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    電脳コイル〈3.00〉 -第17話 思い出の帰る日-

    J part

     ハラケンはうまくやっているだろうか。
     私は背後を振り向いた。
     隙間なく並んだ民家の背中を通り抜け、今まで歩いてきた路地は細くゆがんで、けれどずっと向こうからまっすぐ伸びている。この眺めの思い出がないのにもかかわらず、私の心には昔を懐かしむ感情が生まれている。きっとここは親しかった誰かの風景なのだ。
     ハラケンが何を考えて私についてきたのか、結局聞くことはなかった。あいつには反発を覚えた時もあったが、それでもハラケンの心はハラケンのものだ。私は干渉すべきではないし、何より私のこれからやろうとしていることだって、ハラケンとたいして変わりないのかもしれない。それならば、聞いて自己嫌悪におちいるより、聞かずに別れたほうがお互いのためだ。私は再び前を向いて、不確かな空間を目指す先へと歩き出す。

     空間の作用だろうか。体が熱っぽく、脈と合わせて頭痛がする。何か考えようとすると痛みが激しくなるので、私はなるべく頭も心も空っぽにして、足だけを前に進める。次第に歩みも重くなる。この道をもう少し進めば、私も知っているあの風景にたどり着くのだ。
     イサコ。
     後ろから呼ばれたような気がして私は振り返る。いや、気のせいだ。後ろには、壁となって立ちふさがる家々と、照り返しでわずかに赤く染まった道しかない。ハラケンがこの道を来るはずはないのだから、一体誰が私を呼ぶというのか。
     イサコ。
     まただ。だが違う。呼び声は前から。呼び声は少し年上の女の子だ。足が止まった。
     地面に黒い染みができるのを、私はじっと眺めていた。5年間探し求めて、それなのに夢にさえ出てきてくれなかったお姉ちゃん。もし中学生になっていればどんな姿になっていたろう。どんな声で話したろう。私はひとりで想像して架空のお姉ちゃんを頭の中に作り上げていた。今聞こえた声は、私が願ったお姉ちゃんの声、そのものだ。
     路地を照らしていた夕陽の赤色が、それとわかるほどにはっきりと濃くなった。同時に闇も深く。私はこわくなる。せかされるように前へ進んで、つい踏み出たその場所は出発地とそっくり同じ、ただ時間だけが凍りついて動かない、はざま交差点だった。
     私は素早く左右を見た。大丈夫だ、誰もいない。そう思ってから何が大丈夫だったのかと苦笑し、そして目の前、交差点の反対側を見つめる。
     光る影がたたずんでいる。
    「お姉ちゃん……」
     その言葉だけがため息とともに漏れた。伝えたかったことはいくらでもある、でもそれをうまく言い表すことができなかった。やっと会えたという喜びは何故か少なく、そうしてか後ろめたさばかりが心を満たして、私はお姉ちゃんから視線をそらした。
    「助けに来たんだよ。私と一緒に帰ろう、元いた町へ」
     ひとりごとのようにそれだけつぶやいて、私は歩き出した。交差点を向こうに渡る信号は青。ずっと青のままだ。きっと私が通るのを待っているのだろう。
     道路のアスファルトがきらきらと夕陽に反射して、まるで川の流れのようだ。見上げれば遠い、くすんだ青に変わりつつある空に、星がまたたき始めている。暗く沈んだ町は次第に遠ざかり、この広い、鮮やかな世界を私とお姉ちゃんだけのものにしてくれる。そうだ、こわがりもためらいもする必要はない。お姉ちゃんはいつだって私を待ってくれていた。いつもお姉ちゃんのほうからつないでくれた手を、今度は私が差し出す番。
     踏み出した足が交差点についた瞬間、お姉ちゃんの影が首を振った。同時に、電気の走ったような嫌な感じが体に伝わる。私は反射的に飛びのいた。
    「なんだ、今のは」
     見回しても辺りはさっきと同じ風景のまま。
    「お姉ちゃん! 聞こえる? 私だよ、イサコだよ。助けに来たの」
     お姉ちゃんの影はゆらめきながら少しこっちに近づいた。よく見ると、顔のあたりの光の濃淡が表情のようなものを形作っている。ほほえんでいるのだ。私を受け入れてくれている。
    「今そっちに行くよ。一緒に帰ろう」
     もう1度、私が交差点に進み出そうとした時。
    「イサコ、待て!」
     突然、予想しなかった声が響き渡った。声は景色を揺るがし、お姉ちゃんは再び遠のいた。
     私は後ろを見ずに言った。
    「お兄ちゃん、どうしてここにいるの」
    「イサコを連れ戻すためにだ」
     お兄ちゃんは間を置かずに答えた。
    「私よりお姉ちゃんのことを考えて。ほら、見てよ。いたんだよ、お姉ちゃん」
     お兄ちゃんの足音が近づいて、私に並んだ。お姉ちゃんはやや遠ざかったけれど、十分にそれをわかる距離に立っていた。
    「ミチコなのか?」
     お兄ちゃんが声をかけると、お姉ちゃんは私にやったのと同じようにこっちに近づいた。
     お兄ちゃんは笑いともため息ともつかない息を漏らした。
