コイル〈3.00〉 -第17話 思い出の帰る日-

    C part

     夕方から曇り始め夜は雨が降って、夜明け前にやっとやんだけれども雲の垂れこめる重い朝だった。どうしてそこまでよく知っているのかというと、昨日はよく寝つけなかったからだ。原因は1本の電話にあった。

    「実は、メガネを貸してほしいんだ」
     久しぶりのハラケンからの電話で浮き立っていた心は、そのひと言で厚く陰った。
    「知ってるだろ、僕のはオバちゃんに取り上げられちゃって」
     明るい口調だった。最近のハラケンにしては珍しいほどの。そう思って、カンナの引越しを知ってからのハラケンの変わり具合を改めて感じ、ハラケンの中にカンナの存在がどれほど大きいかに思い当り、心の中の重いものがそんなカンナへの嫉妬なのではないかとこわかった。
     答えない私の気持ちを知ってか知らずか、ハラケンは続ける。
    「カンナの引越しまでにどうしても渡しておきたいプレゼントがあるんだ」
    「プレゼント……」
     思考は内向きに沈んでいたから、答えはほとんど無意識のオウム返しだったはずだ。それなのにその言葉のあまり暗くて陰気な感じに私は驚いて、それで現実に引き戻された。
     簡単にメガネを貸したりしていいものだろうか。ハラケンの言葉は嘘かもしれない。果し合いの「裏切り者」がハラケンではないかという疑念がどんどん膨れ上がる。口元まで断りの文句が出かけた、その時。
    「お願いだ。カンナのために」
     それが私の一番言ってほしくない言葉だと、多分ハラケンはわかっていたのだろう。そして、そう言われた私には、ひとつの答えしかないことも。
     私は私がカンナに嫉妬しているのではないと、心に湧きあがった黒雲がカンナのせいではないと、ハラケンに、何より私自身に証明しなければならなかった。
    「いいわ」
     胸のあたりの苦しい、とても嫌な感じだった。
    「ありがとう」
     ハラケンは短く答えて電話を切り、私と沈黙が後に残された。
     私はハラケンにもカンナにも嫌われたくない。ふたりのことが大切だから。だからその答えは出た。けれど、ハラケンはメガネを使って何をするのか。私はもしかすると、ハラケンとカンナのふたりにとって取り返しのつかない何かの後押しをしてしまったのではないだろうか。
     私は力なく電話帳を立ち上げる。ハラケンの番号はすぐに見つかる。「通話」を選びかけて指は止まる。
     何を話す? いくらメガネを使う理由を問いただしたところで、ハラケンの返事は「カンナへのプレゼント」で変わらないだろう。もし私がメガネを貸せないと言えば、カンナを嫌いなのかと、ハラケンは容赦なく責め立てる。私は答えられない。
     電話帳のページが変わった。私は卑怯者だ。
    「もしもし、タケルです」
     いつもと変わらないタケル君の声の優しさに、私はすがっている。
    「タケル君……。実は、お願いがあって」
    「どうしたの? 何でも相談に乗るよ」
    「あの――。できたらでいいんだけど、実はメガネをひとつ、貸してほしいの。友達がメガネを壊しちゃって、しばらくの間でいいから」
    「しばらくって、何日くらい?」
     そう聞かれて、期間も聞かずにハラケンの頼みに応じてしまった自分の間抜けさに気がついた。
    「ええと、具体的にはわからないんだけど、修理が終わるまでの間」
    「うーん、メーカー修理だとすると、ちょっと時間がかかるね」
     タケル君の声は冷静で、私は余計に惨めな気分になった。
    「ごめんなさい、無理言っちゃって。他を当たってみる」
     恥ずかしくて電話を切ろうとすると、
    「あっ、ちょっと待って。大丈夫。ひとつなら僕がなんとかするよ」
    「あ、ありがとう」
     タケル君まで巻き込んで、でもどこかで安心している私は、やはり小心な卑怯者なのだった。

     朝ごはんを食べた後、私は気分が良くないと言って部屋に戻り、普段着のままベッドでうつらうつらしていた。臨時フォーマットで外出禁止だから、タケル君は来ないだろう。こんな時いつもうるさい京子にはデンスケをくっつけて部屋から追い出した。今日はメガシ屋も休みといっていたから、オババが適当に相手をしてくれるはずだ。
     眠りに落ちかけると夢が出てきて、そこにはハラケンやタケル君やカンナや、そうしてかフミエちゃんやイサコまで出てきて、みんなで私を責める。ひとりひとりが何を言っているのかはわからないけど、私に対して腹を立てているのはわかる。謝りたいけどどう謝ればいいのかもわからないまま私は口ごもり、いたたまれなさがつのると目が覚め、どんよりとした外の天気を眺めるうちにまた寝入っている。その繰り返しだ。
     消え入りたいくらいに身を縮め、ブランケットに頭を突っ込んでいると電話が鳴った。お昼くらいにはなったかと思ったのに、まだ10時だ。着信はタケル君から。
    「メガネ持ってきたよ。ヤサコの家の近くまで来てるんだけど、大丈夫?」
    「えっ!? こんな危ない時に」
    「うん」
    「と、とにかく上がって。――ああ、裏に玄関があるから、そっちに回って」
     なんとなくオババには知られたくなかった。私はベッドから飛び出て、音をたてないように小走りに廊下を抜ける。
     玄関の扉を開けると、タケル君はもうそこに立っていた。
    「こんにちは。はい、約束のメガネ」
     変に角ばった動作でメガネを突き出す。
    「ありがとう。どうぞ上がって」
    「い、いや。ここでいいよ。それじゃ」
     タケル君は回れ右して帰ろうとする。私は慌てた。
    「あ、待って。お礼にお茶くらい入れるし、それに今は危ないわ」
    「ううん。お礼してもらうほどのことじゃないし、それに2.0も心配ない」
    「心配ないなんて、そんなはずないでしょ。あのイサコだって2.0にやられかけたのよ」
     その情報はオバちゃんからオババ経由で知らされていた。
    「大丈夫。あいつには対策があるんだ」
     タケル君が簡単に言ってのけたのに、私はかえって驚いた。
    「一体どんな――」
     対策があるのか、と聞きかけた時、電話が鳴った。
    「ヤサコ、こんな時ごめん。メガネの件だけど」
     ハラケンだった。
    「うん。1個準備できた」
     ごめんという言葉を透かす思いで、そこに込められたハラケンの感情を探したが、頭の中でいくら繰り返してもかけらも見つからない。とても寂しくなり、そしてばかばかしくなる。そうして冷ややかに笑うと、私は自棄になった。
    「これから持っていこうか」
     持っていくうちに2.0に撃たれるかもしれない。いや、むしろそうなればいい。そうなれば、私はハラケンにメガネを届けずとも許される。
     回線の向こうの声は一瞬詰まり、そして答えた。
    「ありがとう。頼むよ」
     本当に笑っちゃうくらい、私はハラケンになんとも思われてないんだなあ。いっそせいせいする。
    「せいせいすらあ」
    「は?」
     これはハラケンとタケル君と、ふたり同時の言葉だ。
    「ううん、なんでもないの。すぐ行くわ」
     私はハラケンの答えを待たずに電話を切った。
    「ごめん、タケル君。私、行かなきゃ」
    「ちょ、ちょっと待って。どうしたんだ、いきなり」
    「メガネ、すぐにでも必要みたい」
     玄関に座ってサンダルからブーツに履き替える。下を見ると嫌なものが落っこちそうだし、上を見るとタケル君にわかってしまうので、中途半端に斜め前を向いて足を無理に突っ込む。
    「ヤサコ、待って。ひとりじゃ危ない。僕も行くよ」
     顔を上げずに聞いたタケル君の声に本気で心配しているふうを感じ取り、私はそれがハラケンだったらなんて思い、そう思うなら私もハラケンと同じくらい傲慢で、まったくどうしようもないというか、ホンットいらない子だよね、私。とタケル君に言いかけて、言ったら感情の堰が切れてすごいことになりそうだったから黙ってうなずく。感謝の気持ちは伝わっただろうか。そもそも私のこの渦巻く感情の中からそういう気持ちを見つけ出すことができるだろうか。

     晴れた空はぽかんと寂しいけれど、そのこわいくらい開け放たれた何もない向こうへ嬉しいのも悲しいのも投げ出してそれでもきれいだからとても救われる。それじゃ、今日みたいな曇りは? 曇り空は私の心を押し隠して、あいまいな感情に満ちて町を包む。私は心に重たいしこりを隠したまま霧の中を歩み、それは懐かしい、悲しい、親密な、後悔する、言葉ってこういう時はっきりと気持ちを言い当てられない。
     帰り道だった。
     ハラケンは玄関のドアを半分だけ開けてメガネを受け取り、それで終わりならそれでいいものを、
    「ありがとう」
     と微笑んでみせたので私の心はまたはかない喜びで暗くなった。なんでもないようにうなずいて背を向け、電脳霧の漂う町の中をタケル君とふたりで歩く。2.0の姿を時々見かけたが、私たちより霧の処理を優先しているらしく、近づいてこなかった。
    「寄っていきなよ」
     静かな、けれど妙に甘えた声で私は言う。
    「メガネを貸してもらっただけじゃなくボディガードもしてもらって、このままじゃ悪いよ」
    「うん――」
     タケル君は沈んだ声で肯定とも否定とも取れる返事をし、話題を変えた。
    「原川君はどうしてメガネを借りたがってたのかな」
    「ああ、それはね。オバちゃん――宗助さんの同僚の原川玉子さんってハラケンの実の叔母さんなんだけど、そのオバちゃんにメガネを没収されちゃったんだって。それで、代わりのがどうしても必要だったみたい」
     カンナの話はしなかった。
    「ふうん」
     タケル君は考え込んだ顔で答え、ふと止まった。
    「おかしいな」
    「えっ? 私の話、どこか変だった?」
    「そうじゃなくて空間が――」
     その時、私の身体を異様な違和感が突き抜けた。目の前の景色がぐにゃりと曲がるような。めまいがして地べたに座り込み、思わずメガネを外しかけた。
     その手の動きは、強い力で抑えられる。その途端、また違和感。止まったはずの手が勝手に動いてメガネにかかる。
    「ダメだ! メガネを外すな!」
     タケル君が叫ぶ。つかまれたままの私の腕が真っ黒に染まっている。ひじのところからもう1本の半透明の腕が伸び、メガネのへりに触れていた。
     電脳体分離だ。
     突然、視界の右上に真っ赤な表示がともった。同時に甲高い合成音声が悲鳴を上げる。
    『緊急警報。例外第3項が発生。外出者は速やかに帰宅、あるいは最寄りの建物に避難し、メガネの電源を切ってください。繰り返します。速やかに避難、メガネの電源を切ってください。メガネの電源を切ってください』
    「何これ!?」
    「ちょっと待って!」
     タケル君は素早く私のメガネにアクセスした。何をしたかわからないが、30秒くらいで赤い緊急表示が消え、音声も止まった。
     突然の警報に硬直していた身体がなよなよと崩れる。そんな私の肩をつかんで、タケル君はどなった。
    「いいかい、決してメガネを外したり、電源を切ったりしちゃダメだ。電脳体分離が直らなくなるかもしれない。すぐに帰って、家でじっとしてて。電脳体分離が戻らないようなら、小此木先生に相談するんだ。わかったね!」
    「う、うん」
     気圧されて私はうなずいた。
    「じゃあここでさよならだ。僕も家へ帰るよ」
    「待って……。一体何が起こったの?」
     タケル君は私から視線を上げた。その眺めやる先、駅前のメガマス新本社ビルが半分黒く塗りつぶされ、何十基もの2.0がそっちへ向かっていた。
     タケル君が口の中でつぶやいた。それは私にもはっきり聞こえた。
    「例外3。メガマス本社へのサイバーテロだ」

    電脳コイル〈3.00〉 -第17話 思い出の帰る日-

    B part

     毎年思うことだけど、9月っていうのは中途半端な季節だ。学校が始まり、暦では秋。けれど、8月31日と9月1日の何が違うっていうんだろう。お昼の日差しは夏そのもの、冷房のない古い校舎は暑い。そういえば校舎移転の話は何年も前から噂に上っていたけれど、結局卒業まで実現しなかった。移転先としてあげられていた駅前のビルが、後から名乗りを上げたメガマスに取られてしまったからだともいう。メガマスの本社機能移転がまさに今日だから、その話は本当かもしれない。
     まあ、僕にとってはこの古い校舎のほうがいい。カンナとの思い出とか、そういう感傷的な理由だけじゃない。6年もいれば、教師の目の届かない秘密の場所なんかも覚える。
    「ここに呼び出されるのは2回目か、ハラケン」
     とりとめのない考えにひたっていた背中に声が届いた。
    「そうだね。ちょうど終業式以来」
     僕は振り向いて笑った。そして笑う自分を奇妙に思った。
    「なんだか余裕ができたかな、僕たち」
     言われたイサコは最初驚いた顔を浮かべ、その後で吹き出した。
    「お前にはそう見えるのか」
     笑った目が少し充血している。多分僕もそうだ。実際のところ、終業式の頃に比べて僕は切羽詰まっているし、イサコもそうなのだろう。けれど、切羽詰まったその先の結末を、僕はつかみかけている。もう少しだ。もう少しで、この空も学校も懐かしい思い出も全て僕たちのものになる。
    「お前のパスは確かに有効だった。新型が出てきたせいで役には立たなかったがな」
     イサコが1歩進み出た。
    「それは良かった」
    「良かったですますつもりはないだろう。礼を言わせて終わらせるつもりも」
     イサコはさらにこっちに向かってくる。僕は思わず後ずさりした。
    「交換条件はなんだ」
     僕は立ち止まる。陽がかげってイサコの表情が見えなくなった。それが僕のひるんでいた心に変化をもたらした。
    「僕を”あっち”へ連れていってほしい」
     今度はイサコが歩みを止めた。
    「君がパスワードを集めていたのはそのためなんだろう。僕も一緒に連れていってくれ」
    「――何のために」
     陽が戻って床がぎらついた。うつむいたイサコの顔は、今度は逆光にくらんで見えない。
    「それは君と関係ない。僕は僕の目的、君は君の目的のために協力すればいい」
    「カンナが――」
    「僕は君たちにもう2回力を貸した! サッチーのパス、それに果し合いでも。君は知らないだろうけど、僕がナメッチに情報を流さなかったら、君たち黒客が果し合いに勝てたかどうか」
     僕はたたみかけた。ここが勝負どころだ。
    「もし断ると言ったら」
    「君の計画を阻止する側に回るよ。メガマスに情報をリークして、2.0にパスワードを破壊させる」
     イサコが顔を上げた。意外にすっきりした表情で、
    「どうやらお前の提案を受け入れざるを得ないようだな」
    「え……」
     僕は拍子抜けしてしまった。
    「なんだ? 不満か」
    「い、いや」
     もっと渋るだろうと思っていたんだけど。
    「ところでお前はメガマスの内情にも通じているらしいな」
    「えっ、ああ。まあそうだけど」
    「それならお前も知ってるな。メガマスの新しいサーチマトンについて」
    「う、うん」
     嘘だった。そういうものが運用され始めたらしいという情報だけオバちゃんから伝わってはいたが、具体的にどんなものかまでは全く知らない。
    「”あっち”への通路を開く時、そいつが邪魔だ。止める方法を知らないか」
     無理だ。僕のパスが通じるのはサッチーだけだし、そのパスはオバちゃんに封じられてしまった。まして新サーチマトンについてなんて。
     だが、断るわけにもいかない。
    「どうした。お前にもいい案はないのか」
     僕はイサコから目をそらした。まずい、ここで役に立たないと思われたら”あっち”に連れていってもらえないかもしれない。何か方法はないか、何か。
     あせって移した視線に新築の駅前ビルが映る。風景はそこで止まる。
    「何を見てるんだ?」
     僕の内側で、ある考えが次第に形をなした。
    「アイデアレベルだけど、ひとつある」
    「本当か!?」
     イサコらしくもなく素直な喜びが表情に上る。どうやら、本当に困っていたらしい。
     その顔を見ていたら、もう1個の名案が浮かんだ。
    「ただし、僕のほうからも条件がある。メガネをふたつ用意してくれないか」
     オバちゃんに取り上げられてしまった僕のと、それから修理中のカンナの分。
    「――ひとつなら何とかしよう」
     少し迷った末、イサコは硬い表情でそう答えた。

     夕方、部屋にオバちゃんが来た。
     僕はベッドに腰かけ、これまでのことやこれからのことを考えながら外の風景を眺めていた。だから呼びかけられるまで気がつかなかった。
    「久しぶりね」
     振り向くと、オバちゃんは僕の椅子に座って足を組んでいた。今日は高校の制服を着ている。そっちも始業式だったんだろう。
    「別に久しぶりでもないよ。何日か前に会ったばかりだ」
    「そうだったかしら。近頃は事件が多すぎて、数日前でもずっと昔みたいに感じるわ」
    「何の用だい」
     世間話に興じるつもりはなかった。
    「つれないわね」
     オバちゃんの口調が冷えびえと凝る。
    「じゃあ単刀直入にいきましょう。何故サッチーのパスを黒客に教えたの。おかげでこっちは大損害をこうむったわ」
    「僕がやったっていう証拠でもあるの」
     それを問いただされる時が来るのはわかっていた。僕は徹底的にしらばっくれることに決めていた。
    「証拠も何も、サッチーのパスは空間管理室以外ケンちゃんしか知らないじゃない。他に出所はないわ」
    「どうだかね。空間管理室にだって、疑えば怪しい人間だっているんじゃないの。宗助さんとか」
    「あいつはそんなヤツじゃないわよ!」
     オバちゃんは珍しく感情的になって答えた。
    「確かにあいつの父親はメガマスから会社を追い出された。だからメガマスには恨みを持ってると思うわ。でもね、あいつはそんな感情は棚上げして、安全な空間を作るために働いてるのよ」
    「わかったよ、わかった。僕は別に宗助さんが犯人だなんて言ってるんじゃなくて、僕以外にも容疑者はいるよと言ってるだけだ」
     オバちゃんは鼻白んだ。その後でゆっくりと立ち上がり、
    「ケンちゃん、あなたはどうしても自分はやってないって言うのね」
    「ああ」
    「そう、わかったわ。それじゃ私がこれ以上ここにいる意味もない。帰るわね」
    「またね」
     僕は立ち上がりもせず片手を振った。ふと、それが最後の挨拶かもしれないと思ったが、それでも特別な感情は湧いてこなかった。
     オバちゃんはドアノブに手をかけ、そこで僕を振り返った。
    「最後にひとつだけ。ケンちゃん、私は力づくでもあなたを止めるわよ」
     僕は答えなかった。
     ドアが閉まると、僕はひとつ用事を思い出した。携帯電話を手に取り、ヤサコの番号にかける。
    「ハラケン!? どうしたの」
     嬉しいのと不安なのと混じり合った声だった。ヤサコは嘘がつけない、素直な子だと思う。カンナも素直だ。それなのにヤサコとカンナは違う。もしカンナと巡り合っていなかったら、ひょっとすると僕はヤサコを好きになっていただろうか。
    「実は、メガネを貸してほしいんだ。知ってるだろ、僕のはオバちゃんに取り上げられちゃって。でも、カンナの引越しまでにどうしても渡しておきたいプレゼントがあるんだ」
    「プレゼント……」
     電話の向こうの声は明らかに沈んだ。僕の中にヤサコをかわいそうと思う感情が芽生えかけ、けれど僕はそれを踏みつぶした。踏みつぶすのには一種の残酷な喜びがあった。
    「お願いだ。カンナのために」
     僕は何も知らないふりをして、純情な僕を演じる。ヤサコはきっと、僕のが演技であるとわかっていながらそれに気づかないふりをして、ますます傷つくだろう。
    「いいわ」
     僕はその答えに満足した。

     夜、いろいろな夢を見た。眠りが浅い。部屋の天井には何年か前に台風が通った時にできた雨漏りの跡が、今もそのままに残っている。窓の外の光景は何年もの時間をかけて少しずつ変わってきた。
     変わらないと思うものも永劫の昔から変わっていないはずがない。いつかそれは生まれ、いつか僕はそれを感じ取り、いつかそれは変わる。
     変わらないと思うものもいつの間にか変わっているなら、僕が今、変わらないと感じているそのこと自体が、変わってきた過去を押しつぶすことで存在しているのだ。潰れた過去はどこへ行くのだろう。心の中に残っているのだろうか。過去を忘れ去るのは過去に対する冒涜ではないだろうか。
     僕はもう大切なものをいくつも手に入れた。その過去を忘却するわけにはいかない。一番きれいな瞬間に、時は止まるべきだ。

     翌朝、学校から通知が届いた。メガマスによる大規模フォーマットが通告されたため、市内の学校は臨時休校になる。1日メガネを外して、自宅から出ないでいるようにと。
     ヤサコから電話があって、メガネの算段がついた。計画は今日実行だ。
     僕は僕の一番きれいな世界へと歩みを進める。カンナの手を取って。

    電脳コイル〈3.00〉 -第17話 思い出の帰る日-


     古い記憶によると、本当に悲しいのは悲しさを忘れてしまうことだそうです。

    A part

     勝てない相手だとわかってしまうと無力感にとらわれた。自分の半ばは自分を離れて、徒労に終わる逃走劇を続ける片割れを滑稽に思いながら傍観している。昔逃げる夢を見て、普通そういうのは追い詰めらる前にで目が覚めるものだが、どうしたわけかその時は最後まで、つまり捕まるところまで見てしまい、その時のむしろあっけらかんとした気分を今も覚えていて、それが傍観する自分の感情に符合するから、より絶望しているのはきっとそちらの私だ。
     暗号を失ってしまうのは悲しいことなのだろうか、そもそも私にとって悲しいとはなんだろう。私とお兄ちゃんは5年間をずっと、お姉ちゃんを失った悲しみのうちに過ごした。そう思っていたが、悲しさや後悔や後ろめたさは5年のうちに私の心そのものと見分けがつかなくなってしまった。風化して消えたのか、はたまた飽和して無感動になったのか、黒い空虚に撃たれれば、答えが見つかるのかもしれない。
    「イサコ! 暗号を持って逃げろ」
     そうくると思った。ガチャギリは、自分たちでこの新種のサーチマトンを引きつけようというのだ。皮肉な笑みが漏れるのは、しかし傍観者の自分ではないほうなのを誇らしく感じる。
     お姉ちゃんを助け出したいのに変わりはない。でも、だからといって、こいつらを見捨てるわけにはいかない。私は黒客のリーダーでもあるのだから。
    「ムダ弾を撃つな。通常攻撃は効かない」
     私自身、何度も暗号を撃ってそう悟っていた。『No Image』とは、そこに捕捉不能なものがあるという意味ではなく、むしろ電脳上何もないと理解するのが正しい。この、恐らくはメガマスの新型オートマトンは、通常空間には存在しない。どこか別の仮想空間から何らかのリンクを伝って通常空間を切り取り、私たちに攻撃を加えているのだ。いわば、私たちは地面を這いまわる虫けらで、新型オートマトンは空から迫る鳥のようなものだ。
    「壁だ。少しでもヤツの動きを遅らせるんだ」
     ガチャギリは叫びながら、自分でも鉄壁を作って投げつける。残念だが無駄なことだ。オートマトンはそもそもここにいないのだから。通常空間内での障害物など、敵の進行に毛ほどの妨げにもならない。
     壁の真ん中からぬっと突き出した立方体の角が丸く光った。
    「危ない!」
     アキラに引っ張られて、ガチャギリが慌てて後ずさる。一瞬の後にフォーマット光線が放たれ、今までガチャギリのいた道路のテクスチャが粉みじんに破砕された。
    「まずいな。なりふり構わずか」
     普通のサーチマトンなら、いくら電脳治安維持法違反案件のフォーマットといっても、通常空間への被害が最小ですむような設定がなされている。サーチマトンの目的は、あくまでも電脳空間の安定化のためだからだ。それがこいつは違う。一時的に空間を乱してまでフォーマットを優先する、これまでにない攻撃的な発想で作られたオートマトンだ。
    「もう1発来るよ」
     デンパが鋭い声を上げた。直後にオートマトンの角が光る。反射的に飛びのいて攻撃をよけた後で、不思議に思った。
    「お前、よく攻撃のタイミングがわかったな」
    「わかるよ。危ない感じがするもの」
     ガチャギリが苦笑いした。
    「おい、アバウトだなそれ。俺たちにゃわかりゃしねーよ」
     だが。
    「いや、待て」
     デンパの『感じ』っていうのはつまりオートマトンの存在を感じ取っているのだ。本来、ここにはいないはずのそれを。だが、私も初めてこいつを見た時に同じ感じを受けなかったか。あれは長年の直感というだけのものか。
    「また!」
     デンパが短く叫び、敵に光が走る。光。
     そうか。
     気づくと同時に、私は暗号を放っていた。フォーマット光線と入れ違いに黒い無機質な切片に暗号が飛び込み、不規則な走査線が走る。
     敵がわずかに後退した。
    「そういうことだな」
     簡単な話だ。オートマトンはここにいないが、少なくとも攻撃の時にはそうではない。きっと、光線を撃つ直前に本体と目標空間の間にリンクを張るのだ。だが、それは同時に敵の弱点にもなる。リンクは逆にたどることもできるのだから。
    「よし、反撃だ」
     私は手早く暗号の破壊力を高めるブースターを並べ、のっぺりした黒に狙いを定めた。
    「来る」
     今度はデンパに言われなくともわかった。敵の表面が光るのとほぼ同じタイミングで、私は暗号を発射した。
     手応えがあった。ぱしっと小さな音が響き、『No Image』の文字が大きく歪む。
    「行けるぞ」
     相手より先にこちらの暗号を撃ち込めば、攻撃の機会を奪える。私は再び暗号を構えた。
     次の攻撃までは間が空いた。予想外の反撃に戸惑っているのか、それとも、さっきの攻撃が意外と効いたのか。敵が攻撃を受けない前提で作られているなら、もしかすると深刻なダメージを与えているのかもしれない。次の1発を構える手に、力がこもる。
     感覚の外周にちりちり走るものがあった。今度はデンパが言うより早く、私は暗号を放つ。またも敵の表面が波立ち、思わず私は1歩前へ出た。
     それがまずかった。敵の揺らぎが一瞬で同心円の波紋となり、よける間もなく閃光が私を貫いた。
     感じたことのない痛みが腕を走った。息がつまって私はつんのめる。
     反撃を受けた。逃げなければならない。頭でそう思っても、足が動いているのかわからない。それどころか、立っているのか倒れているのかさえわからなかった。ただ痛みが波となって押し寄せる。
    「イサコ、走れ」
     誰かが叫ぶのが頭の隅に聞こえる。私は足に動くよう念じる。神経がばらばらにほつれたように、私の意志は体に伝わる前に消えていく。
     気がつくと、まぶたの裏がふくらんで涙が溜まっている。メガネと、それからやっと手に入れた暗号を全て壊される。5年間の努力が今ここで消える。涙は悔しさ、いや、それとも――
     目の前に、無機質な立方体が浮かんでいた。私はなすすべもなくそれを眺め、時間が流れた。
     敵は、何故か私にとどめを刺さなかった。
    「どうしてだ?」
     呆然と眺めるうち、黒い四角はふわりと浮き上がり、やがて向きを変え、去っていった。
    「助かった……のか?」
     すぐ隣でガチャギリがつぶやくのが聞こえた。視線が傾いでいる。ガチャギリが私の腕をつかんで立たせようとしていた。私の見ているのに気づくと、ガチャは慌てて手を離し、帽子を深くかぶり直した。
    「間一髪だったな」
     知った誰かの声が背中にかかった。痛みを刺激しないようゆっくり振り返ると、原川玉子だ。
    「あんたが今のオートマトンを操作していたのか」
    「違うわ」
     原川玉子は眉をしかめた。
    「『2.0』はメガマスの管理するオートマトンよ。空間管理室には原則として操作権限がない」
     アキラが首を傾げる。
    「じゃあ今のはメガマスがやったの? お客様だし、メガネを壊さないように加減してくれたのかな」
    「バカね。メガマスはそんなに甘くないわよ」
     玉子はかぶりを振った。
    「あんたたちがやられなかったのは、タイミングが良かっただけよ。空間管理室による強制介入のね」
    「強制介入?」
    「ええ。メガマスによる2.0の運用は今日始まったばかりなのに、既に相当大きな被害が出ているわ。わずかなバグや違法ツールにも反応して徹底的にフォーマットをかけてくるし、場合によっては私有地にも立ち入り可能だから。それで空間管理室としてはフォーマットのやりかたが強引過ぎると判断して、緊急コードからアクセスして2.0に帰還命令を出した」
    「そんなことが――」
    「だけど、それは今回だけよ。多分メガマスは抗議して、空間管理室から2.0へのアクセス権を完全に抹消するでしょうね。そうなったら私たちにも、手も足も出ない」
    「サッチーは――。サッチーでもその2.0ってやつには勝てねえのか」
     ガチャギリが聞くと、玉子は悔しそうにうなずいた。
    「あんたたち、その目で見たでしょ。残念だけど、あの子たちの力じゃ2.0を止められない。止められないとわかってたから、かち合わないように気をつけてたのに、一体誰かしらね。余計なことをしてくれたのは」
     玉子は私たちをひとりひとり順繰りににらみつけた。最後になった私が答えずにいると、
    「まあいいわ。実行犯より問題は教唆したほうね」
     それが誰かわかっているというかのように寂しく笑って、玉子は私たちに背を向けた。

