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    電脳コイル〈3.00〉 -第18話 あなたはいさましいこ-


     メガマスによると、一斉フォーマットの結果、危険な空間は完全に抹消したそうです。

    A part

     事件から1週間が過ぎた。
     イサコはまだ学校に来ない。最初は騒いでいたみんなも、ここ数日で急に静かになってしまった。イサコがいない環境に慣れたのだ。余計な詮索がないのは本人のためにいいのだろうけど、みんながイサコを忘れていくようで、俺は寂しかった。
     放課後、俺は誰ともつるまずにまっすぐ家へ帰った。事件が起きてからこっち、黒客はもちろん、探偵局も開店休業だ。公式にはフォーマットを終えたといいながら、メガマスはまだ警戒態勢を解除してないらしく、時々2.0の姿を見かける。
     金魚にエサをやりながら、窓に映った空を見上げる。灰色だ。メガネを通しても、そうでなくても。頭の芯がぼやっとする。俺はこのまま金魚マニアになるしかないのだろうか。
     とその時、救いの神のように電話が鳴った。はね起きて発信元を確かめる――ハラケン!?
    「おう、ダイチだけど。……どうした?」
     ハラケンとは事件以来1度も口を聞いていないのだ。
    「いや、ごめん――っていうか謝ろうと思って。ごめん」
    「謝る? 俺にか」
    「う、うん。それもそうなんだけど」
    「なら今謝ったろうが」
    「いや、うん。でも――」
     どうも要領を得ない。が、俺にはなんとなくハラケンの言いたいことがわかった。
    「とにかく一旦俺んとこ来いよ。話はそれからだ」
    「ああ。ありがとう」
     ハラケンはようやく少し朗らかな声を出した。

     5分後にハラケンは俺の部屋にいた。つまり電話をかけようかどうしようかと迷いに迷って、結局かけたのは俺の家のすぐそばまで来てからだったというわけだ。
     ふたりともしばらくは黙って部屋の隅を見つめていた。
     先に口を開いたのはハラケンだ。
    「果し合いの時に僕が裏切ったってわかったのに、どうして何も言わなかったんだい」
     ハラケンの声が思ったより穏やかだったことに俺は安心し、だが一方でどこか反発を感じてもいた。だからというわけか、答えの前半には同情が、後半にはいらだちが、それぞれこもった。
    「お前が探偵局を裏切るのならそれなりの理由があると思ったからだ。そいつを先に確かめたかった。結果としちゃ大失敗だったけどな」
     ハラケンは目を落として声もなく笑った。
    「理由を知ったら君は怒ったろうね。僕の動機は、完全なわがままさ。子供っぽい、僕のわがまま」
    「カンナがお前を止めてくれたからこそ言えるセリフだな」
     どういうわけか、ハラケンが落ち着けば落ち着くほどに俺のいらだちは高まるようだった。
    「もしカンナがお前に逆らわなかったらどうなってたろうな」
     ハラケンは首を振った。
    「カンナはそうしない。絶対にしない。僕がカンナを好きになったのは、カンナがそんな子だからだ」
     そのままゆっくりとうつむく。
    「だから、僕は完全に間違ってたんだ。すまない」
    「いいんだ。俺はもう」
     それはまあ、嘘だ。俺にだって言いたいことはたくさんある。けど、放っておけばハラケンの肩は震え出すだろう。俺が見たいのはそういう結果じゃない。謝るべき相手に、きちんと謝ってほしい。
    「行こうぜ」
     ハラケンは驚いたように顔を上げた。
    「どこへ?」
    「お前が決めんだよ」