    「ミチコ……。良かった、消えずにいてくれて」
     いつも落ち着いているお兄ちゃんが見せたことのない涙声を、私はむしろ不思議に思った。お兄ちゃんには私が感じた、やましさのような気持ちはないのだろうか。私の心にはあってお兄ちゃんの心にはないその感情が、小さなとげとなって私の心に残った。
    「ほら、お姉ちゃんでしょ。早く連れて帰ろう」
     私は心の傷を隠そうと、なるべく明るい声をつくろってお兄ちゃんに呼びかけた。
     お兄ちゃんははっとしたように私を見て、地面に視線を落とした。
    「どうしたの。行こうよ、早く」
    「待ってくれ」
     お兄ちゃんは私の顔を見ずに答える。
    「待つ必要なんかないじゃない。お姉ちゃん、出てきてくれたのよ。一緒に帰ろう」
     返事をしないお兄ちゃんの表情に悪い予感を覚えながら、けれどそれを振り切ろうと、私は再び交差点の横断歩道に足をついた。
     さっきと同じ悪寒が走る。全身から冷たい汗が吹き出した。
    「イサコ!」
     誰かが袖をつかんだ。お兄ちゃん? その分だけ悪寒がやわらいだ気がして、私は息をつきながら振り返った。
     が、すぐに自分の表情がこわばったのがわかった。
    「ダメよ。行っちゃダメ」
    「――何故、お前がここにいる?」
     腹が立つというよりは、ひどくみじめな気分だった。理由はわからないままに、ヤサコに見られたのが恥ずかしい。
    「あなたたちを止めに来たのよ」
     ヤサコは強気に言い放つ。だが、私はその言葉から別のことに思い当った。
    「ハラケンとカンナはどうなった」
     この場面でそんな質問は場違いだ。私はきっと、ヤサコを傷つけるためだけにそう聞いたのに違いない。
     予想どおり、ヤサコは表情を曇らせた。
    「ふたりは先に戻ったよ。自分の意志でね」
     口ごもったヤサコの後をお兄ちゃんが引き取った。
    「イサコ、僕たちも帰ろう。今はまだミチコを連れ戻せない」
     お兄ちゃんの言うことは、理屈でなく感覚で理解できた。足元の横断歩道からの悪寒。交差点の向こうで立ったままのお姉ちゃん。私たちとお姉ちゃんの間には大きな溝がある。
     だが、私にはそれを認めることができなかった。認めることは私の、お兄ちゃんの弱さだと思った。
    「ヤサコ、手を離せ」
    「イサコ!」
     ヤサコは離すどころか、つかんだ手首をますます強く握りしめてくる。
    「あなたの気持ち、わかるつもり。でもダメよ。”あっち”との接続が不安定なのよ。今連れ帰ろうとしても――」
     ヤサコはそこでまた黙りこむ。続きは聞かないでもわかった。わかったけれど、
    「だからなんだ。やってみなくちゃわからん。いや、私がなんとかする。してみせる」
     私の気持ちはヤサコなんかにはわからない。お姉ちゃんを連れ戻すために、これまでどれほどの努力を重ねて来たか。そのお姉ちゃんがもうすぐそこにいて、諦めるなんて。
    「イサコ」
     ふと目の前に影が差した。
    「僕が行くよ」
    「お兄ちゃん――」
     言葉が止まり、息がつまる。お兄ちゃんの行動に対してではない。お兄ちゃんは私と同じように交差点に入っていながら、ちっとも苦しそうではない。
    「イサコの言うとおりだ。僕は今まで臆病だった。あの時の事故も、僕のせいで起きたのかもしれない。だから僕が行く。行ってミチコを連れてくるよ」
    「信号が!」
     突然ヤサコが声を上げた。青だった信号が、点滅を始めている。夕陽が大きくかしいで、伸びた影から闇が生まれる。
    「待って! 戻れなくなる!」
     私はなかば直感で叫んだ。
    「その可能性もある。覚悟の上だ」
    「信彦さん!」
     手首を握っていたヤサコの力が弱まり、私は強引にそれを振りほどいた。
    「私も行く!」
     が、駆け出した体は見えない壁に当たって押し戻された。
    「何だ、これは!?」
     もう交差点の中ほどまで差しかかっていたお兄ちゃんは、私のほうを見てちょっと笑った。
    「イサコ、すまなかった」
     なんで今そんなことを言うのか、問いただそうとしても声にならなかった。
    「イサコ!」
     ヤサコがどなり、信号が赤に変わり、足元の地面が崩れる。耳をつんざく轟音が響いて、空に亀裂が走った。空間が壊れる。
    「お兄ちゃん、戻ってきて」
     つぶやいた言葉の届くはずもなかった。水面を隔てるように遠ざかったお兄ちゃんは、交差点の向こうでお姉ちゃんと手を取りあった。ふたりは並んでこっちを見る。はっきりと見える、お姉ちゃんの優しいほほえみ。そうだ、私はあのほほえみが好きだった。私だけのものであってほしかった。だから。
    「走って!」
     それから後は、誰かに腕を引っ張られていたことくらいしか覚えてない。音も光も、目に見えないくらいの断片になって記憶の底の塵になっていった。