    「ただいま」
     あまりいろいろなことがありすぎたせいで頭が飽和して、かえっていつもどおりの挨拶で帰宅した私に、
    「お帰り」
     と、お兄ちゃんがこれまた普通の言葉を返した。だが、ひと目見た瞬間、こっちも無事ですまなかったとわかった。
     廊下とお兄ちゃんの部屋の間に、明らかな空間の途切れ目があった。お兄ちゃんの部屋は質の低い空間になっているらしく、絶え間なくノイズを発している。
     呆然と眺めていると、居間のほうからお兄ちゃんが首を出した。
    「メガマスのサーチマトンに襲われたんだ。まさか私有地までフォーマットの対象になるとは思わなかったから油断してたよ」
     お兄ちゃんは苦笑いした。
    「かなりやられたみたいね」
     廊下へ出てきたお兄ちゃんと並んで、不安定に乱れる空間を見ながら言うと、
    「そこは偽装空間だよ。これ以上の攻撃を受けないように、外からはフォーマット対象外に見えるようになってる」
    「通路を開くためのツールは無事なの?」
     お兄ちゃんは複雑な表情を浮かべながら、自分の部屋のドアを開けた。中に入って見回すと、空間の3割くらいが跡形もなく破壊されていて、生々しい戦いの跡を感じた。
    「最低限のツールは守り切ったよ。ただ、安全に通路を開けるかどうかは、何とも言えない」
    「どういうこと?」
    「襲撃が急だったからね。優先度の高い順にツールを隠したんだが、間に合わないものも多かった。単純に通常空間を”あっち”と接続するだけなら問題ないけど、長時間にわたって通路を安定させるのが難しくなった。それに、通路の位置の制御もできない」
     私は息をついた。どちらかというと安堵のため息だ。
    「それくらいなら大丈夫ね。計画は変更なしで行ける」
    「そうか?」
     お兄ちゃんの表情には迷いが浮かんでいる。
    「本当は他者の干渉を防ぐために、この家の中に通路を作りたかったんだ。その制御ができなくなってしまったから、通路はこの町の不安定な場所にできることになる」
     空間の不安定なところ。鹿屋野神社か、それとも中津交差点、廃工場。可能性を考えればいくつも候補地はある。通路を開く時、まずそれがどこにできたかを特定するのに時間がかかるし、さらにそれがサーチマトンにフォーマットされるのを防ぐ手立ても考えなければならない。
     確かに、簡単にクリアできることではない。ではないが、
    「致命的な問題じゃないわ。出現場所のサーチならこれまでイリーガルを探すのにやってきたし、この部屋みたいな偽装空間の技術を使えば、サーチマトンの目をくらますことだってできる」
     お兄ちゃんは首を振った。
    「偽装空間は広範囲に適用できるものじゃない。最低でも、現場周辺にサーチマトンを近づけないような対策が必要だ」
     私の答えを待たず、お兄ちゃんは続けた。
    「計画は延期しよう。最低でも1ヶ月、あるいはもっと」
    「反対だわ!」
     私は声を荒げた。
    「そんなの、新型サーチマトンに町中がフォーマットされるのを待ってるのと同じじゃない。この部屋の偽装だって、いつばれるかもわからないし、第一待ったところで有効なツールが作れるの?」
    「破壊されたツールの復元ができるかどうか、やってみないとわからない。だからそれを確かめて、直せそうならパーツを集めて――」
    「お兄ちゃん、時間がないの。多少の危険は元から覚悟してる。最後のパスワードも手に入れた。少しでも早くやらなくちゃ」
    「慌てるな」
     お兄ちゃんは少し語気を強めた。
    「まずそのパスワードを解析して、僕たちが現状どれだけのことができるか確かめるよ。その安全性もね。結論はその後だ」
     お兄ちゃんは手を出した。私は少しためらい、結局パスワードを差し出した。
     パスワードの解析と”あっち”への接続ツール作成は、お兄ちゃんにしかできないのだ。その仕事が終わるまで、私は指をくわえて見ているだけ。

     案の定というか、遅々として作業の進まないうちに日だけが過ぎた。夏休みは終わり、表向きだけの静けさの中、新学期が始まった。

    電脳コイル〈3.00〉 -第16話 最後のパスワード-

    F part

     お兄ちゃんは学校の成績が良くて、友人との付き合いもそつなくこなしているらしい。ハッカーなんていう別の顔を持っていると聞いても、クラスメイトの大半は信じないだろう。おじさん夫婦にも同じ接し方をしているから、ふたりともお兄ちゃんについては何の心配もしていないようだ。問題児というなら、イリーガルを追いかけ回して夜まで戻らなかったり、電脳や実物の傷を作って帰ったりする私のほうがよほどそれに当てはまる。
     だが、そのせいでお兄ちゃんにうらみがましい気持ちを持ったことなんて、1回もない。それがふたりの役割分担というものだから。お兄ちゃんはデスクワーク、私はフィールドワークに向いた素質を持っているのだ。そんなふたりの違いをうまく活かして、私たちはこれまでうまくやってきた。今も。これからも。
     今も。これからも。
     そのはずだ。それなのに、私はどうしてこんなに苦しいのか。お兄ちゃんとの会話の中に、かつてはなかった違和感を覚えるのは何故なのか。
     全てうまくいっているはずなのに。それなのに、このままではお兄ちゃんと私は、それと知らぬうちにまるで違った方向へ進んでいってしまうような気がしてこわい。
     落ち着け。そんなものは妄想にすぎない。野槌神社のイリーガルからパスワードを回収すれば通路は開く。もう少しで手の届くところまで迫った目標へのあせりが、ありもしない不安を生み出しているだけだ。
     確かに、お姉ちゃんが戻ってくれば、私とお兄ちゃんを結びつけていた共通の目的はなくなる。でもそれは私とお兄ちゃんを引き離したりはしない。昔だってそうだったじゃないか。
     あのころ、私はそういう齢の子供並みにお兄ちゃんとよくケンカした。幼児に2歳という差は乗り越えがたい。泣き出すのは私のほうで、そんな時は必ず、小さい私の胸の高さしかないブロック塀を乗り越えて、お隣の庭からお姉ちゃんの家に上がりこんだ。今思えば迷惑な子供もいたものだが、服のすそをしゃにむにひっつかんで泣いていると、お姉ちゃんは私の頭をなでてくれた。決まってお菓子を持ってきてくれたお姉ちゃんのお母さんの口からも、不満の言葉がもれたためしはない。それにしても、訪問の8割はそんなだったのだから、お母さんの私への印象は、「泣き虫のイサコちゃん」だろう。
     もっとも、覚えていればだ。事故の後、お隣はどこかへ越した。私たちもいろいろあっておじさんに引き取られて町を去り、そして何の因果か5年後にその町、大黒へ戻ってきた。
     話がそれた。とにかく、お姉ちゃんは私とお兄ちゃんをつなぎ止めてくれる。私が泣いているとお兄ちゃんが玄関から迎えに来るのが仲直りの合図だったのだ。
    「いつもごめん」
     昔から大人びたところのあったお兄ちゃんはそういう謝り方をしてお姉ちゃんの部屋に入ってくる。私は部屋を出されて、隣の居間でもらったお菓子をちまちまと食べながらお母さんの見るテレビを一緒に眺めていた。どんな番組をやっていたのかはまるで覚えてない。お菓子の味だって。そんなものより、ふたりは部屋で一体何を話しているのか、そればかりが私には気になった。
     待っている時間はものすごく長かったという記憶があるが、実際はおそらく15分とかそのくらいだろう。扉が開くと、私はお兄ちゃんのところに飛んでいってしっかりとその裾を握りしめた。握りしめながら私は扉の向こうを見る。お姉ちゃんはいつも、少し寂しそうに笑っている。その表情はカンナと似ている。
     いや、それは偽の記憶だ。お姉ちゃんとは別れが待っていたし、カンナとも別れが待っているから、私自身が想い出を無意識に書き換えているのだ。
     当時の記憶を仔細に探れば、私はお姉ちゃんの寂しさに構ってなどいなかったと思い出す。だってそれより私は私のことでいっぱいだったのだ。お兄ちゃんにしがみつくとうれしくて温かいのと不安なのと一緒にあった。うれしいのは、変わらずにお兄ちゃんに抱きつけたから。不安なのは、お兄ちゃんがまだ怒っていないかと――
     違う。不安なのは、お兄ちゃんが私を置いてどこかに行ってしまわないかと。

     私を置いて、お姉ちゃんと?

    「イサコ、なにボンヤリしてんだ!」
     ガチャギリのあせった声が飛んできた。私は夢から覚めたように周りを見る。
     ここは、はざま交差点。頭が痛い。違う、何を考えてるんだ、私は。ここは野槌神社だ。私はイリーガルと戦っている。クソ、頭が痛い。暗号炉に組み込んだパスにバグでもあったか。
    「危ない!」
     誰かの手が私の袖を引いた。お兄ちゃん、お姉ちゃん、いや、袖を引っ張るのは私自身だ。
    「イサコさん、イサコさん!?」
     耳元でがなりたてる声。アキラだ。
    「わかってる。大丈夫だ。すまない。頭が痛い」
     私の答えは私の記憶と同じくらいに脈絡を欠いている。
    「頭が痛い? 一体どうしたんですか」
    「もしかすると、昨日こいつ徹夜したんじゃねえか。サッチーを領域外に連れ出すなんて、いくらイサコでも並大抵じゃできねえだろ」
     ガチャギリの声が言う。
    「こっちで休んでなよ」
     私を引く手の正体はデンパのようだ。情けない、ことイリーガル戦でデンパに助けられるとは。
    「心配いらない。やれる」
    「危ないよ」
    「お前たちに任せておいたほうがよっぽど危ないだろう」
     私はデンパの手を振り払う。柔らかい手。私を引いて交差点の向こうへ歩き出そうとしたお姉ちゃんの手を、私は振り払った。私はこわかったのだ。
    「大丈夫だ、イサコ。お前がいなくてもサッチーと俺たちでなんとかする」
    「サッチー……」
     そうか。私は昨日、空間管理室から持ち出されたサッチー2基のパスを手に入れた。さらに論理結界を加工し、神祇局の所管への侵入を可能にした。
     サッチー2基と戦わせてイリーガルを倒す。かなり強引な作戦だが、背に腹は代えられない。
     エメラルドとオレンジの光が目の前で交差する。サッチーとイリーガルの撃ち合う色だ。時々ガチャとアキラの放つミサイルが混じる。私はどうしてか、オレンジに親しみを感じてしまう。あの日もそうだったから。そういう夕陽だった。
    「霧が出てきたよ」
    「ちっ、昨日と同じだ」
     突然、恐怖が湧きおこる。黒い霧は、夕陽に満ち足りた世界に抗うようにそこに存在していた。幼い私は本能的に危険を感じ取った。
    「デンパ、頼みがある」
    「えっ」
     振り返った鼻先にウィンドウを突きつける。『接続を中断しますか』というメッセージ、『はい』と『キャンセル』のボタン。
    「イリーガルを断線する。10分経ったら話しかけてくれ。答えがなかった時は、『はい』のボタンを押すんだ」
    「これ、どういう意味なの」
    「説明している暇はない」
     納得いかなさそうなデンパを無視して、私はパスワードを展開した。今までに集まったものだけでも、Cドメインに近づくまでならできる。
     昨日、サッチーのデータを解析している時に気がついた。論理結界とは、サッチーにとっては、入れない領域ではなく、そもそも存在しない世界なのだ。人間に例えれば、5次元とか6次元とでも言えるだろうか。学問的には存在を言われるが、想像することも、まして実際に触れることもできない世界。
     逆に、私たちには感知できないが、オートマトンや電脳体だけが入れる未知の領域がある。私はその入口を探すのに必死だが、もしかするとイリーガルにとっては、そんなものはそこら中に転がっているありふれたものなのかもしれない。
     ならば、野槌神社のイリーガルは、危険を感じるとそんな領域に避難しているのではないだろうか。ちょうどサッチーに追われた私たちが神社に逃げ込むように。
     だとすれば、打つ手はある。サッチーに施したのとは逆に、イリーガルとCドメインのリンクを断ってしまえばいいのだ。
     パスワードをつないだ不完全な入口を暗号炉につなげると、自分の内側をのぞきこむような、それでいてその自分が際限なく広がっていくような感覚に捉われ、猛烈な頭痛と吐き気が込み上げた。体をくの字に曲げて無理やり押さえつけると、涙で視界がぼやける。

     光。細く射す光がそのまま道に。私は歩いている。あの時と同じ。
     いいや、あの時の私はここにはいない。いるとすれば、それは道の向こうだ。夕陽の向こうの真紅の世界。それがあの日の交差点と同じなのは、その世界自体をお姉ちゃんが作ったからだ。
     道のわきで大きなものが動いた。
    「いたな」
     イリーガルだ。近くで見るとその姿は蛇というよりホースかチューブのようだった。まん丸く開いた口。先が見えないほどに長く、長く伸びた胴。胴の向こう側は通常空間につながっているに違いない。つまり、イリーガルの身体は、通常空間だけでなく、電脳空間に対しても長さを持っていた。
     口をふさいでしまうのがいいか。それとも体を断ち切ってしまうべきか。
     結論が出る前に、イリーガルのほうが動いた。私は慌ててよける。イリーガルの攻撃はそれ、息をついて反撃に移ろうとした瞬間、ばちっと嫌な音が響いた。
    「しまった!」
     私は後ろを見た。イリーガルの攻撃対象は私自身ではない。私の通ってきた、まだ不完全なCドメインへの道。壊されたら私は元の身体に戻れない。電脳体分離したまま、永遠にこの何もない場所に取り残される。
     イリーガルが通路にもう1度体当たりした。不規則な青い光が揺れ、一部がぼろぼろと砕けて消えていく。
    「やめろ!」
     私は電脳の大剣を取り出してイリーガルに切りつけた。胴の一部がクラックされ、モザイク状に壊れる。
     ため息とも叫びともつかない声を上げ、イリーガルが身体を揺する。空間全体が揺れ、私は片ひざをつきながらも大剣を繰り出す。突っ込んできた胴体を剣が両断する。
     うまくいったと思ったのもつかの間、切られた胴体から霧が吹き出す。霧は暗号を侵食して、道を削り取っていく。
     私は走り出す。通路を逆に、もと来た方向を目指して。霧が足に粘りつく。追いかけられる夢の中のように足がゆっくりとしか動かない。
     復元だ。頭痛を我慢しながらパスワードの修復プログラムを立ち上げる。じりじりしながら待ってようやく起動したプログラムだが、重い。復旧より浸食の速度のほうが早い。
     まずい、間に合わない。もがくように進みながら、心には次第に黒い絶望がつのってくる。青い道はどんどん細まっていく。ついに足を踏み出すこともできないくらいになった時、全身から力が抜けた。

     体が揺れている。誰かが私をおぶって歩いているのだ。私はお兄ちゃんにおんぶしてもらったことがない。そういえばお姉ちゃんにもない。お姉ちゃんといる時は大抵がお兄ちゃんと3人だったからだ。疲れたと言ってお兄ちゃんにおんぶしてもらうのは、お姉ちゃんの前でわざと甘えているみたいで嫌だ。だから、本当に疲れていても、私は黙っていた。
     じゃあ、今、私を背負っているのは。
    「あっ、気がついた」
     隣でアキラが大声を上げた。
    「降ろしてくれ」
     2度もデンパに助けられるとは、今日は厄日だろうか。
    「待って。気がついていきなりじゃ危ない」
     珍しくデンパが強い口調で言った。
    「イリーガルは? パスワードはどうした」
    「落ち着け。イリーガルは消滅した。パスワードは、なんとか見よう見まねで抜き取ったぜ」
     アキラの反対側を歩いていたガチャギリが、球体の中を光が飛び交う不思議な電脳物質をかざした。
    「見せてくれ」
     慎重に受け取って調べる。欠陥はない。
    「ガチャ、よくやってくれた。これでパスワードがそろったぞ」
    「礼を言ってくれるのはありがたいんだがな」
     ガチャギリはこっちを見もしない。私は奇妙な感じに捉われた。ガチャもアキラもさっきから後ろばかり気にしているのだ。それに、おかしなことはもうひとつ。
    「サッチーはどうした」
    「倒されたよ、イリーガルに」
     デンパがぼそっと言い、アキラが後を引き取った。
    「イサコさんの『断線』というのは成功したんですよね。イリーガルは急に霧を吐かなくなった。ちょうどそこでタイムリミットが来て、デンパさんが接続を切ったんです」
     それで納得がいった。通路から戻れなくなりかけた時、デンパが接続を中断してくれたおかげで、電脳体は強制的に元の身体へ帰されたのだ。つまり、デンパには3度助けられたことになる。
    「だけど、イリーガルは霧なしでも強かった。神社の空間がめちゃくちゃになるほどの乱戦になって、それで最後にはサッチーを倒しちゃったんです」
    「そうか――。じゃあ、お前たちがイリーガルに止めを刺したのか」
     ガチャギリが首を振る。
    「お前じゃねえんだから、サッチーが勝てない相手に、俺たちが勝てるわけがねえだろ」
    「えっ? ガチャ、さっき『イリーガルは消滅した』って言わなかったか? それにパスワードはどうやって――」
    「来た!」
     アキラの鋭い声が私の言葉を吹き飛ばした。ガチャギリがミサイルを構え、1歩前に出る。
     私はふたりの見上げるほうへ視線を移した。
     空間が四角く切り取られ、ぽっかりと黒い口を開けている。その中で、いくつもの『No Image』という表示だけが、白じろと浮かび上がっていた。
     危険だ。
     直感がそう告げ、身体がざわついた。

    電脳コイル〈3.00〉 -第16話 最後のパスワード-

    E part

     昨日は行かない行かないと突っぱねたヤサコが、今日は自分から一緒に野槌神社へ行ってほしいと頼んできた理由ははっきりわからないが、きっかけの想像ならついた。野槌神社で何があったか、ダイチから聴取済みだったからだ。仲直り? っていうかあのくらいのケンカ、3時間で時効だ。
    「黒客がぶざまに負けるとこ見て、かたきを取ってやろうとでも思ったわけ?」
    「違うわよ」
     ヤサコは唇をとがらせた。
    「私、昨日あそこにいたのに何もできなかったのが、なんていうか、悔しくて」
    「それはイサコへの歪んだ愛情表現?」
    「違うわよ!?」
     ヤサコはさっきより強烈に否定した。
    「そうムキになるところがまた怪しいわよね」
    「違うってば! 違うよ」
    「じゃあ何が悔しかったのよ」
    「――だって、私、何もできないって言われたし。そうじゃないって思ってたけど、やっぱりそうだったし」
    「何もできない? 誰がそんなこと」
     ヤサコは妙に赤くなった。
    「そ、それは……イサコが」
    「なんだやっぱりイサコかよ」
    「もう! いいじゃない、そんなの誰だって」
     ヤサコは子供っぽく口をとがらせたが、そのすぐ後で真顔に戻った。
    「フミエちゃんさ、心配じゃないの?」
    「心配ってイサコのことが?」
    「それだけじゃなくて、イサコとか黒客とか入れて全部」
    「はあ?」
     どうもヤサコには想像力過剰というか、時々考えがすっとぶことがある。
    「イサコ、私たちのパスワード持ってったでしょ。多分、今までよりずっと深い空間へ接続してるんだわ。空間管理室は警戒レベルを上げるって言うし」
    「パスワードはこれまでだって増えてきてたじゃない。警戒レベル引き上げだって何度もあったしさ。変わんないわよ」
    「そうかな。なんだか、このままだと取り返しのつかないことが起こりそうな気がして」
    「考えすぎだって」
     あいまいにうなずく動作をして頭を下げたまま、ヤサコは不安を抱え込むようにうつむいている。
     しょうがない子だ。
    「あ、野槌神社へは行くわよ。もともとパスワードはこっちでいただくつもりだったんだから」
    「本当に!?」
     ヤサコの顔がぱっと輝いた。
    「あのさ、戦力としては既にあんたのが上なのよ。暗号教わったんだから」
    「そうかもしれないけど、フミエちゃんがいてくれると、何ていうか、安心感があるのよね」
     あやふやな理由だとは思いつつ、信頼を込めた目で見上げられれば悪い気はしない。
     私たちは問題の野槌神社へ歩みを進めた。