     そういうわけで俺たちはメガシ屋へやってきた。ハラケンは、いきなりイサコの家へ行く勇気は出なかったらしい。とはいえ俺もそこは同じで、情けない話だが、ハラケンの選択にややほっとしていた。
    「皆さん、ご迷惑をおかけしました」
     居並ぶ小此木先生、メガばあ、ヤサコの3人に向かって、正座したハラケンが深々と頭を下げる。
    「もういいのよ、私たちは。終わったことじゃない」
     ヤサコが小さく笑って首を振った。メガばあもうなずく。
    「カンナの付き添いなしで来たのはほめてやるぞい。余計なのが1匹おるがの」
    「余計はねえだろ。せっかくついてきてやったのに」
    「まあまあ、怒るな、ダイチ。ハラケンもこれで探偵局復帰じゃな」
     小此木先生が無難にまとめて、
    「しかし、問題はこの先じゃて」
     少し眉をひそめた。
     俺はここで、一番気になっていた疑問を口にした。
    「メガマスが空間のフォーマットは終わったって言ってるよな。あれ、本当なのか」
     もしそれが事実なら、イサコの兄さんがこっちに戻ってくる手段はない。それどころか、最悪古い空間と一緒にデリートされてしまった可能性もある。
     俺の顔色を読んだメガばあが口を出した。
    「安心せい。”あっち”自体は残っておる」
    「本当に!?」
     ハラケンがぱっと顔を輝かせた。
    「オババのいうとおりじゃ。2.0の本体が古い空間にあったのはおぬしらも見たろう? メガマスは古い空間を手つかずの空き地として利用するつもりじゃ。消したりはせん。よってミチコも天沢信彦も、まだ”あっち”に存在する」
     俺は思わず大きなため息をついて、ハラケンと顔を見合わせた。とりあえず、最悪の事態は免れたらしい。
     だが、ヤサコの言葉が俺たちの気持ちを破った。
    「悪いけど、ふたりとも、安心するのは早いのよ。”あっち”が残ってることはわかった。でも、”あっち”に行く手段はもうないの」
    「何だって!?」
     俺とハラケンはまたも顔を見合わせた。小此木先生がしぶい顔でお茶をひと口すすり、話し出す。
    「メガマスはの、古い空間を残す代わりに、通常空間の接点を徹底的に管理して、2度と空間事故が起こらない体制を整えつつあるんじゃ。具体的には、空間管理室からメガマスへの大幅な権限移譲と、サーチマトンとして2.0の正式配備じゃな。昨日の大黒市議会で、メガマスは大黒の電脳空間を特別保護区として管理する条例を、超スピード採決で通してしまったんじゃ」
    「け、ケンゲンイジョー? トクベツホゴク?」
     当然俺には何のことやらさっぱりわからない。メガばあがちらと俺を見て口を開いた。
    「ダイチの頭にもわかるようにかみ砕いていえばこうじゃ。大黒市内の電脳空間の管理は、今まで空間管理室がやっておったろう。つまり、サッチーを走らせて空間のメンテをするのは大黒市だったわけじゃ。じゃが、今後は電脳空間を直接メガマスがメンテする。裏を返せば、これからはメガマスのやりたい放題じゃ。サッチーの代わりに2.0が巡回するようになるから、古い空間との接点は徹底的にフォーマットされるの。それどころか、今までみたいなお茶目なツールを使ったメガネ遊びもできん。商売あがったりじゃ」
    「オババ、お店のことはいいから。それより、何か方法はないの? 例えばメガシ屋の中に古い空間を作ったりとか。あっ、鹿屋野神社でもいいわ」
     ヤサコは無理に明るい声で言ったが、メガばあは左右に首を揺すった。
    「残念ながら、それもダメじゃ。2.0の正式名称は、電脳治安維持法に基づく……、基づく、何じゃったかの」
     オジジが後を引き継ぐ。
    「『電脳治安維持法に基づく緊急避難的措置としての超法規的電脳装置』じゃ。そういっても何だかわからんじゃろうがの、要は、電脳空間維持のためなら、2.0は法律を無視して行動できる。フミちゃんからの又聞きじゃが、黒客のアキラ君の体験では、実際に2.0は鹿屋野神社に入ってきたそうじゃ。先週の一斉フォーマットの時、空間異常の激しかった地域では民家に侵入してきたという情報もちらほら入ってきておる」
    「そんな……。じゃあ、僕たちは一体どうしたら」
     ハラケンがつぶやいて頭を抱えた。
    「オバちゃんとか宗助さんを通じて対抗手段が取れないのか」
     思いついたことを聞くと、メガばあは再び首を振った。
    「ふたりは先週の騒ぎの責任を取って出勤停止になったぞい。無期のな。事実上のクビじゃよ。今回ばかりは、本当に打つ手なしじゃ」
     重い空気が降りた。いくら考えても、この状況を打開できるような方法は思いつかない。
    「そうじゃ、先週の騒ぎといえば、ひとついいニュースもあるぞい。メガマスでは、事件は全て空間管理室の怠惰によって引き起こされた、ウィルスの一時的大量繁殖によるもの、と結論づけるそうじゃ。よって、イサコのやったサイバーテロは不問に付される。強力なオートマトンを導入しておきながら、小学生の単独ハッカーにやられましたとは、メガマスも口が裂けても言えんようじゃな」
    「そうか……」
     不幸中の幸い、だろうか。俺は今日何度やったかわからんが、またしてもハラケンと顔を見合わせて、ふたりで大きなため息をついた。
    「これからイサコの家へ行くの?」
     気がつくと、ヤサコが俺たちを見つめていた。ハラケンが口ごもったので、代わりに俺が答えた。
    「そのつもりだ。ヤサコはもう行ったか」
    「ううん」
    「じゃあその、どうだ? お前も一緒に行かないか。そうだ、フミエも呼んで、4人で」
     道連れはひとりでも多いほうが頼もしかった。
    「そうね……」
     うなずきかけたヤサコを、意外にもハラケンがさえぎった。
    「待って。イサコの家には、僕たちだけで行く」
    「えっ、何でだよ」
    「その……、ヤサコには、今度の事件で特に迷惑をかけたから。これ以上力を借りるのは悪いよ」
     ヤサコは黙ってハラケンを見ている。
    「そうじゃ、そろそろ店番に戻らんと。2.0が来る前に店のおもちゃをたたき売らんといかんでな」
    「わしも病院に行くとするか。情報集めもあるし、そもそも最近腰が痛くての」
     メガばあと先生のふたりはさっさと部屋を出ていき、俺は取り残された。さっきよりも深い沈黙がやってくる。
     許したといっても、ヤサコの心にはまだわだかまっているものがある。それは俺にだってわかる。
    「ヤサコ、本当にごめん。僕は本当にひどいことをした」
     やがてハラケンが言って、畳に手をついた。
    「もういい、いいの――」
     ヤサコはやや虚ろに答え、その後でうつむいた。
    「やっぱりダメかも」
     ヤサコは突然立ち上がった。
    「ちょっと来て」
     ハラケンのすそをつかんで強引に立ち上がらせ、床の間からいずこかへ引きずっていく。
    「お、おい」
    「ダイチ君はそこで待ってて」
     ヤサコはぴしゃりと言ってのけ、襖を閉めた。
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    電脳コイル〈3.00〉 -第17話 思い出の帰る日-