     気がつくと実体に戻っていた。ヤサコやハラケンにカンナ、探偵局、黒客、全員そろっている。
     みんなは私と、電脳体を失って横たわるお兄ちゃんを取り囲んでいた。私は泣いている。お兄ちゃんを失ったことが悲しいのか、それともひとり取り残されたのが悲しいのか、私自身にもわからない。ただ支えのない心細さに、私は泣き続けた。
     空には本当の夕焼けが迫っていた。その向こうの闇が、私にはこわかった。
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    電脳コイル〈3.00〉 -第17話 思い出の帰る日-

    I part

    「夕暮れがきれいなのは何故か、わかる?」
     僕は言った。

     小さい頃から僕はいつも、一見くだらない、答えのない問いの答えを探していた。するといつも、懐かしさと恐れのない交ぜになった感情がわき上がる。
     その感情をなんと名付ければいいのかわからない。半分は宙ぶらりんな気持ち、けれどもう半分はこれで良かったのだいうわけもない安心感。春の穏やかな午後のようにゆったりとした気分で、僕は幸せさを感じる。同時に寂しさ。僕の心をのぞけるのは僕ひとりだから、僕は一生、僕ひとりに違いない。
     それはカンナと会ってからも変わらなかった。お互いひとりっこで家も近かった僕たちは出会ってすぐ仲良くなった。でも、僕は僕のくだらない問いをカンナには明かさなかった。カンナは多分、僕が人生で初めて会った他人なのだ。だから僕はカンナと一緒にいて時に怒り、傷つき、いらだった。ケンカもした。それでもふたりでいて、なんとなくそれが当り前だと思っていた。
    「『わかりあう』って大事よね」
     いつかカンナがそう言った時、僕は笑ってしまった。カンナのいうことはとても幼いか、それとも非現実的に思えた。僕たちがわかりあうことはない。僕はそう信じていたからだ。
     そう伝えるとカンナは答えた。
    「そうね。それでも大事だと思わない?」
     僕は心に鈍い衝撃を感じた。カンナと僕は、僕が考えている以上に違ったから。それでいて、カンナの言葉は僕の心の別の部分を刺した。
     僕たちは違う。それでも、お互いの言葉はお互いの心に何かを伝える。それは時々、僕たちの違いをはっきりと示して悲しい。けれど、その違いから新しい風景を見つけることができる。
     好きだと伝えあった時、僕たちはわかりあっていた。すぐその次の日にはそれがひとりよがりだったのではないかとも思ったけど、カンナといると僕は何かがつながっているのを感じた。引越しの日が近づくにつれその感じはますます強く僕の心の隅々にまで根を張った。

    「夕方の太陽の光って空気の中を進む距離が多くなるでしょ。そうすると青い光が散らばって、赤とか黄色がよく見えるようになるんだって」
     僕はぽかんとした。カンナはウィンドウを立ち上げて、どこかの事典サイトを見ている。
    「おもしろいわね」
     カンナは僕を振り返り、首を傾げた。不安定に髪に引っかかったハルジオンがくるりと向きを変える。僕は笑っていた。
    「待って」
     カンナは平手を突き出して僕の答えを押しとどめた。
    「そういうことじゃないっていうんでしょ。もちろんそう。だけどそうじゃないかも。私って意外とそういうこと調べるの好きなんだよ。知ってた?」
    「いや」
     僕はほほえんだままで短く答えた。いわれてみればカンナは理科の成績がとてもいい。
    「行こうか」
     立ち上がると目の前に横断歩道と歩行者用信号があった。信号は青だけど、すぐに点滅が始まるだろう。僕たちは行かなくちゃ。
    「私を連れていきたいの」
     僕を追って立ったカンナが聞いて、大きな瞳で僕を見すえた。
    「そうだ」
     僕はうなずく。
    「”あっち”に行けば、僕たちはこれからずっと、永遠に一緒だ」
    「さっきこわいっていったくせに」
     カンナはいたずらめかして笑った。笑いの奥に違う感情がのぞいた。
    「こわいさ、何もかも。進むのもこわい、帰るのもこわい。でも一番こわいのは」
     カンナを失ってしまうことだ。僕がカンナを見つめると、涙がひと筋こぼれた。
     カンナは不思議そうに涙を眺め、そして言った。
    「研一が私を好きだっていってくれるの、すごくうれしい。私が研一を好きなのも同じくらい。だから行かない」
    「行かない?」
     僕の思考は少し混乱した。カンナが”あっち”に行くのを嫌がるかもしれないとは予想していた。けれど、うれしいなら。
    「僕はカンナのことが好きだ。カンナも僕のことが好きなんだろ。だったら一緒に行こう。それが僕たちがふたりきりでいられるたったひとつの方法なんだから。僕たちが幸せになれるたったひとつの――」
     僕はカンナの手を取った。温かい手。カンナは僕を見つめたまま、力強く手を握り返した。
    「このまま行っても、研一は幸せになれないわ。私も」
    「そんなことない!」
     僕は首を振る。
    「僕がカンナを幸せにする。それに、カンナが幸せなら僕も幸せなんだ。絶対だ」
    「研一の気持ち、とてもうれしい」
     カンナの声ははっきりと響く。全てがあいまいに温かい夕焼けにひたされたこの空間で、その声には少しだけ違和感があった。
    「でも、研一もさっき言ったでしょ。私たちって変わっていくものだよ。変わらないのはおかしい。ずっと、永遠にって、違うよ。私たちが望んでることと」
    「違わない! 僕の望みは変わらない。カンナ、君だって。行けばわかる」
     そこでカンナは目を落とした。
    「行くよ」
    「え?」
    「行く」
     カンナは僕たちのつないだ手を大げさにふってみせた。
    「私の言いたいことは言った。私はきっと幸せになれない。でも研一が幸せならそれでもいいよ。行こう」
     カンナは横断歩道に向かって歩き始める。僕は慌てて止めた。
    「ちょ、ちょっと待って」
    「どうして? 研一が行きたいって言ったんでしょ」
    「そりゃ言ったけど、でもこれじゃダメだ。僕はカンナに幸せでいてほしい。僕がカンナを幸せにする。それをわかってもらってから”あっち”へ行きたいんだ」
     カンナは振り返った。視線が僕を射た。
    「私は変わりたい。変わっていっても研一のことを好きでい続けたい」
     僕は答えられなかった。
    「研一がもうこれ以上変わらないでいてほしいなら、私は研一と一緒に行くわ。でも、私がそれを幸せと感じるようになるなら、それは研一が望んだ、研一の心の中だけの私にすぎない」
    「違う……」
     それは違う。僕はありのままのカンナが好きだった。僕の心の中で、自分勝手にカンナの虚像を作り出したりはしていない。
    「私ってけっこうイヤな子だよ。たとえばヤサコのこととか」
     カンナはさっきまでヤサコの立っていた方向を見ながら言った。
    「私、ヤサコのこと好き。友達になりたかった。だけどヤサコが研一を好きだっていうのも気づいてた。だから私から近づいたの。仲良くなれば、ヤサコのほうからあきらめてくれるだろうと思って。ヤサコがなおさら傷つくのわかってて、そうしたの」
     僕はさっきのヤサコの姿を思った。そうして、カンナとヤサコというのを思った。それはひとつの疑問で、その疑問は澱のように残った。
    「イサコちゃんも同じ。イサコちゃんが暗号を使って危ないことをやってるのを知ってて、私は止めなかった。探偵局のみんなは、ケンカになっても止めようとしたのに。私ひとりずるかった」
     そういえばイサコは、僕の前でだけ不安そうな表情を見せることがあった。僕たちと途中で別れたイサコはどうなったろう。
    「そんなずるい私が、私は嫌い。研一、知らなかったでしょ」
     僕は息をついた。
    「僕は好きだ」
     知ってる。僕はそんなカンナの弱さも、自身の弱さに傷つく心も知っていて、それがみんな好きだ。それに、カンナは必ず弱さを乗り越える。これまでもそうしてきた。これからも――?
     これからをなくしたら、カンナは変わらない。
    「変わらない私は幻」
     カンナがつぶやいたのを聞いて、僕が気づいたことがある。
     僕は変わっていくカンナが好きだった。
     成長する、と言ったら、齢が同じなんだからおこがましいのかもしれないけれど、たとえ同じものを見たとしても、昨日のカンナと今日のカンナではその受け止め方が違う。僕にはその些細な違いがよくわかって、何故か知らないけれどうれしかった。そうして、カンナに引っ張られて僕自身も変わってきた。その結果が今の僕で、それはやっぱり、これからも。
     でも、カンナがいなくなったら。
    「僕にはわからない」
     カンナのいないままに変わる僕はこわかった。でも変わらないのもこわい。嘘だった。僕は嘘の中に僕たちを閉じ込めようとして、だけどそうしなかったらカンナはいなくなってしまう。
     僕はいつの間にかしゃがみこんでいた。カンナの影が僕にかかる。全てを飲み込みそうなくらいに黒い影だった。
    「いなくならないよ」
     よく見ると僕にも影があった。
    「私はここにいるよ。研一もいなくならないで。私にはそれで十分」
     そういえるカンナは強いと思った。僕なんかよりよっぽど。そうして僕は。
    「帰ろう」
     カンナとみんなと一緒に、これからも変わっていく。