     黒客が全力でかかってかなわなかったイリーガルを私たちふたりだけで捕まえられるとは、当然思っていなかった。今日はあくまで偵察、具体的な作戦はその後で練ればいい。黒客もまだイリーガルの細かな情報をつかんでないらしいから、十分間に合うだろう。
     鹿屋野神社より少し暗い階段を上ったところで、雑草の目立つ境内に出る。
    「鹿屋野神社と比べると荒れた雰囲気ね」
     何とはなしにつぶやくと、ヤサコはうなずいた。
    「いかにも出そうな感じ」
     そのひと言で足が止まる。
    「で、出そうって何がよ?」
    「は?」
     ヤサコはきょとんとして、でもすぐ失言に気づいたらしい。
    「イ、イリーガルよ。決まってるじゃない」
     笑いながら背中を押してくる。
    「もう、やめてよね。私そういうの嫌いなの知ってるでしょ」
    「ごめんごめん」
    「テッキトーな返事ねえ。ちょっと、ヤサコ」
     振り向くと、ヤサコは真剣な顔つきで正面を見つめている。
    「フミエちゃん、あれ――」
    「えっ、出た!? イリーガル?」
    「――わかんない」
     ヤサコはやけに細い声で言った。
    「わかんない……なんで?」
    「だってわかんないんだもの」
     どきりと心臓の音が胸に響く。
    「わかんなくないでしょ。何があるの? 言ってよ」
    「言葉にできないのよ。フミエちゃん、自分で見ればいいじゃん」
     言うなりヤサコは私の肩に手をかけ、強引に振り向かせようとする。
    「ちょ、やだ! なにすんのよ!」
    「私ひとりだけ見てるなんてずるいじゃない」
    「やだ、やめて!」
     もみ合っているうちに、不意にヤサコの動きが止まった。
    「ヤサコ?」
    「イヤ……来ないで」
    「ななななに言ってんの」
     私は恐るおそる振り向いた、いや、振り向こうとした。が、その前に手首を思い切り引っ張られた。
    「こっち来る!」
    「わっと、ヤサコ!?」
     状況を確かめる暇もなく、ヤサコに引かれるがまま駆ける。ヤサコは何故か境内の奥へ向かっている。
    「ヤサコ、ヤサコ! 逃げるなら神社から出ればいいじゃない」
     走りながら私は呼びかけた。ヤサコは後ろを向かずにどなる。
    「そんなの考えてる暇ないよ!」
     と、足もとで何かがはじけた。乾いた破裂音とともに文字列が飛び散る。文字列――
     イリーガル、かどうかわかんないけど、少なくとも電脳の何かだ。
    「手! 手え離して!」
     握る力の弱まったのを強引に振り払い、真後ろを向くと、グレーの雲の塊みたいのが浮かんでいるのが見えた。
    「こいつ!」
     電光石火でメガビーを放つ。回避行動を取る間もなく、ビームは敵の中心を貫いた。
    「やった」
     後ろでヤサコが叫ぶ。だけど、私は違和感を覚えた。手応えがおかしい。
    「気をつけて」
     ヤサコに言ったのとほぼ同時に雲の中心が光った。すかさずレンガ壁を投げる。
    「ヤサコ、暗号!」
    「う、うん」
     ヤサコはもたついている。レンガ壁は見る間に破壊される。全部消えたと思ったところで、暗号が赤い軌跡を引いて飛んだ。これも雲に命中! したが、
    「ウソ、突き抜けた!?」
     ヤサコが驚きの声を上げた。暗号は雲を貫通して後ろの木に当たり、大枝まるまる1本を盛大に文字化けさせていた。
    「逃げるわよ!」
     雲が再び光った。今度は鉄壁を投げながらヤサコに叫び、私は後ろを向いた。背中に壁の壊れるノイズを浴びながら、脱兎のごとく走る。
    「フ、フミエちゃん、待ってよ」
     ヤサコの声がすぐ近くだったのに安心しつつ、口からは非情な言葉が出る。
    「待ってる暇ない! 鹿屋野神社までダッシュよ!」
     後は振り返らずに、鹿屋野神社との境界まで全力で駆け抜けた。幸いヤサコの足音も遅れずについてくる。
     鹿屋野神社と野槌神社の境界がどこなのか正確なところはよくわからない。雑木林の連なりでつながっているからだ。中途半端なところで止まってイリーガルの追撃を受けたくなかったから、明らかに見慣れた鹿屋野神社裏の景色にたどり着くまで、私はブレーキをかけなかった。
    「フミエちゃん、ねえ、ストップ……私もうダメ」
     ヤサコのへばった声を聞いて、私は足を止めた。
    「あんた、夏休み中に怠けてたでしょ。体力落ちてるわよ」
     上半身を折って荒い呼吸をしているヤサコの背中をぽんぽんとたたく。
     軽い口調で話せるのは、鹿屋野神社の敷地内がサッチーの保守範囲だからだ。野槌神社とは電脳環境がまるで違うから、向こうに住んでいるイリーガルなら簡単に出張っては来ないだろう。
    「そんなことないよ、果し合いの訓練だってしたし。フミエちゃんが速いんだよ。100メートルでクラス3位でしょ」
     3位というのはほめてるのかそうでないのか、微妙にいらっとくる数字だ。2位はイサコで、1位はアイコだったりする。ヤツはフィットネスクラブに通ってるからだって言う。何だ、フィットネスって。
    「イリーガルはまいたみたいね」
     ヤサコが顔をあげてあたりを見回す。
    「やれやれ、偵察代が高くついたわ」
     イサコなんかは平気で使うけど、鉄壁はけっこうコスト高なのだ。
    「ダイチ君に連絡取らなくていいの? イリーガルのこと知らずに野槌神社に来てたら危ないわ」
    「あっ、そうね」
     言われるままにメールを打ち終えてから気がついた。
    「あれ? ヤサコ、どうしてアイツが来るって知ってんの」
    「そりゃあね」
     ヤサコは流し目でうっしっしと笑う。
    「何よそれ!」
     握ったこぶしでたたくと、ヤサコの頭はぽかりと漫画みたいな音を立てた。
    「痛った!? いきなりぶつことないでしょ」
    「うっさい!」
     ヤサコは両手で頭を覆って逃げ出した。と、その前に立つ人影。
    「あら、噂をすれば。早かったのね」
    「ああ、近くまで来てたから。メールありがとな」
     なんでもないようにお礼を言ってくるのがかえってこそばゆい。ヤサコはまたイヤな笑顔でこっちを見ている。
    「攻撃が効かないイリーガルだって? 昨日のと同じヤツか?」
    「うん、多分そう。イサコたちがイリーガルを捕まえた時、霧が出てきたでしょ。あれ同じものが襲ってきたの」
     ヤサコが答えると、ダイチはおおげさに眉をひそめた。
    「そいつはかなりの強敵だぜ。ここも危ねえ。一旦メガシ屋で作戦を練るか」
    「そうね」
    「私、映像撮っといた」
     ヤサコが意外な発言をした。とにかく逃げなくちゃならなかったあの場で機転を利かすとは、案外成長してる。
    「鹿屋野神社の裏側から出よう。表門は市の管理外だから、万一ってこともある」
     一応後ろに警戒しながら、私たちはダイチの後に続いた。

     ダイチの慎重な選択が妥当だったことはすぐに証明されたが、結果として良かったのかどうかはとても微妙だ。
     つまり、鹿屋野神社の出口で私たちはイサコ率いる黒客と鉢合わせしたのだ。
    「お前ら、どういうつもりだ」
     なんとなく気まずい空気の流れる中、最初に口を開いたのはガチャギリだった。イサコとアキラは黙ってこっちをにらみ、デンパは相変わらず気弱そうな笑みを浮かべている。ナメッチはいない。昨日メガネを壊されたってダイチの情報は本当のようだ。
    「果し合いに負けたらメガネの使用禁止のはずだろう」
    「あー、その件だがな――」
     言いづらそうに話し始めたダイチを無視して、私はぶちまけた。
    「私たちを裏切ったヤツがいるのよ! だから果し合いは無効!」
    「裏切った?」
     ガチャギリとアキラが顔を見合わせる。
    「どういうことだ」
     ワンテンポ遅れてイサコが訊ねた。
     怪しいと思った。イサコはあまり驚いてない。つまり、裏切り者と内通してたのはイサコだ。
    「どういうもこういうもないわ。私たちの情報、そっちに筒抜けだったんでしょ。汚いわよ」
    「なんだと……そ、そんなことはない」
    「しらばっくれないでよ」
    「おい、待てよ」
     ガチャギリが割って入った。
    「フミエ、そんなに言うならお前たち、裏切り者が誰か知ってんだろ。言ってみろよ」
    「そ、それは――」
     私は横目でダイチを見た。
     実を言うと、私も裏切ったのが誰なのか知らない。それだけは、ダイチがどうしても教えてくれなかった。
    「言えねえな」
     案の定、ダイチはあさっての方向を眺めてすっとぼけて見せた。
    「裏切ったっつっても仲間だ。そいつの裏切った事情を確かめねえうちは、俺の口からは言えねえ」
    「ダイチよお、そりゃわがままってもんじゃねえか」
     ガチャギリが帽子の下からダイチをにらんだ。
    「果し合いが無効ってんなら裏切り者をしょっ引いて来い。できねえならおとなしくメガネ無しでいろや。テメエ勝手な理屈ばっかり並べんじゃねえよ」
     ダイチはガチャギリと目を合わせない。引け目を感じているのだ。
     実のところ、ダイチはメガネを使わないつもりでいた。話を聞いて無理やり外に連れ出したのは私なのだ。罪悪感と、それから少しだけダイチへの信頼感が芽生える。
    「裏切り者などいない。邪魔だ、どいてくれ」
     ダイチのほうに気を取られていた私にイサコの声がかかった。イサコは私たちを無視するように神社の奥を見つめて歩き出す。
    「あんた、まだ話が途中――」
    「うるさい」
    「待てよ。こいつら放っておいていいのか」
     ガチャギリが慌てたように聞いた。
    「私たちの目標はイリーガルだけだ。安心しろ、探偵局くらい捨て置いても今さら何もできやしない」
    「な、何をっ!」
     突っかかろうとした私の肩をダイチが押さえる。
    「イサコ、待って」
     と、今度はヤサコが立ちふさがった。
    「何だ」
     イサコは足を止めてヤサコを見つめる。
    「危ないよ」
    「何が? あのイリーガルか? 余計なお世話だ。お前たちに心配されなくても対策は打ってある」
    「違う」
    「えっ」
    「イサコ、頭痛がしない?」
     イサコはぱっと自分の頭に手をやり、すぐに離した。
    「何の話だ。お前が何を言ってるかわからない」
    「私だってわかんないよ。でも、私も最近頭が痛くなる」
    「なん……だと」
     ヤサコの言うことは私たちには意味不明だったが、イサコは明らかに動揺していた。
    「お前、それはいつからだ。他に症状はないのか」
    「全然記憶にないのに、やけにリアルな夢を見たりする」
     ヤサコは淡々と語った。それでかえって、話の中身が理解できてない私も、ヤサコが何か重要なことを言っているんだと感じた。
    「それから、お姉ちゃんのことを思い出す」
     目を丸くしてヤサコを見ていたイサコの表情に、何かの感情がひらめいた。
    「お姉ちゃんのことを思い出すと、息が詰まったみたいになるの。それで思うの。私はどうしてこんなに苦しいんだろう、って。ねえイサコ、もしかしてあなたも」
    「黙れ!」
     イサコの声が、木々を渡って響いた。
    「お前と私は違う。私は行く。お前はそこで勝手に苦しめ」
    「イサコ――」
    「お前はどうすることもできない。目の前で起こることをただ見ているだけだ。今日も、昨日も、それにあの時も」
     あの時?
    「行くぞ」
     ヤサコはうつむいていた。イサコが歩き出し、黒客の3人が少し心配そうにわき目に見ながら通り過ぎても、下を向いて黙っていた。
     私は声をかけられなかった。その時ほど自分が子供だと思ったことはなかった。
     気がつくとダイチの手がずっと肩にあって、そこだけ汗ばんでいて、でも私にはそれがたったひとつのよりどころのように嬉しかった。そうできないヤサコはとても苦しそうだと思った。

    電脳コイル〈3.00〉 -第16話 最後のパスワード-

    D part

     電話を通したカンナの声はいつもどおりの明るさだったから、僕はなおさらその内容に衝撃を受けた。
    「そう。オーバーホールが必要だっていうから、メガネは修理に出しちゃったの。今、お父さんに貸してもらった携帯電話からかけてるのよ。なんか変な感じ。こんなの使うことがあるなんて思わなかった」
     返事ができなかった。こちらの応答がないのを少し待って、カンナは続ける。
    「転校するまでの間メガネが使えないのは寂しいけど、けどメガネがなくたってみんなとは会えるしね。ヤサコちゃんともイサコちゃんとも。ねえ、研一」
    「うん」
     答えは完全に虚ろだった。今さらながら、果し合いでのイサコの言葉がよみがえる。
    「研一?」
    「あ、ああ」
     気がつくと、僕はカンナのことも放って考え込んでいた。
    「ごめん、今日はもう切るね。もうすぐ学校でも会えるからいいよね」
     でもそれと一緒に、カンナと離ればなれになる日も近づいてくる。
    「さよなら」
     いつもの「またね」じゃなく、そんな言い方でカンナが電話を切ったのも僕の心にしこりを残した。
     今別れたら、僕とカンナは二度と心を通わすことができない。
     もちろん、転校した後も時々遊びに来るってカンナは言ってるし、僕のほうから行くことだってできるだろう。でも、大黒にカンナの実家があるわけじゃないし、カンナの一家にとってはたまたま転勤で住んでいただけの町、こことカンナを結びつけるものは何もない。
     メールのやり取り、電話だって、最初のうちは毎日のようにするだろう。でもやがて、仕方のない用事とか、学校でのあれこれにつられて少しずつ減っていく。気がついた時には、変わらないという気持ちだけが浮ついて、実質はどこにもなくなっている。僕はそれがこわい。今、こんなに好きだという気持ちがほころびて失われていくのを、他ならぬ僕が冷ややかに見つめていくのがこわい。自分がそんな自分に変わってしまうのがこわい。
     タイムリミットは2週間しかない。カンナの引越しまでに、僕は全てに決着をつけなければならない。
    「ケンちゃん」
    「わっ!?」
     突然名前を呼ばれて、僕はかけていた椅子から弾かれるように飛び上がった。
    「お、オバちゃん。部屋に入る時はノックくらいしてよ」
    「したわよ、何度も。でも全然返事がないから」
     戸口に立ったオバちゃんは手の甲でドアをたたく仕種をしてみせた。
    「それで、何の用? オバちゃんも忙しいはずだろ。夏休みの宿題、たまってるんじゃないの」
     オバちゃんは舌打ちした。
    「ヤラシイこと言うわね。そりゃ、2足のわらじはいてんだから無理もあるって――」
     語尾を曖昧に濁した後で、視線を僕に戻す。
    「まずは果し合いお疲れ様。あんたたちの努力にはお礼を言っとくわ」
     オバちゃんらしくもなく素直に頭を下げるのを見て、僕もオバちゃんに向き直り、なんとなくうなずいた。
     けれど、それがオバちゃんの作戦だったのだ。頭を上げたオバちゃんの目は、蛙をにらむ蛇のように僕をがっちり捉えた。
    「だけど、結果は完全な裏目だったわね。頻発してる市内の不具合も悪化の一方だわ。昨日も電脳ナビの制御不良と思われる追突事故が2件起こった」
     オバちゃんは窓の外へ目をやり、僕がつられる寸前に視線を戻した。
    「空間管理室としてはもはや猶予はない。警戒レベルの引き上げと同時に、メガマスに要請して新型サーチマトンを導入することになった」
    「それって、サッチーより強力なの」
    「もちろん。でも、それだけじゃない。サッチーならある程度空間管理室の制御化におくことができたけど、新型は違うわ。メガマスの直接指示で動く。サーチマトンの貸与の交換条件としてメガマスが提示してきたのがそれだったのよ」
     そこまで言うと、オバちゃんは悔しそうに唇をかんだ。今まで大黒電脳界の平和を守ってきた者として、メガマスに権限を取られることにプライドを傷つけられたのだろう。
     新型のサーチマトン。それがどんな力を持っているのかは未知数だが、僕の計画にまたひとつのマイナス要素が加わったことは確かだ。
     僕は無意識にメガネをかけ直し、するとオバちゃんは不意に近づいて、僕のメガネを取った。
    「え――? オバちゃん、何するんだ、いきなり」
    「わからない? 新型に狙われたら、私たちだって助けようがないのよ。探偵局は無期限で活動を停止するわ」
    「そんな!?」
    「そんなもこんなもない!」
     言葉と同時に、オバちゃんはメガネを持ってないほうの手で僕の胸を押した。よろめいてベッドに尻もちをついた僕のすぐわきに、旧式の携帯電話が飛んでくる。見上げると、既に部屋のドアは閉まろうとしていた。それが残り5センチくらいでつと止まって、
    「ごめんね、ケンちゃん。さよなら」
     その言葉で、オバちゃんが絶対にメガネを返すつもりがないと、僕にはわかった。

     部屋に残された僕は、ひとりで考えていた。たった今奪い去られた道を、もう1度元のように戻す方法を。
     選択肢は限られている。僕は今しがた置かれた携帯電話に手を伸ばした。
     電話帳なしでも番号は覚えていた。終業式の放課後以来、何度もそこにかけようとしては留まっていたから。
    「誰だ」
     短く無感情な発信音の後で、同じくらいに素っ気ない声が応えた。

    電脳コイル〈3.00〉 -第16話 最後のパスワード-

    C part

     ヤサコが隠れているのはわかっていた。ヤツがメガネをかけたままでいることも。ナメッチが持ってきた情報だと、探偵局は果し合いの結果を認めない方向にシフトチェンジしたらしいが、パスワードさえ奪えたからにはそれもかなりどうでもいいことだ。それより今必要なのは、もう後ひとつで揃うパスワードを手に入れること。なのだが――
    「うわっ」
     アキラがしゃがみこんで頭を覆った。
    「おい、手を離すな! 逃げられるぞ」
    「ダメっすよイサコさん。もう網がちぎれそうっす」
    「いや、ちぎれるっつうよりは消滅してないか? なあ、イサコ」
     ガチャギリが私を振り向いた。
    「バカな。イリーガルにそんな能力はない」
    「んなこといったって目の前でそうなってんだろ」
     激しい発光の後で、蛇のようなイリーガルの体全体から、灰色の霧が発生していた。霧は電脳投網を包み込んで広がっていく。見えなくなった網が霧の中でどうなっているのかはっきりとはわからない。
    「怖じ気づくな。あれはきっと擬態のたぐいだろう。コケ脅しだ」
     メガネの計算能力をフルに使用して霧を探る。が、イリーガルの本体は見えてこない。
    「あっ、網が!」
     電脳網を引っ張り続けていたアキラが後ろに転がった。網が裂けたのだ。
    「クソ、ひるむな」
     私は駆け出した。霧の中に闇雲に暗号を撃ち込む。手応えは――ない。
    「囲め、囲め」
     ガチャギリが手を振り、ナメッチと、遅れてデンパも霧の反対側に走る。
    「敵は霧に紛れて逃げるつもりだ。多少傷つけても構わん。撃ちまくれ」
     暗号を連続的に生成しながら私は叫ぶ。皆も続いてミサイルやカンシャクを構え、霧に向かって攻撃を始めた。霧でノイズを作り始めていた空間がさらに乱れる。
     ガチャギリがこっちを向いた。
    「イサコ、そろそろいいんじゃねえか」
    「まだだ」
     精査を繰り返しても、霧の中にイリーガルの姿を捉えることはできなかった。だからこそ、攻撃は止められない。止めれば、どこに潜んでいるかわからないイリーガルから反撃を受ける。
     そこからきっちり2分間、私たちは霧への攻撃を続けた。近くにあったもののテクスチャがばらばらにはじけ飛び、霧とノイズが混じり合って輪郭も覚束なくなった頃、私は片手を上げた。
    「もういい」
    「見つかったか」
     ガチャギリに言われた私は、一瞬答えにつまり、その後で黙って首を横に振った。
    「そうか、まあいいだろ。ここまでやられたら、大抵の電脳物質は相当のダメージをくらってるはずだからな」
    「踏み込むぞ」
     ガチャギリのほうを見ずに、私はそれだけ言うと、まだ不規則な走査線が見え隠れする空間へ歩き始めた。
    「何も見えないですね」
     後ろについたアキラがメガネをずり上げる。
    「僕にもわからないな」
     デンパがつぶやいたのが少し引っかかり、私は足を止めた。
     その時だ。
    「うわあ!?」
     ナメッチが情けない声を上げ、その場に引っ繰り返った。
    「おい、どうした?」
     かけた声に緊張感は少ない。イリーガルからの攻撃ならば、空間にそれ相応の乱れが発生する。それが感じられなかったからだ。
     だが、振り返った私の目には信じがたいものが飛び込んできた。ナメッチのメガネからは白煙が上っていたのだ。
    「退けっ」
     ガチャギリが素早く指示を飛ばし、同時に私の腕に手をかけた。
    「おい」
    「敵の動きが読めねえ。出直しだ」
     私の文句より早くガチャギリは言い放ち、つかんだ腕を離さずに走り出す。
     歯噛みしたい気分だったが、手を振り払うこともできず、私もその場を離れた。
     ヤサコは一部始終を見ていた。でも何もしなかった。

    「大体の事情はわかったよ。敵はおそらく新種だな」
     わかったという言葉にもかかわらず、お兄ちゃんの声は硬かった。
    「でも情報が足りない。もう少しねばってくれれば良かったんだけど」
    「ガチャギリの判断は間違ってなかったわ」
     私は言い返した。
    「イリーガルがどこから攻撃しているのかわからなかったもの。あれ以上戦えば、ナメッチ以外もメガネを壊される可能性があった」
    「黒客か。ずいぶんメンバーを大切にするようになったね」
    「悪い?」
     お兄ちゃんの言葉には明らかに皮肉がこもっていたから、私の返事もささくれだったものになった。
    「良し悪しさ。そもそも黒客はひとつの手段に過ぎないって、イサコも言ってなかったっけ。いつからそんなに情が移ったんだい」
    「それは――」
     私は言いよどんだ。
     昔、そう言っていたことは確かだ。
     だけど、今は違う。違うのは、私は今日ガチャの判断に従ったし、ナメッチには後で謝った。それを役割演技じゃなく、本気でやった。そうするのが当然と思うようになった。
     お姉ちゃんを助けたい、それはいつだって変わらない願いだ。でも、だからといって黒客をないがしろにしていいわけじゃない。
     お兄ちゃんはいつもこうだ。今、目の前にあるものより、もう無くなってしまったもののほうをいとおしがる。あの頃だって同じ、私とふたりの時に限ってお姉ちゃんの話をした。だから私は許せなくなって。
    「どうしたの」
     気がつくと、お兄ちゃんは私の顔をじっと見つめいてた。
    「なんでもない」
     私は立ち上がると、自分の部屋へ急いだ。

     私はどうしてこんなに苦しいんだろう。

    電脳コイル〈3.00〉 -第16話 最後のパスワード-

    B part

     ヤサコの説得に失敗した俺たちは、当てどもない感じで歩いていた。
    「もうふたりで行こうか」
     フミエがつぶやき、俺は立ち止まった。止まらないと俺が賛成も反対もする前に野槌神社に着いてしまい、後はなし崩しになりそうな気がした。
    「やめとこうぜ、今日は」
     その言葉をしぼり出すには、俺としては多少の勇気が要った。案の定フミエはむっつぃた様子を顔に見せる。
    「どうして? 私だけじゃ頼りにならないって?」
    「そうは言ってねえよ。だけどな、考えてもみろ。もし俺たちふたりで行って、黒客に見つかったらどうなる。袋叩きだぜ」
    「見つからないようにすればいいじゃない」
    「見つからないようにしても見つかるから困るんだろ。それに――」
    「それに?」
     俺は口ごもった。
     実をいえば、俺は少し怖くなりかけていた。
     イサコがあれほどまでに欲しがるパスワードって一体何なんだろう。昔聞いたような、より多くのメタバグを手に入れるためだけの道具とはとても思えない。
     それに、ヤサコの手に入れた暗号。小学校に入りたての頃からメガネを使い倒してきた俺たちの能力を簡単に超えていくあの力。俺は何か、越えちゃならない一線から踏み出そうとしているんじゃないか。
    「どうしたのよ。なんか答えなさいよ」
     フミエの言葉にはとげがあった。
    「危険がある」
     迷ったあげく、俺はそんな曖昧な返事をした。
    「これからのことは、もう俺たちの手に負えねえかもしれねえ」
    「なんでよ。わかんないわよ」
     当り前だがフミエは納得しない。
    「俺だってわかんねえよ。だけど危ねえんだよ。勘だよ。これ以上首を突っ込まないほうがいい」
     フミエは最初あっけにとられた様子で、次第にその顔色が紅潮した。
    「あ、あんたってやつは……! 私たちが危ないなら黒客もイサコもおんなじに危ないでしょ! こないだまで仲間だったじゃん、助けたいと思わないの」
    「そりゃあ思うけどさ、じゃあどうしろってんだよ。俺たちふたりじゃどうにもなんねえよ。せめてヤサコか、オバちゃんとか宗助さんの力を借りてさ」
     フミエは俺から視線を背けて、ため息をついた。
    「もういい。あんたと話してたら日が暮れるわ」
     言うなり、返事を待たずに走り出す。
    「待てよ。野槌神社には行くなよ」
     俺に向けられた背中は返事をせず、すぐに角を、野槌神社とは違う方へ向かう角を曲がって消えた。
     誰もいなくなった路地をを眺めながら、俺は満たされた気持ちとむなしさを同時に感じていた。
     自分がマイナス思考というか、なんか心配ばかりしてるのだと気づいてはいる。果し合いからこっち、心が、というか体そのものが重くなったみたいな気がする。もう前みたいに無茶はできない。もし仮に俺がそうやって駄目になったら、誰があいつを守る。
    「メガネ、かあ」
     俺はメガネを外す。太陽に照りつけられたアスファルトがまぶしい。俺は今までこんなまぶしさが当り前にあるものだと思ってその上を走ってきたけれど、ふと見たその先、それともフミエを追いかけて曲がった向こうにはもうそんなものはなく、やがて俺はそういうまぶしさのあったこと自体忘れてしまって、やがてある日、立ち止まった道端に不意とそれを思い出し、俺はその時フミエと一緒にそう思うのか。それともフミエはもう懐かしいと思うその気持ちの中にしかいないのだろうか。
     ふと横道にそれたところで、古びた公園に出くわした。
     いつの間にかしわの寄っていた眉がとけた。久しぶりだな、ここ。小学校入りたての頃に、よく遊んだっけ。
     誘われるように中に入って見渡す。元が小さいのに加えて、3方を民家の壁で囲まれているのが、狭っ苦しさをいやが上にも増している。遊具は、俺の肩くらいの高さしかない、幼稚園児向けの滑り台がひとつ。それから小さな砂場と、その真ん中にふたつ、ベンチというかオブジェというか、コンクリートの動物が並んでいる。こいつは――、ああそうか、ラクダだ。色がキャメルだし、なんといっても背中にこぶがふたつある。砂場にあるのは、砂漠のラクダってイメージか。
     小さい頃は馬だと思ってたんだよな、ラクダなんて知らなかったから。数え切れない子供たちに乗っかられてつるつるになったこぶのひとつに、俺は腰かけた。
     メガネをかけ直して、よく知った番号にかける。相手はもちろんヤツ、果し合いで俺が止めを刺したあいつだ。
     回線がつながるまでの短い時間、心の底に溜まっていた疑問が渦を巻いて湧き上がる。ヤツはどうして俺たちを裏切ったのか、目的は何か、イサコとつながりがあるのか。でも俺は聞いてみたい。俺たちを撃った時、どんな気分がしたのかと。
     発信が呼び出しに切り替わるデジタル音がして、俺はラクダの上で身を固くした。が、それも一瞬、電話はつながらない。話し中だ。
    「なんだよ、クソ」
     まあいい。果し合いからこっち、ヤツからは2回、こっち宛に電話がかかってきた。俺は気持ちが落ち着かなくて無視したんだが、とにかくヤツのほうからコミュニケーションを断つつもりはないとみていい。
    「また来る――かもしれねえぜ」
     立ち上がった俺はラクダに声をかけた。もの言わぬラクダはけれど、これもそう言や特徴の垂れ下がった目で俺を見送った。
     帰るか。
     歩きながら、公園からの連想で、小さい頃の思い出がぽつぽつ浮かんでくる。
     メガネを買ってもらったのは俺よりフミエが先だ。俺は悔しくなっておやじにねだりこみ、柔道教室3ヶ月間皆勤賞という偉業を成し遂げて手に入れたのだ。もっともおやじとの約束は半年間で、3ヶ月の時点で前倒してもらったわけだが、その後の3ヶ月がどうなるかなんてのはおやじも甘かった。だから半年は前人未到の高みに今も燦然と輝いている。
     話がそれちまったが、つまりその頃の俺とフミエはそうで、考えてみれば好きと言われるより嫌いと言われたほうがよっぽどやりやすい。張り合えるし、ケンカも心おきなくできるし、果し合いだってできる。
     そうかといって今の関係が嫌かと聞かれれば、まず絶対そんなことはない。はっきり言って俺はフミエのことが好きだ。好きならさっきもあいつを追いかければ良かったんだろうか。俺の足を止めたもの、それは何だ? もしかするとそれこそこのメガネ、メガネを通してのものでしかなかった俺とフミエなのかもしれない。
     だとしたら、メガネはもういらない。
     俺がフミエを好きなのはメガネ抜きで、フミエもきっとそうだから。
    「メガネからの卒業」
     言葉に出してみるとどこかこそばゆい。でもしっくりくる気もする。
     俺は今しがたかけたばかりのメガネのつるに両手をかけた。
     その時。
     視界の右端を青い光が走った。ぱん、と聞き慣れた破裂音。反射的に身を引けば、今まで俺のいた場所に降り注ぐ壊れた記号の雨。
     気がついた時には足が地面を蹴っている。いや、本当は行き先を間違ってるんじゃねえか?
     違う。地面を踏み、体を跳ねあげる足の動きは確かだ。メガネがどう、現実がどう、フミエがって、それだけじゃねえ。俺にはメガネを通して知り合ったヤツらがいて、それは昔も今もこれからも、ずっと仲間だろ。
    「まだ捨てられねえぜ」
     結局フミエに言ったのと逆のことをやってる俺がちょっと情けないけど、仕方ねえ。メガネをしっかりとかけ直し、目に入った石段から鳥居をくぐる。ちらと目に入る「野槌神社」の文字。