    「さっきの答えね」
     出口が見えてきたころ、カンナがふとつぶやいた。
    「沈んで、巡るから」
     多分正解だ。それを確かめに、僕たちは戻る。

    電脳コイル〈3.00〉 -第17話 思い出の帰る日-

    H part

     空間の裂け目をくぐり、外の景色を見た瞬間、私はそこが大黒だと気づいた。今の景色とはかなり違っていて、見覚えのない建物ばかりだったが、それでもわかる。
    「これは何年も前の大黒市だ」
     信彦さんがつぶやいた。
    「ええ、そうね」
     答えると、信彦さんはびっくりしたような顔で私を見た。
    「君は僕たちと同じ頃に越してきたって聞いてたんだが、知ってるのか」
    「知ってるというより、覚えてるっていうか、なんとなくわかるの」
    「そうか」
     返事に納得した感じはなかったが、とにかく信彦さんはうなずいた。
    「それより、あなたこそどうしてここが大黒だってわかったの?」
    「僕は昔、ここに住んでいたんだ。もちろんイサコもね」
    「えっ」
     イサコからそんな話は聞いていなかった。
    「住んでいたといっても、短い間だ。1年とちょっとくらいかな。僕たちの見ているこの風景は、その頃の大黒のものさ」
    「そうだったの……」
     しばらくの間、私たちはふたり並んで、初めて見る”あっち”の、それなのにどこか懐かしい町を眺めていた。懐かしいという気持ちは私たちの内のもので、風景は外のものだ。けれど私には、それとも私たちには、外と内との境はなく、今見ている景色そのものが懐かしさという感情を含んでいるように見えた。逆に言うなら、目の前に広がる大黒の町並みは、私たちの心の中から生まれてここにあるのかもしれなかった。
    「道は知ってる。行こう」
     信彦さんが歩き出し、私は半歩遅れて続いた。
     町の景色をよく見ると、しっかりと作られている場所と、いい加減というほどでもないけど、どこか作り物めいた場所がある。信彦さんの向かう方角には、だんだんリアルではない側の町並みが増えていった。フミエちゃんの見たという2.0の巣はない。多分、フミエちゃんとは反対のほうへ進んでいるのだろう。
     人の気配の感じられない町だった。それでいて、目に見えないところで何か、私たちの知らない生き物がうごめいているような、ひと言でいうなら薄気味の悪い、落ち着かない気分だ。
    「どれくらい歩くの」
     だんだん心細くなってきた私は信彦さんに声をかけた。
    「けっこうかかるね。30分くらいかな」
     素っ気ない答えが返ってくる。
    「そんなに? ここ、大黒なんでしょ。30分も歩いたら町を抜けちゃうわよ」
    「大黒市を模した空間といっても、そのままのコピーじゃない」
    「えっ、どうして」
    「空間の整合性がないからだよ」
    「せいごうせい?」
    「ああ」
     信彦さんは話を打ち切りたがっているみたいだったけど、私は食い下がった。
    「それ、どういうことなの?」
    「君はイマーゴが使えるわりにものを知らないな」
     信彦さんは根負けしたように私を振り返った。
    「そもそもCドメインは、遺棄されたコイルスの空間だ。それくらいは知ってるね」
    「ええ、まあなんとなく」
     頼りない返事に信彦さんはため息をついた。
    「歩きながら基本から説明しよう。当り前だけど、僕たちがさっきまでいた現実空間は、大黒市の本当の町並みにぴったり重ねて作られてるよね」
    「それはわかるわ」
    「道路の整備とか新しい建物の建設とか、町はどんどん変わっていく。それでも電脳空間が現実と合わさっている、つまり空間の整合が取れているのは、僕たちのメガネやオートマトンによって、電脳空間が常に上書きされ続けているからだ。これも常識として知ってるだろ」
    「うん」
     うなずくと、信彦さんは話を続けた。
    「ところがここはそうじゃない。ベースにコイルスが管理していた頃の大黒市があって、そこに時々情報が追加される。電脳霧ってあるだろう。あれが街中に発生してる時、現実空間ではCドメインが現在の空間に上書きされて古い空間が発生しているんだけど、逆にCドメインにも現実空間がコピーされてくる」
    「それって、現実空間とCドメインが入れ替わるってこと?」
    「ちょっと違う。Cドメインのベースはフォーマットできないんだ。サッチーのやってるフォーマットは、リンクを切断してその上に最新の情報を書いてるだけ。だから、何度フォーマットしても電脳霧は現れる。逆に、Cドメインのほうでは、元からある空間に、コピーされてきた空間がだぶってしまう。上書きされるんじゃなく、二重化してしまうんだ。それをなんとかするために、町並みを切って、コピーされた空間を無理に埋め込んでいる」
     よくわからなくなってきた。
    「ごめんなさい、それってパッチワークみたいなもの?」
    「いや、パッチワークなら切れ目に新しい布地をかぶせて覆ってしまうだろ。それはむしろ現実空間に近い。Cドメインでは、切れ目に沿って布地をつないでいる。布に切りこみを入れて、ポケットを作るっていえばイメージできるかな」
    「ポケットはわかるけど、それじゃ空間がだぶだぶになっちゃうじゃない」
    「そうさ、それで間違いない」
     信彦さんはにっとほほえんだ。その笑いはイサコに似ているような気がして、しかしよく考えると私はイサコのそんな笑顔なんて見たことがないのだった。
    「Cドメインには到るところに空間のポケットが作られている。というよりは、もう元の空間とポケットの区別がつかない。だから、外部からCドメインを正確に観測することはできない。中にいる人を呼ぶには、自身がそこに入らなくてはならない」
     その言葉で、私は自分の目的を思い出した。信彦さんとの会話で軽くなっていた心がずんと沈み込む。
     どうして? 私はハラケンを助けたいのに。ハラケンとカンナが仲良くしている姿を見たくないから? それとも他の、私自身にも隠された理由がある?
    「そう、だったな」
     何も言ってないのに、信彦さんは私の顔を見て納得したようにうなずいた。その目に、私と同じ辛さがかいま見えた。
     黙ったまま、ふたりでしばらく進んだ。
     信彦さんが突然、ぽつりと言った。
    「小此木さんは何のために”あっち”へ行くの?」
    「え? 知ってるでしょ、ハラケンとカンナを助け……連れ戻しに」
     信彦さんの目に夕焼けの光が宿った。
    「ふたりが戻りたくないと言ったらどうするんだい」
     私は立ち止まる。足が進まなくなった。
    「現実世界よりもふたりの幸福を選ぶと言ったら」
     信彦さんも足を止め、私を振り向いた。その声はイサコと似て、低く心地良かった。
    「そんなの間違ってる!」
     それでも私は叫ぶ。
    「間違ってると君に断言できるのか」
    「できる! 会ってハラケンにそう伝えるわ」
    「蛮勇」
     信彦さんは寂しそうに笑った。
    「イサコにもそうあってほしいな。あの子には前に進む力が欠けてるから」
    「えっ」
     意外を通り越して、実は信彦さんはイサコについてよく知らないんじゃないかさえと思った。あんなに行動的なイサコに、力が欠けてるなんて。
    「信じられないという顔だね。でも、案外すぐに、君にはわかるかもしれないよ」
     どうして、と聞く前に信彦さんは前を向いた。
    「もうすぐ”あっち”だ。原川君と葦原さん、それにイサコもそこにいる。3人を連れて早く戻ろう。空間が不安定になってきてる」

     空は暮れない夕映えで真っ赤だった。
    「懐かしさとこわさってちょっと似てるよね」
     ハラケンは水路岸の土手に腰を降ろしている。水面は油を張ったように静かで、ふたりの姿、青く染まり始めた雲、沈む草の緑、映し出されたそれらはゆっくりと混ざり合ってひとつになる。
    「2度と手に入らないとわかるから?」
     並んで座ったカンナは、手元にあったハルジオンの花を摘んでハラケンの頭に飾り、すぐに吹き出した。
    「やだ、似合わない」
    「わかってるならやるなよ」
     ハラケンは少し乱暴に花をつかみ取って、カンナの髪に差した。小さな花はカンナの柔らかい髪にぴったりなじむ。
    「手に入らないんじゃなくて、それはもう僕のものなんだ。手に入れたんだ。そうして、永遠に変わらず僕のものになってしまったのがこわい。変わるのはこわい。でもそれ以上に、変わらないのは」
     ハラケンは頭を抱えた。
    「考えすぎよ」
     カンナは立ち上がり、そして私に気づいた。
    「ヤサコが来てくれたわよ」
     ハラケンは素早く振り返って、カンナをかばうようにその前に立った。
    「何の用だい」
    「戻ろう」
     胸が苦しくて、やっと私はそれだけ言った。
     ハラケンは黙って首を振る。
    「どうして? ここは私たちのいていいところじゃない。家に帰ろうよ」
    「家、か」
     ハラケンは顔を上げた。不意に夕焼けが閃いて、私は思わず目を閉じた。すぐに開けると、今まで川と思っていたのは2車線の道路だった。タイヤに磨かれたアスファルトが輝く。ガードレールの根元からやせたハルジオンが1輪、ななめに伸びている。カンナの姿はない。
    「信彦さんが、空間が不安定になってるって。外には2.0もいるし、このままだと本当に帰れなくなるよ」
     ハラケンは笑った。
    「僕はここにいると決めて、さっきカンナにも言ったんだ」
     真っ黒い絶望が心を覆い隠すのから逃げるように、私は声を張り上げた。
    「ダメ! ダメだよ、そんなのハラケンのためにもカンナのためにもならない」
     ハラケンは笑みをひるがえさずに言った。
    「ヤサコにとっての幸せって何だい」
    「幸せ? どうして今そんなこと――」
    「ヤサコは幸せになりたい?」
    「そ、それはもちろんそうだけど」
    「僕は今幸せだ。本当に君が僕のためを思ってるなら、僕が幸せである道を選ぶべきじゃないのか」
    「そんな!」
     違う。でも何が違うのか、ハラケンが間違っているのかそれとも私なのか。
    「迷うことはないんだ」
     優しい口調でハラケンは続ける。
    「ヤサコはヤサコの幸せを追って僕を連れ戻そうとしたんだ。でも僕は僕の幸せを追って手に入れた」
     そこで喋るのを止め、ハラケンは私を見つめた。それが最後の言葉だ。
    「ふたりの道は違う。さよなら」
     そうやって、私は失敗した。