     石段を半分駆け上がったあたりから、上で戦っているヤツらの声が聞こえ始めた。
    「おいアキラ、そっち行ったぞ」
    「うわっ」
    「ひとりじゃ無理だ! 全員で押さえつけろ」
    「んなこと言ってもこいつ、暴れて――」
    「バカ、ナメ! 口動かす暇あったら手ぇ動かせ」
     状況は黒客に不利らしい。相手はイリーガル1匹みたいだが、ここまで手こずるとは、相当の強敵だ。
     見つからないように階段からそれ、茂みから茂みへと身を潜ませながらゆっくり上る。ほどなく社の床下が見え、その手前に何本もの人の足。
     野槌神社は鹿屋野神社と隣り合っているが、何故か人気がない。粗末な細い鳥居に、境内も大部分がむき出しの土で、踏み石が埋めてあるのは本殿までのごく狭い参拝路だけだ。木や草のたぐいもきちんと手入れされず、あちこちにやぶを作っている。ゆっくり視線を動かしていくと、雑草の中で黒い何かが動いた。
    「あいつか」
     蛇のように長い身体がのたくっていた。頭のように見える部分に目鼻はなく、ただでかい口だけが開いたり閉じたりしている。一見あまり強そうには見えないが――
    「かかれっ」
     イサコの号令の下、黒客は一斉に攻撃態勢に移る。イリーガルは敏感に察したらしく、身体をねじ曲げて威嚇するような体勢を取った。
    「このやろ!」
     ナメッチがミサイルを素早く2発放つ。イリーガルはぱっと後ろに飛びのいて、やぶの裏に隠れた。追ってミサイルが飛び込む。連続したふたつの光がやぶを文字化けした残骸に変えた。
    「よし、突っ込め」
     ガチャギリが手を上げ、アキラとナメッチが駆けた。ふたりの手には電脳投げ縄を改造した、電脳投網のそれぞれ一端ずつが握られている。こいつでイリーガルを押さえこもうって作戦か。
    「ナメッチさん!」
    「ラジャー!」
     ふたりは声を合わせて、ぐしゃぐしゃになったやぶの後に網をかぶせた。
    「かかったよ」
     後ろのほうにいたデンパが言った。
    「よし」
     すかさずイサコが暗号を投げつける。手から離れたそれは空中でいくつもの破片に散らばり、ひとつひとつが杭の形になって網に刺さった。空間を固定するタイプの暗号だ。
     網の真ん中が突然盛り上がり、ばたばた暴れた。
    「イサコ!」
    「わかってる」
     ダメ押しの一撃がイリーガルの中心に命中すると、網は凍ったように動きを止めた。
    「やったっすね。久しぶりの成果」
    「軽口をたたくな。まだどうなったかわからない」
     ナメッチをたしなめながらも、イサコの口調にも安心感が見てとれる。
     俺は複雑な心境だった。黒客がやられるシーンを見なかったのは良かったが、イサコパスワードを手に入れてしまうのはまずい。
     いっそ、イサコがパスワードを取り出した瞬間に横からかっさらう、ハイエナ作戦で行こうか。
     と、隣の草ががさりと動いた。叫びかけた俺は、慌てて口に手を当てる。
    「なんだ、ヤサコか。驚かすなよ」
     ヤサコはひとつうなずいた。
    「ごめんなさい。私、やっぱり心配で」
    「ああ、わかるぜ。けど、今回の勝負は着いたみたいだな」
     見合わせた顔はしかし、突然の閃光に影を作った。

    電脳コイル〈3.00〉 -第16話 最後のパスワード-

     ニュースによると、事前通告のないメガマスの強制フォーマットへの批判が強まっているそうです。

    A part

     果し合いが終わってイサコにパスワードを取られると、心も体もすっからかんになったようで気が抜けた。自宅使用と電話だけはOKという私ルールを勝手に設定してメガネはかけっぱなしだけど、それなのに目に映る空の色が薄いのは何故だろう。
    「デンスケ」
     低声で呼ぶと、わふわふとしまらない吠え声を返しながら白黒のかたまりが飛んできた。近頃あまりかまってやらなかったから、久しぶりに私がずっと家にいるのが嬉しいらしい。
    「お座り」
     デンスケは急ブレーキをかけて目の前で止まり、ちょこんと座って見せる。
    「お手」
     短い前足が遠慮気味に手のひらに乗る。
    「バク転」
     2本足で立ち上がったデンスケはのろのろと上体をそらし、ブリッジの形になってから、今度は尺取虫みたいな変な動きで体を反転させ、元の姿勢に戻る。そうして私を見上げる時、何故か涙目になっているのが、こういってはかわいそうだけど、でもおもしろい。
    「よくできました」
     ほめてあげると、ご褒美とでもいうつもりか、ひざの上に乗ってきた。ほおをぺろりとなめられると失くしたものがうまるような気がするから不思議だ。
     長かった夏休みももうすぐ終わりだ。あと4、5日もすれば、学校での日常が戻ってくる。
     今ここで当てどもない時間を過ごしているのが無性にもったいないような、それともこんな時間がとても貴重なような、なんだろう、これが「行く夏を惜しむ」って気持ちかな。
     少し寂しくなってデンスケをきつめに抱きしめた。デンスケはくうと鳴いて顔を上げ、ちょっと首を傾げてから私の胸に顔をうずめる。
    「疲れちゃった」
     つぶやいた言葉がどこからか吹いてきた涼しい風に流される。縁側は開けっ放しだ。木の廊下は冷たい。私はサンダルで腰かけて、陰った庭から秋を読み取ろうとしている。
     静かだ。庭も、家の中も、それからお店も。この時期になると宿題の追い込みだ。子供たちは駄菓子屋などかまっていられなくなるのだろう。
     息をついて少し眠りたいのに、目は冴えている。
     私はサンダルを脱いで足を持ち上げると、デンスケをお腹に乗せたまま尾てい骨を軸にして体を90度回転させ、廊下に大の字に寝転がった。背中じゅうに広がる涼やかさ、胸の20センチ上に広がる解放感、固い床に頭がごろごろするのだっていい感じだ。
     突然誰かの声が響いた。
    「パンツ見えた」
    「やだっ」
     スカートのへりを押さえて飛び起きた。廊下の向こうに現れた顔はフミエちゃんだ。
    「ダメよ。家の中だからって、いい年した女の子が油断してちゃ」
    「フミエちゃんこそいきなり変なとこに出てこないでよ」
     口を尖らせた私はそのまま固まった。フミエちゃんに続いて、顔を赤らめたダイチ君の姿が見えたからだ。
    「ま、まさか」
    「は?」
     フミエちゃんはダイチ君を振り向いて、
    「ああ、さっきの冗談よ。こいつ顔に似合わず純情だから真に受けちゃって」
    「なに?」
     ダイチ君はフミエちゃんをにらんだ。そこでいつもの口ゲンカが始まるかと思ったら、意外にもダイチ君は反論もせず、ふたりは並んで縁側に腰かけた。
    「で、何の用」
     素っ気なく聞くと、
    「何って決まってんでしょ。これからどうするかよ」
     フミエちゃんは真っ直ぐに私の顔を見た。
    「どうってどう? どうにもできないじゃん。パスワードは取られちゃったし、大体メガネ使えないし」
    「そう言いながらあんたメガネかけてるわね」
    「私近眼だもん」
     また勝手ルールを作ってふと気づいた。フミエちゃんもダイチ君もメガネをかけている。
    「ああ、これ」
     私の視線でわかったのか、ふたりは自分のメガネに手をかけた。
    「いいのよ。こないだの果し合いは無効」
    「無効!?」
    「そうだ」
     ダイチ君がうなずいた。
    「あの時は言わなかったけどさ、探偵局の中にスパイがいたんだ。こりゃ反則だろ」
    「イサコのやつ、きったないわよねえ」
    「ちょ、ちょっと待ってよ。スパイって誰? 証拠はあるの?」
    「裏切ったのが誰かはわからねえ」
     ダイチ君は腕を組んだ。
    「証拠はな、果し合いの途中だ。黒客がいないはずの方向から攻撃してきたヤツがいた」
    「うん、それで」
    「それだけ」
    「それじゃほとんど何もわからないじゃない。やられたはずの黒客の誰かが予備のメガネを持ってたのかもしれないし」
    「ちげーよ」
     ダイチ君は断定口調で答える。
    「とにかく探偵局に裏切り者がいるのは確かなんだ」
    「裏切り者なんて――」
     味方を疑うなんて考え方は嫌だ。それに疑う相手だって、目の前のふたりでないとしたら、タケル君、カンナ、ハラケンの3人?
    「信じないわ」
     私は首を振った。
    「私たちを裏切るような子、いないじゃない」
    「いるんだよ」
     相変わらず決め付けたようなダイチ君の返事を聞くと、なんだかむかっ腹がたってきた。
    「いない。やだ。信じない」
     両耳を手で覆って首を左右に揺すり続ける。
    「ちょっとヤサコ。子供じゃあるまいし」
    「フミエちゃん」
    「な、なに」
    「何でそんなにダイチ君の肩を持つわけ」
    「えっ――別に、肩持ってるわけじゃなくて」
     答えながら目を合わせる仕種で、なんか全てがわかったような気がした。私はため息をついて寝転がった。
    「もういいわ。あなたたち勝手に再戦なりなんなりやればいいじゃん。私寝る」
     ぎゅっと目をつぶると、ふたりの姿は紫の残像になってもやもや流れる。
    「ヤサコ、なにすねてんのよ」
     もやもやが言うが、私は聞こえないふりをして目を開けなかった。
    「ヤサコ、ヤサコってば」
    「もういいよ。俺たちだけで行こうぜ」
    「うーん……。ねえヤサコ、黒客が野槌神社にいるらしいから、私たち行ってくる。気が変わったら来て」
     やや置いて、廊下を遠ざかるふたつの足音。私は急に寂しくなる。強情を張って目は開けず、けれど耳は足音を追い続け、それでも当然というかついに聞こえなくなる。
     静かになった。
     フミエちゃんの言ったとおり、私はすねているのだろう。自分だけひとりぼっちだから。これ以上フミエちゃんたちと一緒にいたら、もっといらいらをぶつけてしまいそうだ。そういう自分が自分でも嫌だし、だから私はいなくなる。目も耳も口も閉じて、ただまぶたの裏で動く不定形の霧だけを見つめた。
     時間は過ぎる。ひざの上に乗っけたままだったデンスケが身じろぎした。あくびをかいたのだとわかったら私にもうつって、そうしたらやっと待望の眠気が来た。
     とりとめのない思考がさざ波のように寄せては返す。波間にはクラゲが漂っていて、同心円と記号の混じった模様を明滅させる。海は広い。向こうには何があるのか全然わからない。でも私を呼ぶ、あの頃の声は聞こえる。丸い地球の水平線に、お姉ちゃんは今も変わらず待っているだろうか。
     私はいつか、寝入っていた。

    「意思と空間の直接結合」
     耳元で声がした。知った誰かのに似ている、でももっと意志的なはっきりした口調だ。
    「バカ言っちゃいかん」
     別の声が答える。その声も私は知っている。少し若いけど、オジジだ。
    「絵空ごと、というよりはオカルトのたぐいだ。わしの前だからまだいい、だが社でそんな話を大っぴらにしてはならんぞ。周りの信用を失う」
    「信用などとっくにないですよ。むしろそんなものはいらない。自由な研究の邪魔になるだけだ」
     覚えのあるようでない声は皮肉な返事をした。
    「自由な研究。その結果がこれか。君も話は聞いただろう、コイルスは近々メガマスに吸収合併される。旧経営陣は連結子会社の道を探してたようだが、それも閉ざされた。社名も残らん」
     しばらくの沈黙の後、最初の声は低くつぶやいた。
    「主任技師の私に責任があると?」
    「そうは言っておらん。だが、君の独走はいずれ君自身の首を絞めるぞ」
    「違います。先生、やはりあなたもわかってない」
     声は最初に聞こえた時のように堂々としていたが、しかし私は何かの翳りを感じた。
    「イマーゴはそのためのものだ。私の技術が世に出れば、メガマスの空間など旧世代の規格に成り下がる。精神と世界がリンクするんです。これは革命だ」
    「まだそんなことを。いい加減に目を覚ますんじゃ」
     オジジが荒々しい声を上げ、私は驚いた。私の知っているオジジはいつもにこにこして優しいのに、こんなふうに怒ることもあったんだ。
    「目を覚ます、ね」
     相変わらずの皮肉に、ぽとりと垂らしたような孤独が広がる。
    「あるいは目など覚まさないほうが良いのかもしれない。イマーゴの子供たちにとっては――」

     そこで目が覚めた。頭が痛い。
     イマーゴって何だろう。考えると頭痛がする。さっきの声、誰に似ていたのか。また痛む。あることについて考えるのと頭痛がセットになっているような、変な感覚。メガマス。イサコ。痛みと一緒に走る電光のような光が鋭いメスになって、目の前に広がる私の日常を断ち切る。暗号。タケル君。
     そうだ、さっきの声はタケル君と似てた。
     私は起き上がった。果し合い以来かけてない番号を発信する。単調な電話の呼び出し音。
     ぶつっと変な音がした。
    「もしもし、タケル君――」
    「これ以上近づいてはダメ」
     女の子の声だった。
     私は反射的に電話を切り、切ってから慌ててかけ直す。今度は軽いピアノの音が流れ出た。
    「はい、タケルです。小此木さん、どうしたの」
    「あっ、タケル君」
    「そりゃ僕の番号だからね。もしかして、誰かとかけ間違えた?」
    「ううん、そうじゃなくて……」
     さっきのは幻聴かなにかだったのだろうか。でもあれは、確かにお姉ちゃんの声だった。
    「ねえタケル君、もしかしてお姉ちゃんのこと知ってる? 夢の」
    「えっ、僕には兄しかいないけど? 小此木さんにお姉さんがいるの?」
    「ち、違うの。あの、えーと――ごめん」
     私はバカか。タケル君がお姉ちゃんのことを知っているはずがない。
    「小此木さん、大丈夫? なにか相談ごとでもある?」
    「あっ」
     用件を言おうとして、またも言葉が出ない。さっきの夢に出てきたのはタケル君の親戚ですか、とでも聞くつもりか。
    「あの、ごめん。ちょっと頭が痛くて。暗号を教わってから」
    「頭痛が? ひどいの?」
    「いや、それほどでもないけど。でも時々痛むから」
    「それは心配だね」
     苦し紛れの言い訳めいた相談に、タケル君は申し訳ないくらい親身な声で答えてくれた。
    「多分暗号は関係ないと思う。でも、こっちでも調べてみる」
    「あ、ありがとう」
    「お大事に。頭痛が続くようなら病院に行ったほうがいいよ」
    「うん、それじゃ」
    「あっ、ちょっと待って。情報がひとつあるんだ」
     タケル君はそこで声を潜めた。
    「実は、メガマスの強制フォーマットの警戒レベルがまたひとつ引き上がるんだ。兄ちゃんの話だと、ここまで高いレベルは5年ぶりだって。外に出かける時は注意して」
    「わかったわ」
     電話を切った私は立ち上がった。さっきまでのもやもやは得体のしれない焦燥感に変わっていた。

    電脳コイル〈3.00〉 -第15話 空中楼閣の決戦(後編)-

    H part

     高い空にたなびいた薄い雲が、暮れかけの陽を受けて黄金色の帯を作っていた。ドームの雲はもちろん現実のではない。無数にストックされた様々な天気の映像を、ランダムに天井スクリーンへ映しているにすぎないだろう。だが本物であれ、またまがいものだろうと、それは私の心を打ち、みんなが当り前に使い分ける現実と電脳の違いなんてものは、本当はそんなもの存在しないんじゃないだろうかと。何故ならあえて本物と偽物を区別しようとするなら、私の心にとっての本物こそが本物で、それ以外から押し付けられた現実なんて嘘っこなんじゃないのと、昔お姉ちゃんは言った。
     心でそんなのんきな回想を巡らしている間にも、両足は全力で回転している。
    「イサコ!」
     近くを走っていたお兄ちゃんが叫んだ。反射的に視界の右端へ映った窪地に飛び込む。直後、さっきまで私がいた場所を赤い光が襲う。砕け散る記号をかぶりながら素早く発射点に狙いを定め、暗号を放つ。青い光は正確にヤサコのいたはずの場所を貫いたが、多分もうそこからは離れている。
    「どうして!? どうしてこっちの場所がわかるんだ」
     いつも冷静なお兄ちゃんが、珍しく焦りの色をあらわにした。確かにおかしい。ヤサコはどうしてか、正確にこっちの位置をつかんで攻撃してくる。もしかすると、あの暗号と同じように、こっちの予想外のチートを使っているのか。この果し合いそのものが、ヤサコの仕組んだ罠だったのか。
    「林から離れるぞ。相手の姿の見える場所のほうが、まだ戦いやすい」
     お兄ちゃんが親指を立て、後ろに広がる野原を指した。
    「わかった」
     短く返事して、私は飛び出す。お兄ちゃんもほぼ一緒に。
     後ろに嫌な感じがした。
    「暗号が来るわ。気をつけて」
     ヤサコと私たちの距離は、30メートル強といったところか。暗号の性能が同じとすれば、射程は50メートル程度のはず。つまり、ヤサコの攻撃圏内20メートルを駆け抜ける必要がある。
    「お兄ちゃん、先に」
     私は両手に暗号を作った。後ろを振り向きながら走って、林のほうに赤い光が見えた瞬間、ふたつの暗号を同時に投げつける。赤い光はぐらりと揺れて身をかわし、体勢を崩しながらもこっちめがけて発射された。光は私を素通りしてお兄ちゃんのすぐ右に着弾した。
    「うわっ」
     お兄ちゃんが前のめりにつんのめる。
    「大丈夫!?」
     私は駆け寄って助け起こし、眉をしかめたお兄ちゃんがそれでもうなずくのを見て、その手首を握って走り出した。ここではまだヤサコの有効射程なのだ。
    少し走ったところにあった立ち木に身を隠し、私はお兄ちゃんを振りむいた。
    「損傷は? まだ戦える?」
    「右足をやられた」
     お兄ちゃんは悔しそうに言った。見ると、足は太もものあたりでモザイクがかかったように乱れていた。もちろん現実に動くことはできるが、電脳上は足がない状態で動き回っていることになり、負荷が溜まる。つまり、お兄ちゃんはここを動くことができない。
     顔に浮かんだ失望を見て取ったお兄ちゃんは、首を振ってみせた。
    「そう不安がらなくていいよ。ここなら林から狙撃されたりはしない。僕は固定銃座の役目になろう。イサコは僕と一緒に待ちかまえてもいいし、回り込んで小此木さんを林からいぶり出すって手もあるが」
    「そうね」
     気持ちを読まれたのを少し気恥ずかしく思いながら、私はまだヤサコの隠れている林を眺めた。
    「こっちの場所を読まれてる可能性が高いから、うかつに動くべきじゃない。待ち伏せしよう」
    「うん、わかったわ」
     私は草陰に身を伏せたまま移動し、お兄ちゃんと5メートルくらいの間を開けて暗号を構えた。

     そこで戦闘は膠着した。先に打って出たほうが的になるのはわかりきっていたから、ヤサコも私たちも動けなかったのだ。
     にらみ合いが15分近くも続くと、状況は私たちに不利になってきた。ヤサコからはこっちの位置がわかるらしいのに対し、こっちからはヤサコの居場所がわからないからだ。もしかするとヤサコはもう林を抜け出して、どこかから奇襲攻撃を企んでいるかもしれない。後で考え直せばヤサコ側の取れる手段も限られていたのだが、その時は疑心暗鬼が不安を高めた。
    「私、行ってみる」
    「気をつけて」
     無謀だったかもしれない提案を、お兄ちゃんもあえて止めなかった。私と同じように不安だったのだろう。
     私は一旦壁際まで下がって、そこから大きく、向かって右手に迂回した。元は探偵局の拠点があった、北側の壁を経由する。拠点と言っても出撃地点になったというだけで、今は何も残ってないだろうが。
     ヤサコのいるはずの方向を時々眺めたが、動きはなかった。見つかってはいないらしい。壁に沿って進んでいくと、やがてコンクリートのビジターセンターが見えてきた。
     センターの内部は暗くて、外からではまるで見通しが効かない。可能性として、罠がしかけられていることも考えられなくはないため、ダミーを使ってみることにした。
     ダミーというのは、私の電脳体とそっくりの信号を放つプログラムだ。例えば電脳地雷でもあった場合、ダミーを放り込めばこれに反応して爆発する。
     手早く作ったダミーを投げ入れて、念のため長めに10秒待つ。何も起こらない。
     私は暗い室内に足を踏み入れた。冷いやりとカビくさい空気が鼻をつく。安っぽい広告入りのプラスチックの椅子、空っぽのショーウィンドウ、変色したポスター。かつてそこにあったにぎわいは、こうやって無為の時を経るうちに、確実に死滅していく。寒々しいという以上に、何か寂しい、やりきれない感じが感情を昂ぶらせるのは、ここと同じように、今こうしているうちにもお姉ちゃんは少しずつ人々から忘れられ、失われていくからかもしれない。
     2、3分かけて内部を探したが、やはり探偵局の残したものはなかった。朽ち果てていく風景にせめてもの抵抗のつもりだったのか、ダミーはそこに置いたままにした。数日間はそこで信号を放ち続けるだろう。

     ビジターセンターを出ても外の光に目のくらむようなことはなかった。夕焼けの東のほうから、空が湿った青に塗りかえられつつある。廃園の夜が近い。
     夜になったら物理的な視界が損なわれる分、さらに私たちに不利だ。焦りを感じた私は、足早に木々をくぐり抜けた。
     大きな茂みをかき分けると、池があった。小さな池だ。対岸までは10メートルくらい、そしてその向こうに、こっちを凝視するヤサコの姿。
    「何で!?」
     その言葉が私の口から出たのか、それともヤサコだったのかはわからない。とにかく一瞬後にふたりは暗号を撃ち合い、そうして後ろの茂みに飛び込んだ。暗くなりかけた池の上を青と赤の暗号が飛び交い、はじける様は、他人から見たらきらびやかな電脳の見せものだったかもしれない。だが、戦ってるほうはそれどころじゃない。
     目の前に連続で暗号が着弾して、私は横っ跳びにかわす。壊れた木を通して見えた人影に、こっちも3発お見舞いする。敵は草やぶの裏に逃げ込んで、そこからまた攻撃を加えてくる。だが、今度は微妙に照準を外している。チャンスだ。鉢合わせと言いこれと言い、ヤサコの索敵能力が落ちているのかもしれない。
    「イサコ、無事か」
     お兄ちゃんから通信が入る。
    「ええ。ヤサコと交戦中、これから勝負を決めるわ」
     返事を待たずに交信を切って、私は手の上に複数の暗号を展開した。特に強力な1個は
    弾丸に、残りはバレルに形成し、既に1度使った暗号狙撃銃を組み上げる。ヤサコも損傷はかなり激しい。この1発が命中すれば、果し合いはおしまいだ。
    「手こずらせてくれたな、本当に」
     銃を構え、相変わらず見当はずれな位置への射撃を続けているその発射元に狙いを合わせた。
     これでメガネは壊れるな。カンナと同じように。
     躊躇の気持ちが伝わる前に、私は引き金を引いた。
     どんと反動があって、水面にきれいな青の光の筋が映った。同時に池の向こうの一角が吹っ飛ぶ。至近距離だったから威力は予想以上に高い。
     当然、というか攻撃はやんだ。人の気配はない。
    「ヤサコ。おい、やられたならそう言え」
     私は周囲に警戒しながら、そろそろと対岸に回った。ヤサコからの返事はない。暗号の発射源に当てたという手ごたえはあったが、あるいはうまくかわして、反撃の機会をうかがっているとも考えられる。
     お兄ちゃんから、再び通信が来た。
    「やったか」
    「100%とはいえないけど、多分」
    「そうか、よくやったね」
     お兄ちゃんの答えは多分に楽観的で、けれどそう言われると私にも楽観がうつった。
     だから、着弾点を見た時の衝撃はなお大きかった。
     ヤサコはいなかった。着弾の威力でクレーターのようになったそこに辛うじて残っていたのは、引き裂かれたままに明滅する電脳ツール。
    「これは」
     拾い上げてやっと正体がわかった。ショートカットだ。
    「お兄ちゃ――」
     残骸をかなぐり捨てて連絡を取ろうとした時、林の向こうで光が走った。
    「しまった!」
     回り込むはずが回り込まれた。ヤサコはショートカットに私の相手をさせておいて、油断しているお兄ちゃんを狙ったのに違いない。
     お兄ちゃんの反撃は遅れた。ヤサコは走りながら攻撃しているらしく、赤い暗号の軌跡は撃つたびにその位置を変えた。
    「お兄ちゃん、がんばって!」
     全力で走りながら私は叫んだ。動けないお兄ちゃんの不利は決定的だ。ヤサコが3発撃つのに1発返すのがやっとだった。しかも、ヤサコの走る方向はお兄ちゃんの裏手だ。遮蔽物のない後ろからの攻撃に、お兄ちゃんはなすすべがない。
    「イサコ、すまない」
     悪い知らせはその直後に入った。
    「小此木さんに完全に裏を取られた」
     お兄ちゃんはその後で少し言い淀んだ。
    「わかった。構わないよ、降参して」
    「すまない」
     お兄ちゃんはもう1度謝った。
    「いいの。お兄ちゃんのメガネを壊されたら、計画が水の泡だわ。無理しないで」
     その時も私は、お兄ちゃんの返事を待たずに通信を切った。