    電脳コイル〈3.00〉 -第17話 思い出の帰る日-

    intermission

     この道を、と人のいう。

     私の進む先、それとも歩んだ後、道は続く。それは私のもの? それとも、本当は人のもので、私がよこから割り込んで奪い取ってしまったのか? 私にはわからない。わかっているのは私がこれまで進んできたことで、それからこの後も進んでいくべきだ、と。
     べきだ、と。
     もしかすると私は歩みを止めてもいいのかもしれない。もし私が誰かから進むべき道を横取りしたというなら、むしろそうして、本来歩むべきだったその人に返してあげればいいのだ。その後で私はもう誰からもせっつかれることなく、この場所でまどろめばいい。そういうのもありだ。

     私は歩いていた。
     人は何故夕映えの景色を好むのだろう。それは過去に似ている。過去というのはよくわからない。私は必死で今を生きているだけなのに、いつの間にかそれが澱のように積み上がって私を閉じ込める。そんな過去から私は逃れたがっているに違いないのに、それでいてそこから切り離されるのがこわくて仕方ない。
     みんな、過去がこわくないのだろうか。私は夢に見るのも嫌なのに。私の取った態度、私の放った言葉、どれもこれも思い出すほどに嫌で嫌でならない。
     それなのにこの景色は、私のそんな昔を1歩ごとに確かなものと変える。私は本当は不安なのだ。何でこんなところに来たんだろう。

     電脳の歴史はかなり新しい。今のように、世界の主要都市を電脳空間が覆い尽くしたのは、つい最近のことだ。電脳都市の最前衛なんていわれる大黒市だって、市街地の電脳化が完了したのはほんの5年前。それに、稼働当初は慮外の事故が多かったと聞く。
     たとえばこんなふうに、現実の空は移り変わっているのに、メガネの現すそれは朝から晩まで夕暮れだったなんて事故も、調べてみればあったんじゃないだろうか。
     いや、大黒ではもっと大きな事故があった。私はそれを知っている。でも、私はそれを思い出したくない。思い出したくないのに、私はそこへ向かって歩いていく。歩みは止まらない。私の力では、止めることができない。

     泣いて帰って私は見た。
    『本日午後5時過ぎ、大黒市で大規模な電脳事故が発生しました。被害の影響、規模は今だ不明ですが、現場からの情報によりますと、多数のオートマトンの損傷あるいは消失、また被害の大きかった空間にいた子供に影響が出ているとも言います。詳細な情報が入り次第、改めてお伝えします』
    『これについてメガマス、コイルス両社は事の次第が判明次第会見を開くとのみ回答しており、依然として現地の情勢は不透明です』
    『国内、海外主要都市の電脳化の矢先に起こったこの事件により、今後の計画に遅延が発生するのはほぼ確実と見られ、拡張路線に偏った路線への見直しが迫られることになるでしょう』
     それは私の見てきた事実を伝える報道だったはずなのに、私の見たこととはまるで違っていた。理由のわからぬまま、私はそれについて考えるのをやめた。

    電脳コイル〈3.00〉 -第17話 思い出の帰る日-

    G part

     Cドメインに接続を続けるのは辛かった。
     私のスキルでは、2.0にアクセスはできても、その正確な構造がわからない。間違いのきかない細かい作業を目隠しでやっているのと同じで、神経ばかり使ってハッキングはなかなかはかどらなかった。そのうえ、どうしてなのか、2.0の防壁をクリアして1歩を進めるたび、もやった重いものが心にのしかかってくる。その正体もつかめないまま、不安だけが報酬の息苦しい仕事を、半分目を閉じて私は続けていた。
    「ヤサコ、もう少しだ!」
     背中に響く声は宗助さんだ。自分も苦しい中でかけてくれるその応援がなかったら、私はとっくに音を上げていただろう。
    「私は大丈夫」
     答えた自分自身の声があまり辛そうで驚いた。ねばっこい汗が頬を伝う。必死で指を動かす私はぬぐうこともできない。
     ばん、と目の前で轟音が爆ぜた。びっくりして見上げると、斜めに傾いたサッチーから黒煙が上がっている。
    「やるな。Cドメインと現実空間の両方で戦っていてこの堅さか」
     宗助さんのつぶやきが聞こえた。
    「こりゃまずくねえか? 最初の作戦と違うぜ」
     ダイチ君の影が私にかかった。守ろうとしてくれているらしい。
    「いや、あせらなくてもいい。現時点で2.0は、総力の80%をCドメインでの応戦に割いている。こっちには負けないくらいの対応でいっぱいいっぱいのはずだ」
    「それでこれかよ。勘弁してくれよマジで」
     いつの間にかガチャギリ君も近くに来ていた。宗助さんが連れてきたサッチーの裏に隠れながら、黒客は散発的な攻撃を続けている。
    「こっちもそろそろ限界よ! なんとかならないの!?」
     つなぎっぱなしの電話から、ノイズにまみれたフミエちゃんの声が聞こえる。
    「すまない。もう少しだけ我慢してくれ」
     私は真横を見た。宗助さんは信じられないスピードでキーボードをたたいている。その表情は、何もない前方をにらみつけ、落ち着いた声からは想像もつかない鬼気迫るものだった。
     私も。私もがんばらないと。目を閉じ、深く息を吸って、どこか違う世界にいる2.0の姿に意識を集中する。
     ふと、体が楽になった。細かに展開された意識の先端から、私は見る。いくつかの動く点。きっとイサコたち、それからフミエちゃん、そして目指す2.0。
     私の攻撃が加えたかすかな傷が見える。こんなもので。あとどれだけ。絶望感を無理に押さえつけ、次の攻撃を準備する。ささいな、ほんのちっぽけなものだ。それでもその小さな1歩分だけ、あなたに近づける。
     あなた? イサコじゃない、あなたは誰? もちろんフミエちゃんじゃない、ハラケン、それともカンナ?
     違う。誰とも違う。それなのに私はあなたを知っている。
    「お姉ちゃん」
     唇から漏れでたつぶやきに、あなたはほほえむ。
    「お姉ちゃん!」
     それがいつ、どこでだったのか、私はほとんど覚えていない。それなのに、いつも一緒だった、私はそう感じている。いつも一緒だったのに。その手を離したのは。
    「もうあなたのほうが年上なのに」
     お姉ちゃんは笑った。
    「それに私の名は……」
     夕陽が言葉をさえぎった。にわかに強くなったそれが、私をお姉ちゃんを、私たちを取り巻く景色を次々飲み込んで。
    「ヤサコ、戻れ!」
    「おいヤサコ!」
     何人かの声が遠くから聞こえた。私は抵抗することもできず、その声の方向に引き戻された。