     お兄ちゃんの加勢がなくなり、私とヤサコは完全に1対1だ。だが、状況はあのチートめいた索敵能力を持つヤサコに有利。私とヤサコの経験の差をもってしても、この差は埋めがたい。
     というのが大方の予想だろうし、お兄ちゃんを失ってすぐの私の考えでもあった。3対1の圧倒的有利から引っ繰り返されたショックが、私の思考を歪ませていたのだ。
     私はひざをつき、その場にしゃがみこんでいた。
     勝てない。ヤサコが私の位置をつかんでいる限り、不意討ちはきかないからだ。逆にヤサコの側からの奇襲は簡単だ。それを防ぐには正面から攻めるしかないが、飛び出せば必ず反撃を食らう。反撃をかわし、なおかつヤサコの隠れる場所の遮蔽物を破壊、さらに後ろにいるヤサコ本人を撃つ。私に3段階の攻撃が必要なのに対し、ヤサコは突っ込んでくる私を狙い撃てばいいだけ。勝つどころか、引き分けもおぼつかない。
     どうしたらいい。さっきみたいにもう1度回り込みをかけるか。無理だ。ヤサコに位置が割れているのに成功するはずがない。でもさっきは――
     そうだ。何故さっきは成功した? 池を挟んで向かい合った時、ヤサコは私の存在に驚いていた。あの時、特別だったのは。
     わかった、ダミーだ。ヤサコはダミーを本物の私と勘違いして、不意討ちをかけに来たに違いない。ところが、ビジターセンターの中にいると思っていた私が池の前に現れたのに驚いたのだ。
     私は立ち上がり、木々の垣間をすかしてビジターセンターの灰色の建物を見る。無期的な建造物。
     ヤサコを警戒しながらも駆け足でセンターに向かい、5分くらいで到着した。
     内部はひっそりとしている。ヤサコの気配はなく、ダミーもそのまま置いてあった。それでも音をたてないようにゆっくりと、私は建物の中に入り込んだ。
     さっきも見た売店の跡、ここはどうでもいい。ダミーだけ拾い上げると、腰を落として周囲に目を配りながら、レジスターのわきをすり抜け、さらに奥へ進む。「関係者以外立ち入り禁止」と書かれた扉を開けると、事務用デスクの並んだ、予想より大きな事務室風の部屋だった。
     大きく取った窓から、薄暮の幻めいた光が驚くほどの明るさで差し込んでいた。古い型の、メガネとディスプレイ型が共用されていた頃のコンピュータがいくつか置いてある。電源らしきスイッチを押すとぶうんと低い音をたてて立ち上がった。メガネと接続し、パスワードの類はやや手こずったがなんとか突破して、システムを探る。驚いたことに、ほとんどのシステムはアクティヴだ。管理する者も訪れる者もいなくなってからどれだけの時間が過ぎたか、システムだけは過去も未来も関係なく、淡々とその役割をこなしている。
     どこかに監視システムがあるはずだ。ヤサコはきっと、そこに接続している。でなければ、あそこまで私たちの位置情報が把握できるはずがない。
     頭痛が始まった。ここのシステムは、私の暗号と相性が悪い。ひとつひとつ探って行くだけなのに、そのたびに鋭い痛みが走る。
    「まだか」
     片手で頭を抱えて、私はスキャンを続けた。次第に息まで荒くなる。この痛み、引きちぎって投げ捨ててしまいたい。
     不意にドームの全景が、鮮明な画像となって頭の中に飛び込んできた。同時に扉の開く音。ヤサコの位置。
     私は飛びのき、デスクの陰に隠れながら暗号を投げた。至近距離で爆散したそれが、耳を覆うノイズと飛び散った記号の雨を降らせる。次の瞬間、私のでない暗号がPCを直撃した。最後に操作を行っていたせいで接続を解除するのがわずかに遅れ、脈絡のない画像や壊れたデータの破片が押し寄せる。
    「うっ」
     ほんの一瞬ではあるが、激しい痛みが体を突き抜け、こらえきれないうめき声が漏れた。
    「イサコ、降参して。よくわからないけど、あなたがどこにいるか私にはわかるの」
     ヤサコの声が聞こえた。
    「断る!」
     叫びながら、声の位置に暗号を放つ。再び着弾音とノイズ。それに混じって別種の何か。反射的に投げた鉄壁にヤサコの暗号が当たり、見る間に赤熱する。
     ヤサコの狙いは私の身体を正確に衝いていた。位置がわかるというのは本当らしい。私は割れるような頭痛に耐えて暗号を繰った。
     ヤサコはまた暗号を投げた。至近距離で見る赤い暗号は、ひょっとすると私のより強力かもしれない。今日1日だけで、ヤサコはスキルを格段に向上させている。だが――
    「おしまいよ」
     部屋の隅に向かってヤサコは叫ぶ。
    「もう逃げ場はない。あなたからは私の正確な場所がわからないから、反撃も難しい。お願い、降参して」
     私は答えない。何故か今になって、ヤサコとのいろいろな思い出が浮かぶ。私は楽しかったのだろうか。ヤサコを嫌いなはずなのに、一緒にいられて良かったと思っているのだろうか。
    「ダメなのね」
     ヤサコは右手に暗号を作って、目の高さに持ち上げた。その光。夕映えのような。私は思い出す。お姉ちゃんを助けなければならない。そのために、ヤサコは敵だ。
    「ごめんなさい」
     ヤサコは暗号を投げた。赤い光は部屋の一角をめちゃくちゃに壊した。
     爆発の余韻の収まらないうちに、私はヤサコの後ろに立った。
    「降参するのはお前だ」
    「えっ」
     右手に暗号を構え、振り向こうとする肩を左手で押さえる。
    「お前はここの管制システムにアクセスしていたな。システムの情報は書き換えた。お前の狙った位置に私はいない。降伏しろ。もうお前に勝ち目はない」
     ヤサコはしばらく無言でいた。私は待った。
    「イヤ」
     つい苦笑が漏れる。強情なヤツだ。誰かと似ている。
    「最後の最後まで何があるかわからないもの。だから、降参はしない」
    「そうか。じゃあその最後だ」
     私は暗号を放った。青い光はヤサコの体に当たってはじけた。
     ヤサコは両手で頭を覆ってしゃがみこんでいた。
    「お前は最後まで何もできなかったな」
     そして、
    「降伏しろ」
     私はヤサコのメガネを壊さなかった。いつか、それを後悔するかもしれない。でもそう決めた。
    「――わかったわ」
     しゃがんだままこっちを振り向きもせず、ヤサコはうなずいた。
     薄暮はいつかその光を減じて、体温のような生ぬるい闇の中へ私たちを溶かしていた。

    電脳コイル〈3.00〉 -第15話 空中楼閣の決戦(後編)-

    G part

     そう、全てが私の肩の上。
     フミエちゃんとダイチ君のふたり同時に「降参」のサインが出た時、情けない話だけど脚の力が抜けた。へたりこんでいる間、イサコとナメッチの攻撃が当たらなかったのは運が良かったとしか言いようがない。
    「どうしよう」
     私は自分の腕を見た。あちこちにかすったような損傷が見え、右ひじには本物のすり傷ができていた。イサコの暗号を危うくかわした時につけたものだ。
     敵はイサコ、その兄の信彦さん、ナメッチ、1対3。しかも強いほうのふたりが残ってる。私ひとりでどうやって勝てというのだろう。
    「ヤサコ、もう降参して」
     フミエちゃんから通信が入った。
    「おい、退場者は通信禁止だぜ」
    「うるさいわね。ヤサコに有利な情報を伝えてるわけじゃないんだから、これくらいいいでしょ」
     たしなめるガチャギリ君に言い返してから、私に戻る。
    「あんた、あのイサコにナメまで相手してよくやったわよ。もういいからさ。帰ったらほめてあげる」
     私は黙った。
     フミエちゃんのいうとおりにするのがいいのかもしれない。黒客も含めて、ここにいる全員がそれを望んでいるのかもしれない。
     でも、それって卑怯なんじゃない?
     みんな全力で戦って、降伏するにしたってもうダメというところまではとことんやった。私はまだ力を残してる。逆転の可能性だってゼロじゃない。
    「勝てるかもしれない、って考えてるんだろ」
     フミエちゃんとの回線が突然変な雑音を鳴らしたかと思うと、別の声が割り込んできた。いうまでもなくイサコだ。
    「バカなやつだ」
    「バカって何よ!」
    「ヤサコやめな。挑発だよ」
     フミエちゃんが慌ててたしなめる。
    「いいや、私は挑発なんかしてないぞ」
     ところが、イサコの答えは予想と違った。
    「私も降伏を勧める。そのほうが私にもお前にも効率的だからな」
    「効率――」
    「そうだ。正直に言えば、お前がこのまま戦って勝つ確率も1%くらいならありそうだ。だがその1%に賭けてメガネを壊すか? メガネを完全に壊されたら、2度と復元できないデータだってあることはお前も知ってるだろ。9割9分、大切なデータをどぶに捨てるとしても、お前は戦うのか」
    「ヤサコ、悔しいけどイサコが正しいわ。当り前だけど、誰もあなたを責めたりしない。ムダな努力をする必要ないわよ」
     イサコにかぶせるように、フミエちゃんも言う。
     重たい何秒かが流れる間、私は自分の心の中を探していた。
     ふたりの意見は正論だ。反対する要素がない。他のみんなだってそれを望んでる。
     それなのにどうしてだろう、ふたりに従おうと考えるたびに、ひっかいたような痛みが気持ちを逆なでる。
     私は嫌な感じに息をつき、それで気分は晴れるどころかますますもやがかった。
     負けたくないからだろうか。いや、それもなくはないけど、一番の引っかかりじゃない。私をいらだたせているものは私の中にあるはずなのに、そうではなくて外側から心に爪を立てる。これは何?
     まさか。目の奥で何かが光った。
     暗号?
    「おい」
     ぴくりと肩が震える。いつの間にか閉じられていた目を、私は開けた。
    「質問に答えろ。降伏か、継続か」
     電話の向こうで、イサコがかみつきそうな声を出した。
    「続けるわ」
     私の心が外から変えられているならば、私の答えだってそうであるのに違いなかった。

     黒客の一斉攻撃は、イサコの1%と言ったのがまだまだ甘い数字だとでも言いたげなほどに猛烈だった。フィールド内の樹木や塀は連射を浴びると数秒で壊れてしまい、ほとんど役に立たない。鉄壁でさえ10秒とはもたなかった。私にできることと言ったら逃げ回るばかりだ。止まったら集中砲火で確実にやられる。暗号やミサイルが体をかすめるたびに頭を覆ってしゃがみこみたくなったけれど、唇をかみしめて全力で走った。
     最初のうちは無我夢中だった。もう負けは決まったつもりで、それでもむざむざ斃されるのだけは嫌で、悔しさをバネにして脚を回した。
     だから、状況が変わったのは偶然だったのだ。
     運も良かったのだろう。敵が3人で連携しながら攻め込んできていたにもかかわらず、私はすばしっこく走り回って、追い詰められることがなかった。息切れがしてなにがなんだかわからなくなってきた時も、黒客と私の位置だけは頭の中に、まるで空から見たようにはっきりと映っていた。慣れてくるとだんだん大胆になってきて、イサコとお兄さんの10メートルと離れてない隙間を、息をひそめて通り抜けたりした。戦いを通じて、逃げることだけは一流になったらしい。
    「クソッ、どこに行った!」
     いらついたイサコの声を聞いた時、今まで諦めと悔しさしかないと思っていた心の中から、ふと立ち昇るものがあると気づいた。
     敵も焦っている。なぜ焦るか。私を倒せないから。倒せなくて、逆に倒される可能性があるから。私に勝つ可能性があるから。
     けれど、逃げだけじゃ勝負には勝てない。
     見当外れの方向を探している黒客から離れて、私は今まで戦場になってなかった、つまり無傷の障害物がたくさん残っている、西の林へ入った。手近な茂みに伏せて黒客を振り返ると、見える。長身に髪の長いシルエットは信彦さんだ。距離は50メートルくらいだから、タケル君から聞いた暗号の射程ぎりぎり。
     よく狙って撃てば当たるはずだが、私はぐっとこらえた。今勝負すべきはあの人じゃない。
     2、3分待ったところで目標が見えた。自信なさそうに下がった目つきにいつもの薄笑いを浮かべたナメッチの姿は、有名な昔の漫画家の描く小悪党キャラに似ている。女子にはもてないから今度言ってあげよう。と、聞こえたわけでもないだろうにひょいとこっちを見た顔へ、思い切り暗号を投げつけた。
    「ひやあ」
    「ナメッチ、下ってろ」
     すかさずイサコの声が響いて、暗号が間近を襲う。身を隠しながら、イサコの狙いの正確さに、敵ながら舌を巻いた。
    「お兄ちゃん、こっち」
     足音がふたつ聞こえる。言われたとおりナメッチは後方に回って、イサコと信彦さんだ。
     私は後退すると見せかけて、林の浅いところに潜んでいた。ひとつにはもちろん待ち伏せのため。もうひとつは、間近でふたりのダメージを確かめたかったからだ。
    「戦いやすい場所じゃないな。イサコ、気をつけろ」
    「うん」
     ふたりはすぐにやってきた。警戒はしているようだが、陽の大きく傾いた林の中、視界は予想以上に暗い。動かなければ見つかったりはしない。
    「この奥に逃げ込んだはずだ」
     信彦さんが先に1歩踏み込んできた。電脳体にはほとんど損傷が見られない。スキルと残りの体力を合わせて考えれば、イサコより強敵になる。
    「気をつけて」
     低い声で注意を促しながら素早く視線を動かすイサコの姿はかなり傷ついていた。なんだか見ていて痛々しいほどだ。でも、多分私も同じかもっとひどい状態なんだろう。
     私はゆっくりと息を吸い込んで、そのまま止めた。今日最大のチャンスだ。
     狙いは最初からナメッチなんかじゃなく、イサコだ。私の目的は、ナメッチを狙うふりをしてイサコをこの林に誘うことだ。遠距離の撃ち合いじゃ勝てない。かといって、至近距離で白兵戦なんてますます無理だ。それなら、避けようのない近距離からの奇襲で一気に勝負を決めるしかない。
     イサコと信彦さんはお互いの背中を預けるように隣り合って、ゆっくりと進んでくる。私は手の中で暗号を作った。
    「あっ」
     同時にイサコが小さな叫びを上げたから、私は固まった。が、遠くを見た視線は私を素通りしていた。
    「夕映えがあんなに」
     そう言ったイサコの頬は朱に染まっていた。
    「へえ、きれいだね」
     信彦さんも感心したように答える。
    「勝負を終わらせてゆっくり見たかったな」
     私はゆっくりと手を持ち上げた。イサコは気づいてない。
     普段見せることのない、あどけない表情。
     イサコ、ごめん。
     暗号を投げかけた、まさにその時。
    「イサコさあああん!」
     裏返った金切り声がドーム内に響き渡った。
     振り向いた私の目の前に、全力疾走してくるナメッチの姿が映った。
    「危なあああい!」
     叫ぶなり、ナメッチは私に飛びかかった。
    「きゃああっ!?」
     反射的に手が動いた。空中のナメッチに至近距離から暗号が命中する。ナメッチはぐわとか言って地面に落ちた。
     ナメッチのリタイアを確かめる暇もなく、私は駆け出した。そのつい今までいた場所を暗号が襲う。私も暗号を作っては、後ろも見ずに投げまくった。
     がりがりヒスノイズを上げる空間と舞い散る記号をかいくぐって、私は夕映えの方向へ駆けた。

    電脳コイル〈3.00〉 -第15話 空中楼閣の決戦(後編)-

    F part

     状況はかなり切羽詰まっていた。
     イサコの兄貴は強い。俺とフミエのふたりがかりでも気を抜ける相手じゃない。もちろんそこはある程度予想していたのだが、計算外だったのは謎の壁際の相手だ。
     フミエが心細そうな目でつぶやいた。
    「タケルが裏切ったのかしら」
    「やめろ」
     俺はすぐに止めた。
    「そうかもしれねえし違うかもしれねえ。でも今はそんな場合じゃねえだろう。正面と壁際、二方の敵とどう戦うかを考えるんだ。相手が誰かは後で調べればいい」
     こんなところで疑心暗鬼に陥ってもいいことはひとつもない。
     その時、目の前のやぶが激しい音を立てて揺らいだ。
    「くそっ、ここも気づかれてるか」
     俺は目で辺りを見回した。だが、一番近くの茂みまででも20メートルはある。
    「ハラケン、どこなの? こっちはかなり苦しい。できるなら助けに来て」
     フミエは必死の声でハラケンを呼んでいる。すぐにノイズ混じりの応答があった。
    「今、そっちに向かってる。もうちょっとがんばって――」
     ざっとノイズが高まる。同時に壁の近くを光が走った。
    「ハラケン!?」
     しばらくはひと昔前の無線のような甲高い音が鳴り続けていた。
    「おい、大丈夫か!」
    「ハラケン、返事して」
     呼び続けても答えはない。フミエはやがてうつむいて通話を切った。
    「くそっ、やられちまったのかよ」
     俺は思わずこぶしを握った。
    「助けは望めないってわけね」
     フミエは固い声で言うと、俺の顔を見つめた。
    「だけど、今が最後のチャンスかもしれない」
    「最後のって、どういう意味だ」
     決意を秘めたフミエの表情に、俺はやや押され気味で聞いた。
    「横にいる敵は、今ならまだハラケンに意識が向いてる。私たちはお兄さんに集中できるわ」
    「だけど――」
     さっきも兄貴の力を甘く見て痛い目にあったばかりだった。同じ失敗を繰り返したくはない。
    「選んでる余裕はないのよ」
     だが、フミエは後に引こうとしない。
    「考えてもみて。ヤサコはイサコと、多分ナメッチを相手にしてるけど、はっきり言って危ない。1対1でもイサコに勝てるとは思えないもの。このまま時間が経てば、私たち、どんどん不利になってくわ」
     フミエの言うことは確かだが、俺は戸惑った。その理由は、女々しいと言ったらそのとおりの、でもくだらないと切り捨てたくはない、つまり俺はフミエが俺より先にメガネを壊される姿を見たくなかったし、それにフミエの目の前で俺がやられるのも見せたくなかった。このまま攻撃に出れば、そのふたつにひとつは確実なのだ。
    「まあ待てよ。少し考えようぜ。いい方法が浮かぶかもしれねえ」
     我ながら言い訳にしか聞こえない情けない返事だった。
    「ちょっと、どうしてこの期に及んで煮え切らないのよ。あんたいつも考えるより先に手が出るでしょうが」
    「いや、だからこんな時こそ」
    「もういい」
     フミエは突き放すようにさえぎった。
    「とにかく私は行く。あんたは残って」
    「はあ? いきなり何言ってやがる」
    「分かれたほうが敵の攻撃を分散できる。じゃあね」
     答えるが早いか、小さい体がやぶを飛び出す。囮になるつもりだ。俺は手を伸ばしたが、一瞬間に合わない。
     と思った時、フミエは自分のほうでブレーキをかけた。
    「忘れてた。こないだの答え、OK」
     その意味を頭が理解するのと手が出るのとどっちが早かったか、一緒だったか、それとも答えはあらかじめ俺にもわかっていたのか、はたまたイエスでもノーでも手が出ていたのか。不思議なことに、俺たちの進む先の道はいくつにも分かれているのに、その中で実際に選びとれるのはひとつしかないのだ。
     だがとにかくひとつだけ確かなのは、その時俺が選んだのは正しかったと、これからいつどんな時でも胸を張って言えるだろうということだ。
    「俺たちはふたりでひとつだ。どっちも欠けちゃならねえ」
    「そんなの無理に決まってるじゃない」
     フミエはうつむいて、聞こえるか聞こえないかの声でつぶやいた。
    「できないと思うな。方法を探すんだ。ことわざにあるだろ、ふたり寄ればなんとかかんとか」
    「三人寄れば、でしょ」
     意地の悪いことにフミエはその続きを教えてくれなかった。だがその代わりとでもいうのか、俺の手を握り返して茂みにしゃがみこんだ。
    「まああんたとなら天国でも地獄でも付き合うわ。地獄の可能性のが高いけど」
     むしろ楽しそうな口調で言うのを聞いていると、このピンチが俺にもスリリングな状況に思えてきたのだから不思議なものだ。時おりメガネを震わす敵の攻撃も、諦めよりは心に興奮の火をつける。
    「えーっと、武器は私のメガビーとあんたのミサイル。ツールで使えそうなのはショートカットくらいか」
    「さっきと同じようにショートカットで位置を偽装するってのはどうだ?」
    「どうだろ、2回続けて同じ手は通じないんじゃない? ……とはいえ」
     他に方法はないとでもいうように、フミエはお手上げのポーズを取った。
    「やっぱり私が囮になるわよ」
    「ダメだ! それはなしって言ったろ」
    「でも――」
     そうこうする間にも時間は過ぎ、俺たちは追い詰められていく。焦りを抑えてこぶしを握りながら、俺は手の中のショートカットを眺めた。
     やっぱり、これしかない。

     ショートカットの絡む作戦の要点は移動だ。うかつに姿を見られたら全てがばれる。ふたりで手早く考えて、とりあえずイサコの兄貴に集中砲火を浴びせ、隠れている隙に、斜め後ろ30メートルくらいの大木の裏に走ることにした。そこならば、壁際からは茂みが死角になって俺の姿は見えない。
    「よし、行くぜ」
     俺が腰を浮かせると、フミエは無言で親指を立てた。機敏な動作のカッコよさに俺はつい作戦のことも忘れて見とれかけた。と、次の瞬間には親指は引っ込み、腹にけっこう重い1発が入った。
    「なに見てんのよ」
    「何でもねえ」
     言い放つなり、後ろも見ずに俺は用意のミサイルを一斉に放った。フミエも後を追うようにメガビーを撃ちまくる。兄貴の隠れた木が盛大に揺らぎ、根元から近くの崩れかけた土塀に、ぱっと人影の離れるのが見えた。
    「いたぞ」
     俺たちはさらに激しい攻撃を加える。と、土塀の裏から頑丈そうな鉄壁が2枚飛び出す。
    「今だ!」
     俺の叫んだのとほぼ同時にフミエの体がスタートを切った。走りながらも兄貴が顔を出せないよう、攻撃を続けなければいけない。メガビーとミサイルはしばらくの間、鉄壁を震わせ続けた。
     作戦通りにことが進んだ時には、ミサイルの手持ちはだいぶ少なくなっていた。ひょっとすると、俺は最後まで残れないかもしれない。それでもせめてひとり、壁際の敵だけは倒す。そのためには――
     俺は身を伏せ、散発的な攻撃をかけながら敵の次の行動を待った。だが敵もさる者というべきか、なかなか動きを見せない。反撃もあまり来ないのは、茂みの中と大木の裏、2方向からの攻撃が、さっきと同様のショートカット作戦と読まれているせいだろうか。
     ショートカットを経由した攻撃では、どうしてもきっちりと敵に照準を合わせた攻撃が難しくなる。今の状況が長引けば長引くほど、茂みからの攻撃をショートカットと判断される可能性が高まるわけだ。偽装のために、俺は攻撃をさらに間延びしたものに変えた。
     変化があったのは、それから2、3分経ってからだ。動いたのは兄貴ではなく、壁際の敵だった。
     1発ミサイルの攻撃があり、反撃のないことを確かめるように何秒かおいて、その後で土色とまばらな緑の光景の中から誰かが立ち上がる。大木への攻撃に集中しているらしい兄貴は気づいてないようだ。人影は弾かれたように飛び出して、さっきまで俺たちの拠点だった茂みへ駆けこんだ。
    「ショートカットは――」
     相手はつぶやいた。
    「ねえよ」
     後ろ姿に俺は声をかけた。飛び上がって振り向こうとする背中にミサイルを構える。
    「こっちを向くな」
     相手は再びびくっと震えて動きを止める。
    「ショートカットなんか元から設置してねえ。見たまんま、俺はフミエと別れてここに残った。そうすればお前がやってくると思ってな」
     相手がため息をつくのが、背中の動きでわかった。
    「降参しろ。こんなことをした事情は後で聞く」
     言いながら、今の台詞ってちょっとイサコみたいだと思った。イサコのそういうクールな言葉はかっこいいと思っていたが、自分でやってみると辛さばかりだった。イサコもひょっとすると似たような辛さをいつも感じているのかもしれないと思った。
     俺は肩を落とした相手に声をかけようとした。それは多分余計な感傷だったのだ。だからその結果は悪い方へ傾いだ。
     俺の言葉が出るより先に、相手は横っ飛びに飛んだ。俺はミサイルを構える。敵の読みが甘い。俺はこれでも、猛者ぞろいの大黒黒客を束ねていただけの力がある。