     目を開けると、宗助さん、ダイチ君、フミエちゃんが輪になって、あおむけに倒れた私をのぞき込んでいた。
    「なに……? どうしたの」
     聞きながら、私は力なく上半身を起こす。
     その肩をフミエちゃんが揺すぶった。
    「やったのよ。宗助さんが」
    「え――」
     そうだ。2.0。
     慌てて振り向くと、2.0はまだそこにいた。でも動きがない。触手をしまいこんで、ぽかんと空を切り取っている。
    「安心して。フリーズしてる」
     宗助さんが言う。
    「作戦成功だ。君たちが2.0を引きつけている間に、空間管理室を経由してメガマスのサーバをハックしたんだ。これで何時間かは2.0を止めておける」
    「その間に私たちでイサコたちを連れ戻せばいいってわけよ」
     フミエちゃんがにかっと笑顔を見せた。
    「待って。でも2.0の別の機体が来たらどうするの?」
     聞くと、宗助さんは首を振った。
    「そこは心配ないよ。ここにいる2.0から通常パトロール信号を出させてる。このエリア一帯は問題なく巡回中ってことになってるから、他の機体が入ってくる恐れはない」
    「そういうわけだから、後ろは気にせず行こうぜ」
     ダイチ君が空間の裂け目に向き直る。と、ガチャギリ君がその前をふさいだ。
    「待てよ、そうは行かねえぜ。イサコの計画は俺たちが邪魔させねえ」
    「ああ? お前、今の戦い見てたろうが。もうそれどころじゃねえんだよ」
    「ダイチ君のいうとおりだ。イサコが何をしようとしていたのかは僕にもわからない。だが、いずれにせよ今は危険だ」
     ダイチ君に宗助さんも加勢する。けれど、ガチャギリ君は道を明けない。それどころか、アキラ君にデンパ君までガチャギリ君と並んで立ちはだかった。
    「2.0のことくらいイサコだって計算済みだ。どうしても止めるってんなら、ここで一戦やらかしてからだ」
    「ちっ、無茶言いやがる」
    「ちょっと、ダイチ」
     フミエちゃんがダイチ君の腕を握った。
    「やめるんだ、君たち。ここで戦ったって無益だ」
     宗助さんが1歩前に出る。
    「そう言ってんのは探偵局の人間だけだ。俺たちに取っちゃわからねえ」
     ガチャギリ君がミサイルを構えた。
    「ちょ、ちょっと待っ――」
    「待つんだ!」
     私の声にかぶせて、横から別の声が響いた。
    「誰だ!」
     ガチャギリ君が構えたミサイルをそっちに向け……、しかしそれはすぐに降ろされた。
    「信彦さん――」
    「今回の計画はイサコが独断でやったことだ」
     信彦さんはきびきびと話しながら歩いてくる。その後ろにメガネをかけてないナメッチの姿も見えた。
    「これまでのイリーガル捕獲は僕とイサコが協力して計画を練ってきた。だがここに来てイサコは先走ったんだ。残念だけど、一旦やり直しだ。探偵局の面々のいうとおり、イサコを連れ戻そう。危険すぎる」
     ガチャギリ君は急に気弱な表情を浮かべると、かたわらのアキラ君、デンパ君を振り返った。ふたりはそろって目を落とし、黙ったまま小さくうなずいた。
    「納得してくれたか。ありがとう」
     信彦さんは軽く息をついて、私に向き直った。
    「急ごう。時間は多くはないぞ」
     イサコ、カンナ、――ハラケン。私はうなずいた。
    「待ってよ、当然私たちも行くからね」
     フミエちゃんがダイチ君を引っ張って空間の裂け目に歩き始める。私は宗助さんを見た。
    「大丈夫。ここは僕が――」
    「兄ちゃん!」
     宗助さんの答えはけれど、予想外の声にかき消された。タケル君だった。
     タケル君は宗助さん、サッチー、そしてその向こうに開いた空間の裂け目を見て、語気を荒げた。
    「どういうことなんだ! やっぱり兄ちゃんは”あっち”を、父ちゃんの作った空間を――」
    「何言ってんだ、お前? 宗助さんは俺たちを助けてくれたんだぜ」
     ダイチ君が言う。
    「だまされるな! 兄ちゃんはいつだってそうやって――」
     言葉は最後まで聞き取れなかった。閃光が走る。
    「うわっ!」
     宗助さんが素早くメガネを顔からはぎ取って地面に投げた。ほぼ同時にばんと乾いた音がして、メガネから火花が散った。
    「宗助さん!?」
     私は手で目を覆った宗助さんに駆け寄った。宗助さんはゆっくりと手を離し、投げ捨てたメガネを見つめた。メガネは柄から細い煙を上げ、レンズには大きなひびが入っている。
    「完全におシャカだな。困ったね。実はこれ、玉子のを勝手に持ち出してきたんだ」
     宗助さんはこっちを振り向いて苦笑いを浮かべた。宗助さん自身は無事らしいとわかって、私は少しだけ安心した。
    「タケル、お前はいきなり何だってんだよ!」
     大声に振り向くと、ダイチ君がタケル君の胸ぐらをつかんでいる。
    「離せよ!」
     タケル君はダイチ君を強引に突き放し、
    「兄ちゃんは古い空間を抹消しようとしてるんだ。今だって、せっかく開いた入口をフォーマットするつもりだ」
    「ちげーよ! 宗助さんはこの空間をメガマスから守ってくれたんだぜ」
    「君こそ間違ってる。兄ちゃんにだまされてるんだ。兄ちゃんは古い空間を消して、コイルスの空間が存在する証拠をなくしてしまおうとしてるんだぞ」
    「待って、タケル君」
     私が呼ぶと、タケル君はどきっとした顔でこっちに向き直った。
    「宗助さんが私たちを助けてくれたのは確かよ。イサコたちがここから古い空間に入っちゃったの。それで、連れ戻すまでの間、ここを維持するために来てくれたの」
    「そ、そんな」
     タケル君は不安そうな顔になって、周りを見た。みんながうなずくと、うろたえた様子で1歩退き、うつむいた。
    「タケル、僕のメガネをどこへやった」
     宗助さんが声をかける。
    「――ハラケンに貸したよ。あいつが何に使うのかは知らない」
    「そうだ、おかしいと思ったのよ。カンナはメガネが故障中だって言ってたもん。きっと宗助さんのメガネで”あっち”に入ったんだわ」
     フミエちゃんが言うと、宗助さんは首を傾げ、
    「変だな。僕は玉子から、ハラケンのメガネを没収したって聞いたんだ。ハラケンとカンナのがないなら、メガネは2個必要なはずだけど」
    「もうひとつはきっと僕のだ」
     信彦さんがつぶやいた。
    「イサコは僕のメガネを勝手に持ち出していった。てっきりこっちの動きを遅らせるためかと思ってたんだけど、そういうわけだったのか」
     その時、サッチーがぎぎ、とうなった。
    「まずい。指令元がなくなったせいでサッチーが混乱してる。空間管理室へ戻って、指示を出し直さなくちゃ」
     宗助さんが言うと、
    「行ってくれよ。こっちは俺たちで十分だぜ」
     ダイチ君が胸を張った。
    「すまない。急いで行くけど、その前にサッチーが通常モードに戻った場合、古い空間を攻撃するかもしれない。何とか耐え抜いてくれ」
     宗助さんが頭を下げると、今度はガチャギリ君が前に出た。
    「俺たち黒客を信頼してくれよ。サッチーの足止めくらい、慣れたもんだぜ」
     フミエちゃんが私を見てうなずいた。
    「じゃあダイチ、あんたもサッチー対策で残って。ヤサコ、私たちふたりで”あっち”へ行くわよ」
    「ダメだ」
     突然、信彦さんが口を開いた。
    「古い空間の中でも、イサコが向かった場所は大きく変質してる。イマーゴを持たない人間には入ることができないだろう」
    「イマーゴ?」
     私とフミエちゃんは顔を見合わせる。
    「ああ。特定の子供だけが持っている、意識と電脳を直リンクする能力さ。僕にはイサコほどじゃないがそれがある。だから”あっち”には僕が行くよ」
    「それじゃ、私たちはここで指をくわえて見てるしかないっての?」
     フミエちゃんににらみつけられ、信彦さんは困ったように目をそらした。
     わだかまった沈黙を破ったのは宗助さんだった。
    「仕方ない。天沢信彦君だね、”あっち”のほうは君に頼む――」
    「待って」
     意外な声が宗助さんを止めた。タケル君だ。しかしその言葉はもっと意外だった。
    「ヤサコにもイマーゴの力がある」
    「えっ、私!?」
     タケル君はうなずいた。
    「果し合いの前に君たちに暗号を教えたろ。あれは、Cドメインにアクセスして、意識から直接電脳物質を作る力だったんだ。だから、暗号が使えるってことは、イマーゴを持っているはずだ」
    「……そうだったの」
     さっきの苦しさを私は思い浮かべる。”あっち”に入ったら、私はずっとあの思いを抱いていなければならない。でもハラケン、カンナ、それにイサコを守るため、他に選択はない。
    「わかったわ、行きましょう」
     私は笑顔を浮かべ、信彦さんにうなずいてみせた。
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