    「壁の敵をやった。残るは兄貴だけだな」
     つとめて冷静に言ったつもりだし、メガネの損傷のせいでひどく聞き取りづらい通話だったにもかかわらず、フミエは敏感に俺の気分を察したようだ。
    「どうしたのよ、なんか冴えないわね」
    「どうもしねえ。とにかく兄貴だ」
    「――うん」
     フミエは再び俺の気分を読んだらしい。うれしいけど、ちょっと重い。これからは、こんな重さも我慢していかなくちゃならないんだな。
    「お兄さんの攻撃は相変わらずよ。こっちは応戦でいっぱいいっぱい」
    「お、おう」
     言われなくとも、それはわかった。鉄壁で防御を固めた兄貴の拠点からフミエのいる木に向かって、矢継ぎ早に光の矢が飛んでいく。フミエの隠れる大木もダメージが大きい。次の隠れ場所を探さなければならないが、今の勢いでは木から走り出た瞬間に的にされるだろう。
    「よし、俺が回り込む」
     壁際は今、がら空きだ。大回りして兄貴の横につけ、奇襲をかける。簡単に説明すると、フミエは不安の残る声を返した。
    「大丈夫? 気をつけてね」
     心配する顔が浮かぶようだ。
    「わかってら」
     照れくさいのを隠してぶっきらぼうにそれだけ答え、俺は壁際へとダッシュをかけた。援護のつもりだろう、後ろでフミエのメガビーの光がおどる。兄貴も負けずに撃ち返し、派手な攻撃音が背中に鳴り響いた。
     壁際には密生した草地や土の壁がいくつもあって、身を隠しながら進むのはわりと簡単だった。やがて兄貴の90度横に出る。用心深くも兄貴は横にも鉄壁を展開していた。裏まで進めば攻撃も簡単だが、イサコに見つかりかねないから、逆に鉄壁を死角に接近し、至近距離で勝負を決めようと思った。
     半分程度まで来た時、フミエの攻撃が徐々に弱まっているのに気づいた。メガビーも残りわずからしい。俺は身をかがめ、高い草の裏を走り抜けた。
     壁のすぐ裏まで着いても、兄貴は俺に全く気づかず、フミエへの攻撃を続けていた。応戦が弱まったところで一気に勝ちに行くつもりか、攻撃は強まってさえいる。
     今日一番の大物釣りだ。俺の心は高鳴った。
    「動くな!」
     兄貴の後ろに回り、ありったけのミサイルを構えてどなった俺の口は、そのままあんぐりと開けられたままになった。
     兄貴はいない。
     攻撃は――ショートカット。やられた。
     と、その上に『5』という数字が浮かんでいるのが目に入った。嫌な汗が吹き出した。
    『4』『3』『2』
     数字は急速に切り替わった。カウントダウンだ。俺は目を閉じた。
     最後の1秒は異様に長く感じた。フミエの顔が浮かぶ。悪い、俺はここまでだ。
     ここまでだ――
     電話が鳴った。俺はおそるおそる目を開ける。カウントは「1」で止まっていた。
    「ダイチ」
    「フミエか、どうした」
    「ごめん」
    「なに!?」
    「……ちょっといいかな」
     誰かの声が割って入った。
    「沢口ダイチ君だね。天沢信彦だ。君たちの戦いは素晴らしかった。敵ながら称賛に値するよ」
     兄貴の声は明るい。反対に俺のは暗かった。
    「ゴタクはいい。フミエをどうした。まさかメガネを」
    「安心してくれ。橋本さんは降伏を選んだ。賢明な判断だ」
     俺は息をついた。張り詰めていたものが急に消えてなくなり、体がしぼんだような気がした。
    「君にも同じ選択を求めたい」
     俺は目の前の『1』を眺めた。
     後は全てがヤサコの肩の上だ。

    電脳コイル〈3.00〉 -第15話 空中楼閣の決戦(後編)-

    E part

    「ガチャギリをやったか」
     私のすぐ後ろに立って戦場の様子を観察していたダイチがつぶやいた。その言葉には、どことない寂しさがにじみ出ている。敵を倒したなら喜べば良さそうなものだけど、それがほんのしばらく前までの仲間だとわかっていれば、複雑なものがあるのはよくわかる。
    「そうね」
     あまり細かくは突っ込まず、私はそれだけ答えた。
    「これでお互いひとりずつ脱落ね」
    「そのひとりをさ、もう少し増やしてみねえか」
    「えっ」
     思わず振り返ると、ダイチの顔は寂しさの模様でなく、不敵な笑みが浮かんでいる。
    「見た感じ、黒客はふた手に分かれてる。イサコは前衛だな。兄貴のほうは多分後ろだ」
    「うん」
     最前線から暗号を撃ちまくってくる相手がイサコだろうとは、簡単に想像がついた。
    「イサコのやつ、最初っから前線に出ずっぱりだな。いくら強いっつっても、大分削られてるはずだ」
    「じゃあイサコを集中攻撃しようっていうの?」
    「ちっちっ」
     ダイチは生意気に立てた指を振る。
    「今の戦い方じゃ、イサコは倒せねえよ。ぎりぎりのところまで追いつめても、最後の最後で逃げられちまうだろ」
    「それじゃあどうしようってのよ」
     話の先が見えない私は、いくらかいらいらしてきた。
    「つまりイサコを倒すには、逃げ道をあらかじめ潰しとくのが先決ってことだ。俺たちは兄貴を狙う」

     激戦はいつになっても衰える気配がなかった。ガチャギリを失ったとは思えないほどの火力で暗号を放ち続けるイサコを、少し離れた後ろから黒客の後衛が援護している。対するこっちはヤサコとタケルがイサコの正面から応戦している。さらにその横手に陣取った私たちが、ミサイルの断続的な攻撃を加えている――
    「ように見えるわ、これ」
    「だろう」
     自慢げに答えるダイチの手には、丸い電脳のワームホールが光っている。ショートカットだ。
    「俺たちの元いたところにショートカットの片割れを設置してだな、もう片方から適当にミサイルを撃ち込んでれば、敵には俺たちがあそこにいるように見えるのさ。電脳戦でよく使う手だ」
    「さすが、悪知恵が働くわ」
     私は半ば呆れ、半ば感心して言った。
    「ほめ言葉と受け取っておくぜ」
     ダイチは再び胸を張る。
    「まあ、ガチャのやつがいたらばれたろうけど」
    「イサコは強すぎるからこんな姑息な手段取る必要ないもんね」
    「姑息な、ってのが引っかかるが、言ってること自体は間違いじゃねえ。この辺は要領っていうか、駆け引きの問題だからな」
     そんなことを言いあっているうちに、うまい具合に黒客の裏手についた。生い茂った草の裏手からそっと前を除くと、予想に違わず、黒い頭が3つ見える。デンパ、アキラ、それからイサコのお兄さんだ。
    「攻撃がぶれないように先に相手を決めておくぞ。俺はデンパを狙う。お前は?」
    「え、ええっと……アキラ」
    「お前の弟だったのが運の尽きだな」
     ダイチはかなり失礼なことをさらりと言うと、反論を待たずに駆け出した。私もメガビーとミサイルを準備してアキラの背後に回る。
     勝負はほとんど一瞬だった。死角からの打撃で大部分の耐久力を失ったふたりは、抵抗らしい抵抗もできないままにメガネから白い煙を上げた。
     苦い表情で両手を上げるふたりを目にも留めず、ダイチは叫ぶ。
    「よし、このまま兄貴だ!」
     イサコのお兄さんは逃げようともせず、身をすくめている。実戦経験が少ないのだろうか。かわいそうな気もしたけど、そこは決闘だ。私はメガビーを、ダイチはミサイルを、同時に発射した。
     着弾と同時にざあっと画像が乱れて、お兄さんの姿はノイズにまみれた。
    「やった!」
     ダイチがガッツポーズを作る。
    「意外とあっけなかったわね」
     屈んだままのお兄さんに向かって歩き出す。お兄さんはまだ動かない。電脳体は半分がた壊れて、ところどころ向こうが透けて見える。向こうが――
    「まずい!」
     私とダイチが顔を合わせたのと、青い光の走ったのとほぼ同時だった。反射的に飛びのいたが、嫌な感じが半身に走った。
     第2撃は、ダイチが投げた鉄壁にぎりぎりで阻まれた。私は大体の見当で攻撃のあったと思しき場所にメガビーを撃ちこむ。敵はひるんだらしく、身をひるがえす姿がちらりと見えた。自然とその場に座り込みそうになるのを、ダイチが腕を引っ張った。
    「油断するな」
     身をかがめた姿勢で、立ち木や茂みの多い場所を縫うように、ダイチは素早く移動する。私は腕をつかまれたままにその後へ従った。
     断続的に着弾があって、私はやっとダイチの意図を理解した。攻撃元は1ヶ所ではない。イサコのお兄さん以外にも、誰かが私たちを狙っている。
    「一体誰が?」
     三方を草に覆われたやぶの中に逃げ込んで、私たちはもう1度顔を合わせた。
     相手のひとりは、間違いなくお兄さんだ。多分、攻撃を受けた瞬間に事情を察して、ダミーの身体を置いて自分は隠れたのだろう。判断の速さ、ダミーを作る手際はさすがイサコの兄というだけある。
     でも、もうひとりがわからない。
    「攻撃はフィールドの端の壁のほうからだった。正直ノーマークだぜ」
    「アキラかデンパ、ってことはないわよね」
     ダイチは首を振る。
    「いや、それはねえ。ふたりのメガネは確かに壊れてた」
    「じゃあナメッチ?」
    「うーん、そうとも思えねえんだが。でも、可能性を考えるとそれしか残らねえんだよな」
     ダイチは腕を組む。その腕がひどく損傷しているのに、ようやく私は気づいた。
    「ダイチ、大丈夫? かなりやられてるみたいだけど」
    「お前もな」
     言われて自分の身体を見ると、確かにダイチと似たり寄ったりだ。
    「きっついな。メガネの耐久力、ほとんど限界だぜ」
     私は通信の回線を開いた。
    「ヤサコ、ハラケン、聞こえる? こちらフミエ」
    「あっ、フミエちゃん――」
     応答するヤサコの声は近くなったり遠くなったりした。加えて激しいノイズ。どうやらイサコとの応酬は続いているらしい。
    「タケル君がやられちゃったの」
    「なんだと、あいつが? ヤサコ、お前見たのか」
     ダイチが横から聞いた。
    「ううん。でも、メガネを外したタケル君が、『ごめん、やられた』って言って、壁のほうに歩いていくのは見たわ」
     壁のほう――
    「ヤサコ、ナメッチはそっちにいる?」
    「多分。イサコ以外にも攻撃してきてる相手がいるから」
     私は今日何度目かダイチのほうを向き、お互いそろそろ見飽きてきた疑惑の表情を眺め合った。

    電脳コイル〈3.00〉 -第15話 空中楼閣の決戦(後編)-

    D part

     私はかなりいらだっていた。
     ヤサコの意外な善戦、カンナのメガネを壊してしまったこと、それでいてハラケンを取り逃がした失態、全て計算違いだ。
    「正面突破はきついぜ。一旦戻る」
     ガチャギリからの連絡にはきついノイズがざあざあ入っていた。かなりのダメージを負ったらしい。
    「そろそろ僕が出よう」
     今までもっぱら後方支援に回っていたお兄ちゃんからそんな通信が入ったのは、戦い全体が膠着状態に陥ってしまっているのを危惧してだろう。下手に長引いて空間の破損がひどくなれば、敵味方双方のメガネにも悪影響が現れる。私たちにとって、本当のヤマはこの勝負の後だ。前座の段階でメガネを故障させては、今後の戦略にも響いてくる。
    「私が行く。まだ待機してて」
     でも私はそう応答した。お兄ちゃんの実力は、最後の最後まで未知数にしておきたい。そのほうが、探偵局に対する牽制になる。
    「だけどイサコはそろそろダメージが溜まってきたんじゃないか。そろそろ前衛を交代する頃合いだろう」
    「大丈夫。この程度の損傷、これまで何度も体験済みだから。まだ戦える」
     私は少しだけ、かたくなになっている。それは、ヤサコとの勝負は自分でつけたいと思うからかもしれない。それともそうでなく、もっと考えたくない理由があるのかもしれない。
    「デンパ君に応急メンテのキットを渡してある。一旦下って回復してくれ」
     お兄ちゃんの返信を見た時、心が暗くなった。
     もういい。無視して出よう。
    「イサコが出るなら、俺とナメッチが援護する」
     誰かのメールが私たちのやり取りに割って入った。発信元を見ると、ガチャギリだ。
    「ガチャギリさん、危ないです。さっきの攻撃で消耗してるでしょう」
     アキラが止めにかかった。そういえば、最近このふたりは仲がいい。
    「付け焼刃のヤサコなんかに簡単にやられるかよ。安心しとけ」
     返信が来たのと一緒に、目の前のやぶの陰からガチャギリの姿が現れた。
    「おい!」
     私は思わず声をかけた。
     メガネの一部がブラックアウトしていた。予期していたより深刻なダメージだ。
    「ああ、これか」
     しかしガチャギリは黒く変わった部分を指でもてあそびながら答えた。
    「何でもねえ……ってわけでもねえけど、行けるところまで行くさ」
    「バカ、戻れ。なんならリタイヤしても構わない。戦い続けたらメガネを壊しかねないぞ」
    「かまわねえよ、メガネの1個やそこら。バックアップを取ってねえ俺だと思うか? 修理代だって、これまでお前にもうけさせてもらった分がある」
     まったく普段のガチャギリらしくない答えは、私を当惑させた。
    「お前、どうした? 熱でもあるんじゃないのか」
    「おかしいか」
     ガチャギリは歯を見せて笑ったかと思うと、急に真剣な表情なって声を潜めた。
    「だがな、俺に言わせりゃおかしいのはお前のほうだ。どうしてそう突っ走る?」
    「突っ走るだと?」
    「ああ」
     帽子の縁を押さえて深くかぶり直しながら、ガチャギリはうなずいた。
    「ダイチのバカはさ、あいつバカなんだが、まあバカはバカなりにっつうか、いや、バカだからこそ、お前の意図の斜め上を突っ走ったりするんだよな。それがある意味、お前の抑えにもなってたんだ」
    「抑え?」
     話の見えない私は、ガチャギリの言葉を間抜けに繰り返した。
    「そうだ。俺なんかから見てるとな、お前は放っておくと、ひとりで抱えきれないものをどんどん背負いこんでいっちまうみたいで」
    「よくわからない」
     正直に答えると、
    「わからねえのがお前の長所かもな」
     ガチャギリは再び笑う。とその時、ナメッチが姿を見せた。
    「3人そろったぜ。行こうか」
     話の中身を理解したとはいえないが、ガチャギリにはガチャギリなりの決意のようなものがあって、私には覆せないらしかった。私は黙ってうなずくと、フィールドの向こうに目をやった。

     3人で進み始めてほんの2、3分か、敵の姿を最初に見つけたのはナメッチだ。
    「まっすぐ前、ヤサコっす! 気をつけて」
     私たちは身を伏せた。ヤサコはまだこっちに気づいてないらしく、攻撃は飛んでこない。
    「ヤサコがいるってことは、近くにあのタケルって野郎も隠れてるな。ダイチとフミエ、それにハラケンの位置はわかるか?」
     ガチャギリがナメッチに聞いた。
    「ダイチたちはしばらく前に拠点のほうに向かうのを見たっすけど、今はどうだか。ハラケンは全然っすね」
     ふたりの視線がこっちを向くより先に、私は首を振った。
    「私にもわからない」
    「どうする? このままヤサコに突っ込むか?」
     ガチャギリが目を光らせた。
    「囮かもしれないっすよ」
     ナメッチが渋い顔をする。
    「だが、そうじゃなきゃチャンスだ。ヤサコのやつ、攻撃力は高くても防御は前とたいして変わらないみたいだからな」
     ガチャギリは言いつのる。しかし、そういうヤサコだからこそ囮に仕立てやすいとも考えられる。
     私はガチャギリの顔を見た。心なしか、ディスプレイの稼働領域が狭くなっている気がする。こいつは、こんなになってまで私を助けようとしてくれた。
    「攻撃はしない」
     だから、私はそう答えた。
    「ここで無茶をしても敵の思うつぼだ。戻って作戦を練り直す」
    「俺のことを思ってか」
     ガチャギリは不満そうにつぶやいた。
    「そうさ」
     私は笑って見せた。
    「お前は戦力だからな。危険を冒して戦うより、少しでもメガネを直して、もっと役に立ってくれ」
    「人使いが荒れえな」
     ガチャギリは立ち上がって背中を向けた。その背中に宿った感情を、幼い私は読み取ることができない。だからすぐ後を追おうとした。
    「イサコ!」
     名前を呼ばれるのと同時に景色が転がった。視界をよぎる誰かの手。赤い光。背中に衝撃を感じて一瞬直撃かと焦ったが、すぐ土の上に横倒しになったのだと気づいた。
     ばん、と嫌な音がした。すぐ近くで誰かのメガネが壊れたのだ。続けてまた光。私は半ば反射的に、鉄壁を何枚か展開した。
     ナメッチが腰を落とした姿勢で駆け寄ってくる。顔のメガネは傷ついたようには見えない。ならば。
    「すまねえな」
     ガチャギリは真っ黒になったメガネを外した。
    「役に立てなかったみてえだ」
    「謝るのはこっちだ。私を助けて自分のメガネを」
    「まあ気にするな。かたき討ちは頼んだぜ」
    「ああ」
     その場を去っていくガチャギリに、多くは答えられなかった。もちろん乱戦が始まっていたこともあるし、それに私は唐突にあることに気がついたのだ。
     鉄壁に隠れて私は暗号を撃ちまくった。ヤサコと思しき正面の相手はわずかにひるみ、しかしその後で前に倍する攻撃をかけてきた。側面からも新手の敵が加わる。ダイチだ。
    「ひええ」
     ナメッチは情けない悲鳴を上げながらも、どんどん破られる鉄壁を補充し、隙があれば攻撃し、しかも意外と的確に敵の位置を捉えている。
     ダイチのミサイルが着弾した瞬間、私は声をかけた。
    「ええっ!? 何すかあ!」
     聞き返すのには答えず、私は暗号を撃った。

    電脳コイル〈3.00〉 -第15話 空中楼閣の決戦(後編)-

    C part

     ドームの中のほとんどが電脳だけでできているというのは、戦いにいつもと違う効果を付け加えていた。木や草、建物のような障害物が、攻撃によって消滅してしまうのだ。敵から丸見えでは身を守れないから、本格的な撃ち合いが始まると、戦いはお互いに移動しながらのものになった。それが、チームワークに優れた黒客にはプラスに、実戦慣れしてない私たちにはマイナスに働いた。
    「黒客のやつら、どこにいるんだ。ヤサコ、見える?」
     木陰から向こうをのぞいていたタケル君が振り返った。私は首を左右に振った。
    「ごめん、私にもわからない」
     私たちが今相手にしているのは多分、イサコ以外の黒客全員。多分というのはそのはっきりした人数すら私たちには把握できていないからだ。
    「イサコはカンナを倒した後、ダイチたちと交戦中。ハラケンからその後連絡は?」
     私は再び首を振らざるを得ない。
    「まだ来ない」
     すぐ来ると言ったはずのハラケンは、待てど暮らせど到着しなかった。その間に戦局は少しずつ悪化している。
     草の間から顔をのぞかせると、傾きかけた太陽の光が目に飛び込んで、私は思わず手をかざした。
    「ヤサコ、危ない!」
     タケル君の手が腕を引っ張った。間一髪、あおむけに倒れた頭の上をミサイルが通過する。すぐ後ろで爆発音が起きた。
    「クソ!」
     タケル君が暗号を放つ。草陰から放たれたレンガ壁がそれを防いで四散した。乱れる空間の向こうに、腰をかがめて走り抜けるナメッチの姿がわずかに見えた。
    「黒客のやつら、ばらばらに分かれて連絡を取りながら進んでるな。このままじゃ、包囲するはずが逆にされることになる」
    「移動しましょ」
     私はタケル君のすそを引いた。
    「今のでここの位置もはっきりばれちゃったわ。集中攻撃を受ける前に他の場所へ」
    「うん」
     私たちはなるべく草深い方に向かって、並んで進み始めた。

    「予想外に苦しい戦いになったな」
     私たちから見て右手、つまりフィールドの東側に向かって進むと、草の丈が高くなり、その中にぽつぽつと、土を固めた粗末な壁の残骸が見え始めた。古い町の遺構か何かを気取ったものだろうか。あんまり気持ちのいい場所じゃないけど、隠れ場所には適していた。
     うまくふたりの全身を隠してしまえる壁の裏手に腰を降ろして、私は味方に現在位置をメールしていた。単調なキーをたたく仕種を繰り返しながら、心は歯噛みしたいような焦りと、でもそうしたらいいのかわからない不安でねじくれていた。きっとタケル君も同じことを考えているはずで、でもそれを言葉に出そうとすれば不満のぶつけあいになってしまいそうだから、メールを送った後も、私はしばらく変わり映えのない送信履歴を眺めていた。タケル君の言葉はそんな時のものだったから、私の返事はいくらか強張っていた。
    「ごめん。私の戦い方が下手で」
     私が手に入れた「暗号」は、威力だけならメガビーはもちろん、黒客のミサイルとさえ比べ物にならない。うまく使えば、イサコとだって互角の勝負が望めるほどだ。けれど、こんな時ものをいうのが単純な攻撃力だけじゃないということを、私は身をもって思い知らされていた。
    「いや、別にヤサコを責めてるわけじゃないんだ」
     タケル君は慌てて手を振った。
    「戦い方っていうなら、僕だってさっぱりだよ。電脳戦なんて知識だけで、これまで1回も体験したことがなかったから。やっぱり頭だけじゃダメだね」
    「あら、タケル君って、こういうの初めてだったの」
     私は少し驚いて聞いた。宗助さんの弟だというのもあって、てっきり実戦経験豊富なのだろうと思っていたのだ。
    「うん。残念ながら」
     私の言葉の中にいくらかの失望感が混じっていたことを敏感に察したのだろうか。タケル君は苦笑して頭を下げた。
    「電脳クラブへの参加は、そもそも兄ちゃんから禁じられていたからね。父ちゃんがコイルスで技師を務めていたから、スキルだけは手に入れたけど」
    「そうだったの。あなたの暗号もお父さんから教わったの」
    「それはちょっと違うな」
     タケル君は寂しそうに首を振った。
    「まず、僕の使ってるのは暗号じゃない。それに似た力を複製した消耗品だよ」
     タケル君はポシェットを探ると、小さなカードのようなものをいくつか取り出した。
    「これを電脳体に埋め込んで使うんだ。君たちのメタタグみたいなもんだね。前にも言ったけど、暗号を体得できるかどうかは体質的なもの。僕も兄ちゃんも無理だった。その意味では、ヤサコがちょっとうらやましいな」
     笑顔がなおさらに寂しげだった。
    「後ね、父ちゃんから『教わった』っていうのも、本当は違うんだ。僕がまだ小さい頃、父ちゃんはいなくなってしまったから」
    「いなくなった!?」
    「うん。6年前、メガマスがコイルスを買収したろ。同じ頃に、父ちゃんは失踪した。いまだに行方がわからないんだ」
    「ごめんなさい」
     自分の質問のうかつさに気がついた私は頭を下げた。
    「思い出したくないことだったでしょ」
    「いいんだ、僕が話したいから話してるだけだよ」
     タケル君の視線は懐かしい昔とも遠い将来ともつかないどこかを見つめていた。
    「僕は父ちゃんの残した技術を調べて、そこから失踪の原因と、できるなら今の父ちゃんの居場所をつかみたいと思ってる。実をいうと君たちに暗号のスキルを伝えたのも、誰かが暗号を獲得することで、新しい手がかりが見つからないかと考えたからなんだ」
     タケル君は私に向き直った。
    「僕のほうこそ、ヤサコを僕の目的に巻き込んでしまってすまないと思ってる」
    「そんなことない。暗号のことはすごく感謝してるわ」
     私もまっすぐ、タケル君のほうを向いた。
    「それより、お父さんの話、何かできることがあったら私たちも協力する。うちのオジジ、えっと、だから私の父方のお祖父さんなんだけど、けっこう有名な電脳技術者だったのよ」
    「うん。それは兄ちゃんからも聞いてる」
    「あっ、そうか」
     言われてみれば宗助さんは探偵局の会員なんだから、知らないわけがない。
    「あら? でも、宗助さんからは今のお父さんの話、1度も聞いてないわ」
    「だろうね」
     タケル君は両手を膝の上で握りしめた。
    「兄ちゃんは今、空間管理室にいる。父ちゃんを失踪に追いやったメガマスの側にだ。おまけにそこで、父ちゃんの設計した実験空間の痕跡を抹消しようとしてるんだ」
    「実験空間って?」
    「都市伝説で”あっち”って呼ばれてる空間があるだろ。僕は確かめたことがないからわからないけど、きっとそれだと思ってる」
    「”あっち”!?」
    「ヤサコ」
     タケル君はいぶかしそうに眉根を寄せた。
    「何か知ってるの」
    「わからない。わからないけど、現実とは違う空間を見たことはある。古い空間の奥で……」
    「それだ!」
     タケル君は私の肩をつかんだ。
    「『古い空間』って呼ばれてるものは、元々コイルスが整備して、メガマスに更新されてない空間のことなんだ。父ちゃんの実験空間は、当然古い空間のどこかに隠されているはずだ」
    「ま、待って」
     頭の中に様々な出来事が行き来する。夕映えの世界、ミチコさんの噂、お姉ちゃんのこと、それに――
    「イリーガルは? イリーガルって、”あっち”で生まれたものでしょ。それもあなたのお父さんの作ったものと関わりがあるの?」
    「いや」
     タケル君は私から手を離して、両腕を組んだ。
    「それは違うはずだ。僕の調べた限り、”あっち”にオートマトンを置いた形跡はないんだ。そんなものがいつの間にできたのか、あるいは実験空間が根本的な変異を起こしたのか」
    「もしかすると、宗助さんは”あっち”がお父さんの作った空間とは違う、危険なものになってしまったから、それを封じ込めようとしてるのかしら」
    「違うよ、そんなの!」
     タケル君は叫んで、その後ではっと気づいて自分の口を覆った。その後に小声で続けて、
    「違う。違わないにしても間違ってる。わけもわからずに危険だから消してしまおうなんて乱暴だ。メガマスはこのことを公表して、社外の力も借りて調査すべきだ。そうすれば、父ちゃんだってきっと戻ってくる」
     最後のほうには声が歪んでいた。
    「タケル君――」
     どう言っていいかわからず私がつぶやいた時、隠れていた土壁の一部がぱっと光って崩壊した。
    「しまった、気づかれた」
     今できたばかりの裂け目から私は身を乗り出した。隠れる誰かの頭がちらりと映る。瞬間、目の前の空気が凝る感触があった。意識の流れに逆らわず、眼前の空間に力を集中して、一気に放つ。赤い光が草むらの陰に飛んだ。
    「げっ!?」
     悲鳴でガチャギリ君だとわかった。メガネを壊すほどではなくとも、かなりのダメージを与えるのには成功したらしい。もう一撃と行きたかったけれど、盛んな反撃が始まったので、鉄壁を投げてから身を隠した。
    「ヤサコ、今の」
     タケル君が目を丸くして私を見ている。
    「ふふ、やるでしょ。たまには」
    「それより、手も使わずに暗号を撃つなんて」
    「え、暗号ってそれくらい普通なんじゃない? イサコだってやってるし」
     私はそれが不自然だとは思っていなかったから、タケル君の驚きのほうが理解できなかった。
    「違う。僕の教えたのは、手の上に暗号を作り出す、後はその投擲だ。それは、暗号生成プログラムを埋め込むことで、本来いちいちプログラミングが必要な事項を特定の動作で代用するものなんだ。それを君は、何もない空間の上で行った」
    「よくわからないけど、ショートカットをさらにショート化したみたいなもの?」
     激しい敵の攻撃で鉄壁が赤く溶けかけている。私は腰を浮かせながら聞いた。
    「それどころの話じゃないよ。だってそれは、空間を自在に操ってるようなものだ。待てよ、ひょっとして、父ちゃんのノートにあった、意思と空間の直接接合……」
     焼けただれた鉄壁が崩れた。
    「ごめんタケル君、その話は後にしましょ」
     手近な隠れ場所はと見ると、太い幹の古木と、物置小屋が目についた。
    「私たちもふた手に分かれたほうがいいわ。私があの木の後ろに行く。タケル君は小屋の裏に回って」
    「わ、わかった」
     タケル君は私を追って立ち上がった。すぐにも駆け出そうとすると、タケル君の手が肩にかかる。
    「待って、ヤサコ」
    「何?」
    「必ず勝とう。それで、勝ったら暗号もパスワードも、僕に預けてくれないか。フォーマットの目をかいくぐる方法があるんだ」
    「わかったわ。約束する」
     私は手を差し出した。タケル君はちょっと照れたように服の裾でごしごし手をぬぐって、その後でふたりは握手を交わした。

    電脳コイル〈3.00〉 -第15話 空中楼閣の決戦(後編)-

    B part

    「すごい! いけるわ」
     カンナが興奮した声を上げた。上気して朱の乗ったほおがきれいだ。と、つい余計なことを考えてしまうのを、僕は頭を振った。
     目前で予想もしていなかった光景が展開されていた。イサコが押されている。
    「研一、何やってるの。援護射撃!」
     カンナが背中をたたく。そんなことをいうなら自分で攻撃すればいいとも思うのだが、カンナは今回、後方支援係の意味合いが強く、メンテナンスキットばかり買いこんでいたから、メガビーは最低限しか持っていないのだろう。
    「う、うん」
     僕はメガビーを撃った。面白いように当たる。ヤサコとタケルの攻撃に手いっぱいのイサコは、僕の攻撃にはほとんど無防備だ。
    「ほら、もっと。もうちょっとでイサコちゃんを倒せるわ」
    「わかってるよ」
     メールを打ちながら僕は答えた。
    「わかってるならメールなんか後にしてよ」
     カンナは口を尖らす。
    「そうも行かないさ。今は僕よりもヤサコのほうが攻撃力が高い。イサコの正確な位置をヤサコに伝えるのが先だ」
    「そんなものかしら」
    「そんなもんだよ」
     メールを送り、僕はもう1度イサコを見た。
     イサコはぎりぎりのところで暗号攻撃を防いでいた。黒客は援軍を出そうとするはずだが、ダイチとフミエががんばっているせいで、今のところ前進は難しい。
    「膠着してるな。手を打たないとまずい」
     僕はカンナを振り返った。
    「そう? かなりこっちが有利に見えるけど」
     カンナは首を傾げる。
    「今はね。だけど、もうすぐ黒客が攻めてくるだろう。イサコを失ったら一気に不利になることくらいわかってるだろうからね。そうしたら、ダイチとフミエのラインが危ない」
     僕が言った途端、黒客のほうから数発の暗号が飛んできた。ここまでは届かなかったけれど、カンナはびくっと首をすくめた。
    「いくらヤサコが暗号を使えるようになったっていっても、急ごしらえなことは否めない。次の一手を考えないと」
    「何か作戦があるの」
    「ああ」
     僕は強くうなずいた。
    「まずダイチとフミエを後退させる」
    「えっ!? どうして。せっかくイサコちゃんを倒せそうなのに」
    「イサコを倒すより黒客の攻勢のほうが早いはずだ。みすみすダイチとフミエを失うより先に、ふたりを退かせる」
    「それで」
     カンナは納得いかない表情だったが、とにかく先を促した。
    「ダイチのラインが消えれば、黒客は必ず前進してイサコと合流する。そこが狙い目さ」
    「狙い目って?」
    「1ヶ所に集まった黒客が反撃を始める前に、僕たちが周りを囲んでしまうんだ。包囲戦ほど防御側に不利な戦いはない。いくら黒客の火力が高くても、それを有効に使う前に倒すことができる」
    「ふうん」
     カンナはわかったようなわからないような顔でうなずいた。
    「僕のほうが実戦経験が長いんだから、その辺はまかせてくれ」
    「いいけど――」
    「よし」
     カンナが不満を口にする前に、僕は作戦をメールした。

     僕の送った作戦はこうだ。
     まず、ダイチとフミエは左後方、僕たちとは反対の、今ヤサコのいる側へ後退する。同時にヤサコはイサコの正面へ移動し、タケルと合流する。さっきカンナに語ったとおり、イサコは真後ろへ移動を始めるだろうし、黒客は前進してイサコを助けようとするだろう。結果として、黒客は正面にヤサコとタケル、両側面にダイチたちと僕ら、3方に敵を抱えて包囲される形になる。
     素早くメールで打ち合わせた結果、ダイチとフミエが最初反対したが、そのふたりが挟み撃ちに遭うのを危惧したヤサコが僕に賛成し、タケルもヤサコに同調したため、作戦は決行されることになった。
    「移動しよう」
     ヤサコが攻撃を止めたのを確かめて、僕はカンナの手を取った。カンナは何も言わず、僕の手をつかみ返した。少し汗ばんだ、柔らかい手のひらの感じだった。
    「暑い?」
    「ちょっとだけ」
     ここに集まった時には東の山並みから姿を現したばかりだった太陽は、いつの間にか中天からの木漏れ日となって僕たちを照らしていた。ホールの内部では実際よりも時間の進行が早いことに、僕はその時ようやく気がついた。
     陽の当たり具合でグラデーションとなって移り変わる緑の中を、カンナの手を握ったままで走り抜ける。足取りは軽い。戦いの緊張感さえいつの間にか快い刺激に変わり、昂揚した充足感が僕を満たしていた。カンナもそうだったに違いない。手と手を通じて、僕たちはこの昂ぶった気持ちを共有していた。
    「大丈夫だ」
     何が、とも聞かずにカンナはうなずいた。
    「僕と一緒に行こう」
     根拠もなしに、全てがうまくいくような気がしていた。あるいは今僕が感じている世界が既に僕の願ったことそのもので、僕とカンナはいつまでもこうしてふたりで走り続けているのかもしれなかった。
     だが、それはもちろん僕の妄想だ。そう知らせてくれるおせっかいな現実は、唐突に僕たちの前に現れた。
    「また会ったな」
     声は、僕たちのすぐ後ろから聞こえた。
    「イサコちゃん!」
     カンナの声が応じ、手が離れた。と思った瞬間、温かいものが背中を押す。
     2、3歩つんのめった僕が振り返ると、カンナは両手を大の字に広げてイサコに立ちはだかっていた。
    「何のつもりだ、カンナ」
     冷静なイサコの言葉の裏に秘められた感情は、僕にも読み取れた。だから、カンナの答えには嬉しさというよりも痛々しさが先に立った。
    「私は研一を守る」
     思ったとおり、イサコの表情にははっきりと傷ついた色が現れた。だが、すぐにそれを覆い隠す強い言葉で、
    「お前には守れない」
     イサコの手に暗号が輝くのを見ると、今度はカンナがひるんだ。
    「お前がいくら望んでも、力の差は歴然だ。つまらない怪我をする前に降参しろ」
    「い、イヤよ!」
     むきになって言い返すカンナを無視して、イサコは僕を見た。
    「ハラケン、お前から説得してくれ。カンナを傷つけたくはないだろう」
    「カンナ、もういい」
     僕は素直にイサコの言うとおりにした。
    「もういい? それ、どういう意味」
    「言わなくたってわかるだろ。カンナの気持ちは十分わかった。イサコには勝てない。降伏してくれ。後は僕たちでなんとかする」
     それでカンナは僕に従ってくれるだろうと思っていた。僕とカンナはお互いをすっかりわかりきっているものと、だからカンナは僕の意を汲んでくれるに違いないと。
     それはやはり、僕の、いわば傲慢な気持ちだったのだろうか。
     カンナは答えなかった。黙って僕を見つめ、僕はだから今の言葉がカンナを傷つけたのかと一瞬たじろいだ。だがそれは誤りだとすぐに知れた。カンナの表情には、子供のような疑問が浮かんでいたのだ。それに答えるすべどころか、カンナの感じた疑問が何だったのかすら、僕には理解できなかった。
     僕が戸惑っている間に、カンナの顔から疑問の風は引いた。
    「研一、あなたの気持ちはわかった」
    「それじゃ、降伏してくれるのか」
     カンナは笑って、けれど首を横に振った。
    「おかしいのね。私は研一が好きで、研一も私が好きなのに、気持ちが一方通行になっちゃうこともあるんだから」
    「え?」
    「イサコちゃん。私、やっぱり戦うわ」
     イサコはメガビーを構えたカンナをにらんだ。
    「やめろ、カンナ」
    「やめない」
     短い答えと同時にカンナはメガビーを撃った。が、イサコの暗号が一瞬早く光線を止める。
    「さすがイサコちゃん。やるわね」
     メガビーを止めたカンナは姿勢を低くしてカンシャクを投げつける。イサコは鉄壁で攻撃を防ぎながら言う。
    「カンナ、最後の警告だ。攻撃をやめろ。やめないならお前のメガネを壊す」
    「望むところよ」
     カンナは再びメガビーを構えた。
    「カンナ!」
     叫んだのは僕かイサコか、それともふたり同時か。
     ぱっと光が流れた。流れたというのは本当に碧い閃きが水のように流れ、僕はきれいだとすら思ってしまった。でも流れとは流れて消えるもので、たとえ流れが悠久の昔から存在しても、瞬間瞬間に流れ下るそのものはほんのわずかなきらめきにすぎない。だから僕がきれいだと思った根底は、悲鳴のような僕の寂しさだったのだ。
     視界が暗転し、再び明るくなった時、困ったみたいな顔でほほえむカンナがいた。
    「ごめん研一、負けちゃった」
     カンナの手の上には煙を上げるメガネが乗っていた。
    「痛ぶりたくはない。だから1度で片を付けた」
     うつむいたイサコの表情は見えなかった。
    「メガネは完全に破壊した。修理には時間がかかるだろう」
     心臓がどくんと鳴った。
    「ハラケン、次はお前だ」
     だが、失策を反省するゆとりもなく、イサコの瞳の縁が輝いた。攻撃が来る! 間一髪、僕はその場を飛びのいた。
    「研一、逃げて!」
     破壊された空間のノイズに混じって、カンナの声が聞こえる。用意しておいた鉄壁を数枚投げつけて、僕は駆け出した。
    「何だ、これは!?」
     イサコの声。鉄壁は対暗号用に特化したものだ。そう簡単には破れない。逃げ切ることはできるだろう。
     だが、カンナのメガネを壊されたのは痛恨のミスだった。誤算を取り戻す方法を、なんとか考え出さなくてはならない。
     かなり長い間走り続け、気がつくと、ヤサコから通信が入っていた。
    「ハラケン、今どこにいるの? イサコはどこ?」
     自分の場所を確かめると、フィールドのかなりはずれまで来ていることがわかった。僕はヤサコに、自分の位置情報とカンナが脱落したことを伝えた。
    「そう、カンナが。残念だったわ。私たちは――」
     ざっとノイズが入って通信が乱れる。
    「ヤサコ?」
     激しい雑音が散発的に響いた。それに隠れて誰かの叫ぶ声が聞こえるが、誰なのか、まして何を言っているかはわからない。
    「どうしたんだ、ヤサコ!」
     遠くに赤い光が走った。ヤサコの暗号だ。と、今度は大きな爆発が立て続けに3回。見事な枝を張った桜の木が根元から倒れて、花の代わりに記号の欠片を散らした。
     唐突に通信のノイズが切れた。
    「こちらタケル。黒客主力と交戦中! こっちは僕とヤサコしかいない。援軍を頼む」
     黒板を引っかいたような高音が走って通信が切れた。
    「すぐ行く!」
     僕は走り出した。
     カンナのことは一旦忘れなくてはならない。今この戦いが、僕の力を必要としていた。

    電脳コイル〈3.00〉 -第15話 空中楼閣の決戦(後編)-


     母によると、小さい頃の私は、とろいわりに時々信じられないことをやらかしたそうです。

    A part

     違和感に気づいたのは走り出した後だったから、今さら強襲を中止するわけにはいかなかった。だが放っておけば必ず痛みが来る。私はトップギアに入ろうとしていた身体の運動をわずかに留め、できた余裕で自分の体の感じを探った。
     痛みが来るのは胸か、頭か。胸だったらまずい。走れなくなる。頭痛なら、これまでの経験上、なんとか耐えて戦いを続けられるはずだった。
     幸い、だったのかどうか、兆候に身を固めた次の瞬間、針で突かれるような鋭い頭痛が襲った。
    「くっ」
    「イサコ、どうした? 攻撃か」
    「違う。つまずいただけだ」
     ついよろめいてしまったのを気合で立て直す。
    「気をつけて! 敵が来てます」
     前を見ていたアキラが叫んだ。私は痛む頭を右手で握りつぶすほどにつかみ、左右に目をやった。
     目標、敵拠点までの道のりの3分の2を、私たちは走り切った。少々不足だが仕方ない、後は押し込むか。
    「戦闘開始だ、散れ」
     指令を受けてそれぞれが手近な物影に飛び込む。私も目の前の小屋の壁に身をそわせた。
     拠点までの大体30メートルに、障害物は多い。6人の敵がどこに潜んでいるのか、簡単にはわからない。
     自分では冷静なつもりだが、やはり身体は興奮しているのか、脈がやけに大きく響いた。が、逆に頭痛のほうは退いていく。よし。
     私は小屋から身をひるがえし全身をさらし、敵のいそうな場所めがけて暗号を数発打ち込んだ。わざとひと呼吸その場で待ち、息を吐いたタイミングで少し前の小屋に隠れる。一瞬遅れていくつかの光の筋が、さっき私の射た場所を貫いた。そっとうかがうと、前方の土の盛り上がりの向こうに栗色の髪の揺れるのがわずかに見えた。
    「ヤサコの位置を確認した。集中砲火を浴びせろ」
     メッセージと地図を送ると、間髪入れず黒客の攻撃が始まった。ヤサコの隠れた土山は激しく乱れて、やがてばらばらの記号に砕け始めた。泡を食って背中を見せるヤサコの姿が、今度ははっきりと視界に入った。
    「お前が1番とは幸先がいい」
     破壊力の高い暗号を精製し、その背中に狙いをつける。初速を上げるための暗号エンジンが、まっすぐ伸ばした手の先に4個展開した。
    「消えろ!」
     無意識に転がり出た自分の言葉に驚く暇もなく、暗号の弾丸がヤサコの背に伸びる。もらったと思った瞬間、ヤサコの目がこちらを見た。握られていた手がぱっと開き、鉄壁がヤサコの身を隠す。直後に暗号が着弾した。壁は暗号に耐え切れず、赤熱しながらまっぷたつに裂け、弾け飛んだ。
    「ヤサコは!?」
     だが確認する余裕はなかった。ヤサコのいた場所より少し前から、猛烈な攻撃が始まった。フミエとダイチか。
     味方もすかさず撃ち返す。敵味方とも遮蔽物に身を隠したまま、激しい撃ち合いが始まった。
     私はあえて攻防に加わらず、道順を探った。ここで無駄な銃撃に戦線を膠着させるつもりはない。こういう時の常道として、敵に見つからぬよう単独で肉薄し、奇襲をかける。
     強襲がホールの中央をやや迂回した形で行われた結果、電脳の銃撃戦が一番激しい地帯はやや端に寄った。この状態なら、手薄なのはむしろホール中心部、敵拠点の真ん前だ。心理的にも、正面からの奇襲攻撃は予測しづらいだろう。
     作戦は決まった。私は身をかがめ、隠れ場所を探しながらゆっくりと移動し始めた。
     5分ほどかかって道のりを半ばまで進んでも、撃ち合いは全く勢いを弱めなかった。緒戦だからお互いに勢いってものがあるのはわかるけど、少し撃ちすぎだな。短期に勝負をつけるつもりではあるが、無駄弾は避けたいところだ。急がなくては。
     次の物影に移ろうとした時、予想外に近距離で誰かが動いた。私はもう動き出していた体を押し留め、息を止めてそっちをうかがった。
     ダイチ、フミエの位置は把握してる。ヤサコもさっきの場所から大きく移動できてないはずだ。ハラケンと、一緒にいるだろうカンナの位置は特定できてないが、メガビーの弾幕の厚さから考えて、攻撃に加わっているのは確かだ。
     ならば目の前にいる相手はひとり。猫目タケルだ。
    「ちょうどいい」
     探偵局の中で唯一実力のわからない相手を量るチャンスだ。込み上げる緊張感は、私にとってむしろ心地良い。
     じゃり、と足音がした。わずかに頭を伸ばすと、真横5メートルくらいを黒客の拠点に向けて進むタケルの姿がはっきりと見えた。
     タケルは私と同じく、迂回攻撃を考えているようだ。このまま行かせれば、ガチャギリたちが十字砲火にあう。
     私は手の中に暗号を作り上げた。さっきヤサコを攻撃したものと比べるとやや弱いが、ぐずぐずしていればタケルの姿が視界から消えてしまう。狙いを定め、私は暗号を撃った。
    「わあっ」
     タケルの横腹で何かが赤く輝いた。タケルは慌てて手近な物影に飛び込み、そのまま足音が遠ざかった。
    「なんだ、今のは」
     戦いの渦中にもかかわらず、私はしばらく動けなかった。
     暗号は確かにタケルに命中した。だが、その体で光ったものは私の知らないものだ。もしかして、私やお兄ちゃんの使っているのとは違う、未知の暗号?
    「目標を変更する。タケルを追うわ」
     私はお兄ちゃんに通信を送った。やはり、タケルは何かの能力を隠している。どんな力を持つかこの目で確かめるか、あるいは力を発揮する前に倒してしまわなければならない。
     今の攻撃でもうこっちの位置は割れている。さっきより大胆に、私はタケルの逃げたほうへ進み始めた。
     銃撃戦はまだ続いているが、ガチャギリたちがやや優勢に前進を始めていた。探偵局のほうは弾切れか、反撃が弱まっている。やはり、探偵局の通常戦力はさほどの脅威ではない。タケルさえ倒せば――
     タケルのことばかり考えて、私は体をさらしすぎたようだった。左前方に小さな光が見え、次の瞬間衝撃を感じた。
    「ちっ」
     私はすぐそばの立ち木の影に身を滑らせた。メガビーだ。ダメージは大したことない。
     ダイチたちはガチャとの交戦で手いっぱいだ。とすればヤサコ、それともハラケンか。
    「足止めを食らってる暇はないな」
     ぐずぐずしていればタケルに逃げられる。ならば。
     私は圧縮しておいた剣を取り出した。さらにミニサイズの鉄壁をひとつ、目の前に浮かべる。弱い暗号を作って、メガビーの発射地点に投げ込むと、同時に全力で駆け出した。強襲突撃だ。
     断続的にメガビーの攻撃を浴びたが、鉄壁を操って受け止め、なんなく近づいた。相手の隠れた背の低い木立を剣で横になぐ。木々はあっという間に記号のかたまりになって霧消した。その向こうで、声もなく地面に伏せたのはハラケンとカンナだった。
    「お前たちか……。降伏しろ」
     ハラケンはともかく、カンナを傷つけたくはない。
     ふたりは無言で私を振り返った。
    「聞こえなかったのか。メガネを壊されたくなければ降伏しろ」
    「イヤ」
     答えたのがカンナだったので、私は驚いた。カンナはゆっくりと、庇うようにハラケンの前に立った。
    「カンナ、どいてくれ。今の私たちは敵同士だ」
    「イサコちゃんこそ、敵なんだから私を撃ったら」
    「バカを言うな。お前を傷つけたくない」
     カンナは泣きそうな目で私をにらんだ。
    「私は違う」
     私は言葉に詰まった。
    「私は研一を守る。そのために必要ならイサコちゃん、あなたを傷つける」
    「カンナ――」
     傷つける、という言葉が頭の中で何度もこだました。
     今度もそうだ。
     私は戦いたくないのに。カンナと一緒にいたいのに。私の思いはいつも伝わらない。カンナだって、お兄ちゃんだって、お姉ちゃんだって――
     ハラケンの手が動いて、私は我に帰った。慌てて壁を動かしたのと同時にぱんと音が響き、猛烈な煙が視界を閉ざす。
    「クソッ、目くらましか」
    「イサコ、何やってんだ。お前の姿、敵から丸見えだぞ」
     ガチャギリから通信が入った。私は身を伏せた。
    「すまない。ハラケンたちを見つけた。位置を知らせる」
    「ラジャーっす。でも、こっちもヤサコを見失いました。気をつけてください」
    「わかった」
     ナメッチの応答に短く返信して、私は小走りに進んだ。ハラケンの姿は前方に見え隠れしている。おそらくタケルと連携しているのだろう。
     さっきの動きからいって、タケルは恐らく私の右手に潜んでいるに違いない。妙にこっちに姿をさらしているところからすると、ハラケンが囮になって私の不用意な攻撃を誘い、タケルに攻撃させる作戦だな。
     そうは行くか。私はあえてハラケンに攻撃せず、影から影へと、右に向かって移動した。ハラケンはこの際無視していい。当初の目的どおり、あくまでもタケルを追う。
    「早く尻尾を見せろ」
     口の中でつぶやきながら側面移動を続ける。ハラケンから断続的な攻撃があったが、私を見失ったようだ、見当外れの方角を向いている。
     かなり右手に移動したと感じた時、草陰にシャツの端が見えた。
    「いた」
     タケルは私に気づかず、ハラケンの攻撃するほうを注視している。チャンスだ。
    「今度は逃がさないぞ」
     剣をしまい、強力な暗号を精製する。さらに追加のエンジンを組み込んだバレルを伸ばし、貫通力を強化する。トリガー発射式の、言うなれば暗号狙撃銃だ。
     タケルを仕留めれば後は烏合の衆、この一撃は今日の勝敗に重要な意味を持つ。私は身を伏せ、狙いを定めた。
     タケルはわずかずつ動いている。
    「もう少しだ。もう少し姿を見せろ」
     もうちょっとでタケルの姿が完全な射程に入る。白いシャツはもうはっきりと見える。さらに髪。そして顔。指がトリガーにかかった。
     タケルの顔がこっちを向いて、笑った。
    「何!?」
     全身の体温が下がった。気づかれてる! 慌ててトリガーを引く。
     どん、と腹に響く発射音がして、しかしタケルは飛びすさった。同時にすぐ近くで着弾音が3つ。胸に強烈な痛みが走った。
    「しまった!」
     伏せ撃ちの体勢を取っていた私は、とっさの動きができなかった。鉄壁を目の前に作るのが精いっぱい。
     再び着弾があった。今度はふたつ。幸い体には当たらなかったが、狙撃銃がばらばらに吹き飛んだ。
    「タケルじゃない」
     ようやく私は気がついた。攻撃は正面のタケルからではなく、ハラケンのいる方角からでもない。まさか、ヤサコ!?
     新手の攻撃は、短いスパンで続く。狙いは正確ではなく、周りの空間が次々に乱れた。
     私はなんとか立ち上がり、ヤサコのいそうな辺りに暗号を放ちながら後退を始めた。が、それはかなり難しかった。
     タケルが反撃を始め、私は十字砲火にさらされていた。鉄壁を何枚用意しても、強烈な攻撃ですぐ溶解してしまう。さらに、ハラケンからのメガビーも私の足を鈍らせた。ヤサコとタケルへの応戦に追われて、ハラケンの攻撃にはほとんど対処している暇がない。威力は大きくないが、時々メガビーの直撃を受け、じわじわと耐久力を削り取られた。
     不用意、うかつ、後悔の言葉ばかりが心に浮かびあがる。バカ、そんなこと後でいくらでも反省できる。それより、今ここを切り抜ける方法だ、それを考えなくちゃ。
     だが、名案は何ひとつ思い浮かばない。
     絶体絶命。そうとしか言えなかった。

    電脳コイル〈3.00〉 -第14話 空中楼閣の決戦(前編)-

    E part

     一夜明ければ雌雄を分かつ決戦の朝である。だからといってことに早起きしたりもなく、いつもどおりの朝を過ごしてから、そこだけいつもと違って、お兄ちゃんと私は一緒に家を出た。
     今となってはお兄ちゃんの存在を秘密にしておく意味もなくなったから、これまで屋外で会うことを避けてきたのももう解禁だ。そう思うと晴れがましい気分にさえなったのだから、我ながらうかつだったものだ。
     けれど、それも無理ない。この時点で、私は黒客の負けの可能性を全く予期していなかった。
     ヤサコ、フミエ、ハラケン、それにダイチを足したくらいなら、私ひとりでも楽に勝てる。カンナははっきり言って戦力外、問題は後のひとりだが、こっちにはお兄ちゃんがいる。
     最初に果し合いに加わると聞かされた時には、自分がお兄ちゃんに信頼されてないのかと思って落ち込んだりもしたが、いざこうしてふたりで歩けば、思い浮かぶ大黒に来る前にふたりで残した戦果の数々、お兄ちゃんは一番頼れるパートナーだった。運動能力や暗号のスキルを含めた純粋な力では私のほうが先に立つが、情報面でのサポートやとっさの判断、作戦指揮能力でお兄ちゃんを超える人間はそうはいない。
     だからこの戦い、万にひとつの負けもない。
    「イサコ、油断するな」
     だが信頼の相手は、いつになく鋭い視線で私を射た。
    「わかってるわ。でも、勝てる戦いよ」
     お兄ちゃんは黙って首を振った。
    「不確定要素はある」
    「不確定要素? 猫目タケルのこと?」
    「ああ」
     確かに突然現れたタケルという伏兵には、最初私も動揺した。だが、タケルの電脳クラブでの経歴については、ネットの関係ありそうな部分はかなり洗いざらいにさらったのだが、通り一遍のものより他には見つからなかったのだ。
     お兄ちゃんは、私の顔を見ただけで何が言いたいかわかったようだ。
    「兄の宗助と組んで、行動の痕跡を消したのかもしれない」
    「その可能性もあるけど」
     だが、もしそうなら、タケルは空間管理室の手駒だということになり、そこからタケルの最大戦力を推し量れる。つまり、空間管理室の最大戦力であるサッチーと同レベルということだ。本当にタケルがサッチー並みの力を隠しているとして、確かに強敵だが、それでも今の私ならひとりで倒せる。
     大黒に来たばかりの頃より、私は格段に強くなった。お兄ちゃんはひょっとするとそれをわかってないんじゃないだろうか。なら、お兄ちゃんに知ってほしい、見てほしい、私の力を。
    「油断はするなよ」
     お兄ちゃんは繰り返した。心に赤く熱するものがある。わかった。油断なんてしない。今日は全力で、コイル探偵局をたたき伏せる。

     決戦場となる空中庭園には、ひと足早く探偵局のメンバーが集まっていた。
    「貴様ら、早く来て小細工でも仕掛けてたんじゃねえだろうな」
     いつになくテンションの高いガチャギリが仕掛けると、
    「るせえ! 俺たちがんなことするわけねえだろ」
     いつもどおり頭に血の上ったダイチがどなり返す。
    「ふたりとも押さえておけよ。どっちにしろこれから好きなだけ暴れるんだから」
     なだめにかかったのはハラケンだった。ふたりの鼻息が収まるのを見計らって地図を広げる。
    「メールでやり取りしたからわかってるとは思うけど、ルールを確認しよう。まず、果し合いの参加者は6人ずつ」
     ハラケンはそこで少し顔を上げ、全員がうなずいた。
     黒客のメンバーはお兄ちゃん、私、ガチャギリ、ナメッチ、デンパ、アキラだ。
     対して探偵局は、ヤサコ、フミエ、ハラケン、カンナ、ダイチと助っ人のタケル。
    「フィールドはこの空中庭園の中だけ。外へ出ようとした者は、階段の扉を開けた時点で無条件に失格」
     それも前に決めたとおりだ。
    「対戦の方式は殲滅戦。つまり、どちらかの全てのメンバーがメガネを壊されるか、それとも降伏のフラグを立てるかまで続く。勝った側は、負けた側が集めてきたパスワードを全て差し出した上で、勝った側が許すまでメガネの使用をやめる」
     改めてそれを聞いた瞬間、場の空気が緊張に包まれた。勝ちには大きい、負けには辛い条件だ。今日1日の勝負でそれが決まる。
    「いいね」
     ええ、ああ、うん、と人ごとに違うが、同じ決意のこもった返事がぱらぱらと返された。
     ハラケンはその決意を自分にも確かめるようにうなずいた。
    「よし。じゃあそれぞれの拠点に分かれよう。対戦開始は10分後だ」

     緑濃い草を駆け足に踏み散らし、私たちは黒客の拠点、南のビジターセンターへ向かった。ビジターセンターなどと言っても、大部分の備品は撤去されて、今はむなしい白壁を背に、ひびの入ったガラスの扉と、いくつかのテーブルやいすが散乱するだけの場所だ。
    「最後にフィールドの確認だけしておこう」
     お兄ちゃんはそんなテーブルのひとつに、お互いひとつずつ配られたマップを広げた。
    「空中庭園内の構造物は、中央の支柱部分と、それぞれの拠点がある南北のビジターセンター以外、全て電脳物質だ。だからと言って壁に飛び込んだりしたら一発でメガネが壊れるけどね」
     デンパが不安そうに両手で自分のメガネを覆った。
    「庭園は1辺約70メートルの正方形だ。ちょうど真ん中に支柱、南北の角にビジターセンターがあるのはさっき言ったとおり。東側はどちらかというと平地が多いけど、小屋と土壁がいくつかある。西側は立ち木の密度が濃いな。視界が利きづらい。それと北のビジターセンターのすぐ西は池だ」
    「池に入ったら敵から丸見えの狙われ放題。僕たちは東から攻めるしかないってわけですね。陣取りで不利になったな」
     腕を組むアキラの頭を、ガチャギリが小突いた。
    「生兵法だぜ。逆に敵は東から追い詰められたら逃げ場がねえってことだ」
    「それなら提案っす」
     ナメッチが両手を上げてアピールする。お兄ちゃんが返事がわりに微笑んだ。
    「敵が足並みを整える前に急襲しちまうってのはどうすか。スタートと同時に全力ダッシュ。東回りで敵の拠点を目指すってのは」
    「いいね。その作戦は敵の行動範囲を大きく狭める、同時に敵の取れる作戦も限られたものにしてしまう」
     お兄ちゃんはうなずいて、私を見た。
    「イサコはどう思う?」
    「気がついた?」
     私は聞いた。
    「えっ? 何を」
    「太陽の昇る早さ。ここ、3時間もすれば陽が落ちる」
     だから、勝負などすぐに終えてお兄ちゃんと夕映えの景色を見たいと思った。

    電脳コイル〈3.00〉 -第14話 空中楼閣の決戦(前編)-

    D part

     果し状が届いてからの日々はあっという間だった。
     というのは嘘だ。忙しい時間を後で思い出して見るといろんな体験があって、とても何十時間の間の出来事とは信じられない。特に今回は、タケルから特訓と暗号のレクチャーを受けるというイベントがあったからなおさらだ。結局私には暗号は無理だったけど。
     タケルによると、暗号を使えるかどうかはスキルより体質の問題らしい。カンナはともかく、私たちを差し置いてヤサコだけが暗号を覚えることができたのはそのせいだと。でも、そう教えられても、今まで電脳関係ではヤサコの先輩のつもりだった私としては、微妙に悔しい結果だった。
     そしてもうひとつ、長い3日間を忘れられない時間にする出来事は、決戦の前の夜に起こった。

     ダイチから電話があったのは夜の8時過ぎだった。私はすぐに取った。
    「もしもし」
    「おう、久しぶり」
     夕方までタケルの特訓で一緒だったんだから、久しぶりもない。
    「何か用」
    「つれねえな。お前、今暇か」
    「暇じゃないわ」
    「そ、そうか。じゃあ仕方ねえ」
     性急に電話を切ろうとするので私は慌てた。
    「ちょっと待ってよ。用があったんじゃないの」
    「あるにはあるんだけど、忙しいなら後でいいし」
    「忙しくないわよ」
     自分がどうしたいのかというと、ダイチから連絡をもらえたのは結局嬉しかった。と同時に不安でもあった。何が不安なのかわからないのがますます不安を助長した。でもダイチの声を聞いているだけなら楽しかった。それならその時間がもう少し長く続いてもいいと思った。
    「会いたいなら時間、作るわよ」
     だからそう答えたのだ。
    「そうか」
     ダイチの声は目に見えて明るくなった。
    「なら、そうだな。丑子神社まで来てくれねえか。時間は取らせねえから」
    「OK」
     電話を切ると私は5分で支度を整えた。
    「ごめん。小此木先生の勉強会行ってくるわ」
     ここ数日、夜まで続いた特訓を私はそう言い訳していたのだ。
    「あんた、こんな時間に。先生に迷惑かけるんじゃないわよ」
    「はーい」
     お母さんの小言は背中で流して、スニーカーに足を通した。

     私は上気していた。家から丑子神社まで走り通してきたからというものあるだろうけど、理由はそれだけではないはずだ。胸は騒いで次第に不安よりは期待が勝る。だから、ダイチがどんなことを言ってきても、その期待の勢いでもって答えられると思った。
     早い鼓動が耳に届き、いつからか音楽が頭に響いていた。いつかテレビでやっていたのをたまたま聴いただけのうろ覚えだけど、そのこじんまりと楽しげなメロディは脈拍に合わせて幸せな反復を続けていた。
     ダイチは神社の脇のベンチにひっそりと座っていた。私を見るとゆっくりと立ち上がり、申し訳ないような笑みを浮かべた。
    「すまねえな、遅くに」
    「いいわよ」
     ダイチの姿を見ても音楽が鳴りやまないことに私は感謝しつつ、その次の言葉を待った。
    「考えてみりゃ、いろいろあったよな、俺たち」
     ダイチは下を向いて、ありもしない石ころを蹴とばす仕種をした。
     音楽はテンポを落とし、楽器から楽器へメロディを引き継ぐ。
     私は黙ってうなずいた。
    「これからもあるんだろうな、いろいろ」
     その言葉は青い芽のように心に根づいたから、私は笑ってもう1度うなずいた。頭の中の音楽のテンポが落ちてメロディが繰り返される。少しずつそれは遅くなって、懐かしい思い出と同じだけの距離を描く。
    「お前はこれからも同じなのがいいか?」
    「えっ」
     予期しない質問に、私はダイチの顔を眺めた。不意にメロディが予期しないラインを描いてさっきまでと離れた道に歩み出す。次から次へと引き継がれ、めくるめく景色になった音のうねりが、私の知らない未来を描き始める。
    「俺は違っていいと思う。つまり、俺はお前が好きだ」
     私は答えられない。ダイチの質問を予想していなかったわけでも、答えが見つからなかったわけでもない。ただ音楽は頭の中に全奏で鳴り渡って、私は言葉を失っていた。流麗なままに音楽は力強さを増して、過去も未来も輝かしさの中に包み込むような強奏で、突然終わった。
     終わるとほの暗い神社とダイチと私しかなかった。そのことに私はにわかに慌てた。
    「好きって――」
    「好きは好きだ。前からそうだった。けど言えなかった。けどもう言わなくちゃ嘘だから言った」
     ダイチが言えなかったのは、ダイチと私の過ごしたこの時間がものすごく大切なものでそれを壊したくなかったからだ。それを私と同じようにダイチも感じていることが、私には嬉しかった。同時に、ダイチの口からそれを言わせてしまったことが悔しかった。私だって同じように感じていたのに、私からは何も言うことができなかった。ふたりは無限に循環する旋律のようにいい友達で、そこから踏み出すのが怖くて、私はずっと決められた自分の役割を演じてきたのだ。
     だけど私は嬉しかった。ダイチと一緒に踏み出したいと思った。
    「まだ、待って」
     けれど、口から出た言葉はそれだった。
     私は踏み出そうとして臆病になった。だから、ダイチと私は釣り合わないのかもしれなかった。そしてやっぱり怖かった。何が何だか分からなくなって視界が歪み、まとまりのない言葉の断片ばかりが頭をよぎった。
    「待ってて!」
     叫びながら、いつの間にか私は暗い道を走り出していた。

    電脳コイル〈3.00〉 -第14話 空中楼閣の決戦(前編)--

    C part

     果し合いの通知が届いた次の日の朝、僕は空中庭園へ向かった。
     タケルのいう「暗号」の訓練は10時から。その前の時間で決戦場所の下見を提案したのだけれど、女子たちはラジオ体操があるからと断ってきて、結局僕とダイチ、それにタケルの男子3人が空中庭園に集まることになったのだ。
     錆の浮き始めた「立入禁止」の看板の前に着いたのは約束の30分前、7時を少し回った頃だった。ふたりを待たずに僕は看板をくぐり、広い敷地に入った。

     「空中庭園」は、電脳都市大黒のイメージを観光に利用しようと、大黒市、それに、その頃電脳メガネの製造開発を手掛けていたコイルス社、コイルス社に事業協力していたメガマスが出資して建造した、一種の巨大テーマパークだ。地上30メートルの高さに設置された直径100メートルのバカでかい円形ホールを、中心に1本と外縁に3本、合わせて4本の支柱で支える。
     8年前の開設時は全国からお客が詰め掛けて、当初見込みを上回る入場者数を数え、その年の大黒駅の利用客は記録的な数字を示したという。が、目新しさが去った2年目からは客足は激減、今度は大黒財政史上記録的な大赤字をたたきだした。そもそも窓ひとつない電脳のテーマパークをどうして莫大な建築・維持費のかかる高架建築にしたのか、市議会での追及が始まると、お約束のように建築業者の選定、運営団体の資金管理にまつわる怪しいネゴシエーションが明るみに出て、おまけに建物自体が2015年に改正された法規に適合してないことまで発覚し、大騒ぎになった。
     わずか3年半で閉鎖に追い込まれた「空中庭園」は、今では「電脳市政のあだ花」などというタイトルでまれに週刊誌を飾るくらいの、巨大な廃墟と化している。
     というのが、オバちゃんから聞いた情報だ。

     円形ホールへの入口は1ヶ所しかない。円の中心に設置された支柱の下に設置された来場者受付だ。当然今はシャッターが降ろされている。庭園内部がメタバグの宝庫だという噂が立った頃、シャッターを破って侵入を試みた豪の者がいたが、内部にあったメガマスの電脳障壁にやられて引っ繰り返り、すぐ捕まったらしい。それ以来、「空中庭園への侵入は不可能」というのが、大黒の電脳クラブの常識だ。
     だが、いつの時代にも、常識というのは破られる宿命を持っている。
     僕は、シャッターの閉まった受付の裏に回った。建物のくぼみに隠れて見えづらくなった一角に、従業員用の通用口がある。
     正攻法がダメなら裏手から、誰でも考えつく方法がこれまで試された形跡がないのは、この通用口の形だろう。ドアノブや鍵穴、蝶つがいなど、そこが扉であることを示すものは何もない。ぱっと見、スリットの入った壁の一部だ。けれど。
     僕はスリットに近づいて、果し合いのメールに添付されていた電脳錠をかざした。
    『暗証番号を入力してください』
     目の前にメッセージと、入力ボックスが浮かぶ。教わったとおり「4423」と入力すると、ほとんど無音でドアが開いた。同時に内部の照明が起動する。目の前に受付事務室のドア、その横に、飾り気のない鉄の螺旋階段が見えた。僕は階段を上り始めた。
     この階段も従業員兼非常用のものだ。一般来客は普通エレベーターを使う。電脳錠と暗証番号の二重防護は破られまいとたかを括ってか、表口に設置された障壁の類は一切ない。
     邪魔するものなく、ただしやや息切れしながら階段のてっぺんまで上り、待っていたドアを開くと、がしゃんと大きな音が響いた。
    「メインスイッチが入ったな」
     まず照明が付き、いくつかの武骨な建物以外に何もない円形の室内を照らす。次に、壁のほうから順に情景が再現されていく。模造された景色は、淡い青の空の下に若葉と花の繁る、初春の眺めだ。決戦なんて言葉とは程遠い平和なこの風景の中、僕らは若々しい緑の草を踏みにじり、可憐な花を散らして戦うのだろうか。そう考えると、後ろめたいような気分が込み上げる。もっとも電脳の草花を踏みつけにしたところで、枯れたりはしないのだけれど。
    「早かったね」
     景色に見とれていた僕は、突然背中へ浴びせられた声に飛び上がった。
    「タ、タケル君」
    「タケルでいいよ。それに、ダイチも来てる」
    「よう」
    「ああ、おはよう」
     タッチの差だったようだ。僕は胸をなでおろした。
     タケルは屈みこんで、こぶしで強く地面をたたいた。ぼすっとへこんだみたいな音がする。床は、子供が走り回るのを考慮してだろう、ウレタンのような素材でできていた。
    「閉鎖から4年半だっけ。設備の故障はないみたいだね」
    「実は俺、1度も来たことないんだよな。外は円いのに、中から見ると四角なんだな」
     ダイチは頭をかきながら、物珍しそうに辺りを見回している。
    「それは残念だったね」
     タケルの声に強い実感がこもっているのが、僕は少し気になった。
    「タケルく……、タケル。ここに何か思い入れでもあるの」
    「ここはね、僕の父さんが設計した電脳空間のプロトタイプなんだよ」
    「なんだって!? タケルのオヤジが!?」
     ダイチが目を丸くした。
    「そう。父さんはコイル・コイルス社の技師だった。今普及しているメガマスの電脳空間も元は父さんの基本設計によるものなんだ。ここは、異なった設計の電脳空間を展開して、改善や改良に取り組むための実験施設を兼ねていたのさ。空中に作ったのも、エラーが起きた場合に周りに影響が及ばないためだよ」
     僕は笑顔を作った。
    「良く知ってるんだね。ここについて実戦で役立つ情報はないかな? 黒客に1歩リードできる」
     タケルは少し寂しそうにかぶりを振った。
    「悪いけど、それはないよ。計画が進むうちに、どうせ作るなら商業ベースでって意見が強くなって、父さんの目指していた実験空間のアイデアはあいまいになって行ったんだ。最終的に父さんの考えがどこまで採用されたか、僕にはわからない」
     僕は息をついた。
    「残念、アドバンテージは取れずか。でも」
     タケルの顔を正面から見すえる。確かめておかなければならないことがもうひとつあった。
    「空間管理室の力を借りるなら、かなり有利になるだろうね」
     タケルの目は一瞬戸惑ったように左右し、すぐに怒りの色に染まった。
    「兄ちゃんのことなら的外れだ。僕は兄ちゃんと関係ない。兄ちゃんは敵だとさえ思ってる」
    「ハラケン、タケルの言ってることは確かだぜ。俺は前からこいつと付き合ってるけど、宗助さんと裏でやり取りしてる形跡なんてない」
     ダイチもタケルに加勢した。
    「わかった。ごめん、タケル。今のは無しにしよう」
    「いや、わかってくれればいい。兄弟っていうんだから、疑われて当然だしね」
     タケルは意外と子供っぽい笑みを浮かべた。思わず僕も笑みを返す。
     単純なダイチがうまく誤魔化されている可能性もなくはないが、今日のところは良しとしよう。

     その日、その後は、3人でホールの中を見て回り、地図を作った。
     僕たちが上ってきた階段はホールの中心で、そこから南と北にひとつずつ、電脳ではない本物の建物のビジターセンターがある。ここが両チームの拠点になるだろう。他はほとんど平坦な地形だけれど、ところどころに立ち木や小屋、せせらぎなどがあって、電脳戦上の障害物をなしている。遮蔽物に身を隠して撃ち合いながら相手の拠点を目指す、というのが基本的な戦い方になりそうだ。
     ひと通り見回ると、9時過ぎになった。タケルの暗号訓練の準備があるから偵察はここまでにして、その場を後にした。
     駅の北に出てふたりと別れると、久しぶりに何かをやったという実感が湧いて、少しだけ朗らかな気分になった。どうしよう、一旦家に戻って朝ごはんでも食べようか。
     出し抜けにメールの着信音が響いた。メガばあからだ――僕だけに?
    『ハラケン、話したいことがあるんじゃが、今から来られるかの』

    「何の用ですか」
     メガシ屋の薄暗い土間に1歩踏み込んで、番台の黒い影が誰か確かめもせずに僕は言った。
    「なに、そう身構えなさんな」
     番台の影はのんびりと言いながら立ち上がり、後ろの障子を開けた。
    「カンナ!?」
     座敷でひとり、おずおずと座っていたカンナは、決意と後悔の半分ずつ入り混じった目で僕を見た。

     その時僕がどうしたかというと、場違いにも笑ってしまったのだ。何故って、僕はカンナのことが大好きだと、改めてわかったから。
     カンナは僕を信じたくて、でも信じ切れなかったのだろう。だからメガばあに相談した。カンナの後悔は僕を信頼できなかった後ろめたさと、そういう自分への自己嫌悪だ。
     じゃあ決意は? それは、カンナの、何と言えばいいのだろう――そう、僕を守ろうという意志だ。それがたとえ僕を裏切ることになっても、たとえ僕に嫌われても、カンナは僕を守りたいのだ。
     いつも僕の後ろをついてきて、僕の真似ばかりしていたカンナの、6年になっても身長はフミエの次の次くらいで、4年からこっち急に伸びた僕とずいぶん差のついてしまった小さいカンナの、どこにそんな強いものが隠されていたのか。それが本当に愛らしくて、その気持ちが僕に向けられていることが嬉しくて、だから僕は笑ってしまったのだ。

    「カンナがの、不安だと言いよるんじゃよ。おぬしが何を考えておるかわからんとな」
     メガばあの表情は逆光でよくわからなかった。
    「のうハラケン。おぬし、今度の果し合いで何を企んでおる?」
     口調は柔らかだが、ぐっと斬り込んでくるような凄みがあった。
     メガばあに嘘はつけない。そして、カンナに嘘はつかない。
    「言えません」
     だから僕はそう答えた。
    「言えぬじゃと」
     メガばあの影から妖気が走り、後ろのカンナは泣き出しそうな顔で僕をにらんだ。
    「カンナ!」
     僕はメガばあを通り越して呼びかけた。
    「僕はカンナのことが好きだ」
    「な? おぬし何を――」
    「だから、引越しまでにやらなくちゃならないことがある。カンナが幸せになるために、ううん、僕がカンナを幸せにするために」
    「研一」
     カンナは僕の名を呼んだきり、言葉に詰まっていた。やがて両目からきれいな涙の粒がこぼれ、カンナは立ち上がり、それとも立ち上がってから涙がこぼれたか、いや、もうそんなことはどうでもいい。
     カンナは座敷にいて、僕は土間にいるはずだけどほとんど自分がどこにいるかわからなかった。ただ、カンナと僕の離れているのが永遠のようで寂しくて、がむしゃらに前へ進んだ。
     どうしてか水の中を進んでいるように空気が粘りついて僕を遅らせた。カンナがこっちに来るのも遅く、とても遅く感じた。けれど無限のように感じた瞬間の果て、僕はカンナに触れた。
     カンナは確かにそこにいた。そうでありさえすれば、もう何がどうだろうがなんでも良かった。カンナにもそうであって欲しかった。
    「信じていいの」
     胸に冷たい感じがあった。カンナが泣いているのだった。僕はこれ以上泣かせてはいけないと思った。
    「信じてくれ」
    「メガばあ、もういい」
     カンナは僕に抱きついた。耳元に嗚咽が響いて、抱きしめた腕は、性急に空気を吸っては吐く震えを感じ取った。
     僕はいつまでもカンナを抱きしめ続け、カンナは僕の胸の中でいつまでも泣き続けた。
     僕はもしかすると、カンナの涙を止める方法を知らないのかもしれなかった。そうでも、僕は止めなければならないと、その時はそうとばかり考えていた。



    「カンナがの、不安だと言いよるんじゃよ。おぬしが何を考えておるかわからんとな」
     メガばあの表情は逆光でよくわからなかった。
    「のうハラケン。おぬし、今度の果し合いで何を企んでおる?」
     口調は柔らかだが、ぐっと斬り込んでくるような凄みがあった。
     メガばあに嘘はつけない。そして、カンナに嘘はつかない。
    「言えません」
     だから僕はそう答えた。
    「言えぬじゃと」
     メガばあの影から妖気が走り、後ろのカンナは泣き出しそうな顔で僕をにらんだ。
    「カンナ!」
     僕はメガばあを通り越して呼びかけた。
    「僕はカンナのことが好きだ」
    「な? おぬし何を――」
    「だから、引越しまでにやらなくちゃならないことがある。カンナが幸せになるために、ううん、僕がカンナを幸せにするために」
    「研一」
     カンナは僕の名を呼んだきり、次の言葉に詰まっていた。僕には彼女がどういうかわかっていたけれど、あえて言わずにカンナを待った。
    「信じていいの」
     胸に冷たい感じがあった。
    「信じてくれ」
    「メガばあ、もういい」
     カンナの目から涙がひと筋だけこぼれた。
     僕はもしかすると、カンナの涙を止める方法を知らないのかもしれなかった。そうでも、僕は止めなければならないと、その時はそうとばかり考えていた。
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