    J part

     ハラケンはうまくやっているだろうか。
     私は背後を振り向いた。
     隙間なく並んだ民家の背中を通り抜け、今まで歩いてきた路地は細くゆがんで、けれどずっと向こうからまっすぐ伸びている。この眺めの思い出がないのにもかかわらず、私の心には昔を懐かしむ感情が生まれている。きっとここは親しかった誰かの風景なのだ。
     ハラケンが何を考えて私についてきたのか、結局聞くことはなかった。あいつには反発を覚えた時もあったが、それでもハラケンの心はハラケンのものだ。私は干渉すべきではないし、何より私のこれからやろうとしていることだって、ハラケンとたいして変わりないのかもしれない。それならば、聞いて自己嫌悪におちいるより、聞かずに別れたほうがお互いのためだ。私は再び前を向いて、不確かな空間を目指す先へと歩き出す。

     空間の作用だろうか。体が熱っぽく、脈と合わせて頭痛がする。何か考えようとすると痛みが激しくなるので、私はなるべく頭も心も空っぽにして、足だけを前に進める。次第に歩みも重くなる。この道をもう少し進めば、私も知っているあの風景にたどり着くのだ。
     イサコ。
     後ろから呼ばれたような気がして私は振り返る。いや、気のせいだ。後ろには、壁となって立ちふさがる家々と、照り返しでわずかに赤く染まった道しかない。ハラケンがこの道を来るはずはないのだから、一体誰が私を呼ぶというのか。
     イサコ。
     まただ。だが違う。呼び声は前から。呼び声は少し年上の女の子だ。足が止まった。
     地面に黒い染みができるのを、私はじっと眺めていた。5年間探し求めて、それなのに夢にさえ出てきてくれなかったお姉ちゃん。もし中学生になっていればどんな姿になっていたろう。どんな声で話したろう。私はひとりで想像して架空のお姉ちゃんを頭の中に作り上げていた。今聞こえた声は、私が願ったお姉ちゃんの声、そのものだ。
     路地を照らしていた夕陽の赤色が、それとわかるほどにはっきりと濃くなった。同時に闇も深く。私はこわくなる。せかされるように前へ進んで、つい踏み出たその場所は出発地とそっくり同じ、ただ時間だけが凍りついて動かない、はざま交差点だった。
     私は素早く左右を見た。大丈夫だ、誰もいない。そう思ってから何が大丈夫だったのかと苦笑し、そして目の前、交差点の反対側を見つめる。
     光る影がたたずんでいる。
    「お姉ちゃん……」
     その言葉だけがため息とともに漏れた。伝えたかったことはいくらでもある、でもそれをうまく言い表すことができなかった。やっと会えたという喜びは何故か少なく、そうしてか後ろめたさばかりが心を満たして、私はお姉ちゃんから視線をそらした。
    「助けに来たんだよ。私と一緒に帰ろう、元いた町へ」
     ひとりごとのようにそれだけつぶやいて、私は歩き出した。交差点を向こうに渡る信号は青。ずっと青のままだ。きっと私が通るのを待っているのだろう。
     道路のアスファルトがきらきらと夕陽に反射して、まるで川の流れのようだ。見上げれば遠い、くすんだ青に変わりつつある空に、星がまたたき始めている。暗く沈んだ町は次第に遠ざかり、この広い、鮮やかな世界を私とお姉ちゃんだけのものにしてくれる。そうだ、こわがりもためらいもする必要はない。お姉ちゃんはいつだって私を待ってくれていた。いつもお姉ちゃんのほうからつないでくれた手を、今度は私が差し出す番。
     踏み出した足が交差点についた瞬間、お姉ちゃんの影が首を振った。同時に、電気の走ったような嫌な感じが体に伝わる。私は反射的に飛びのいた。
    「なんだ、今のは」
     見回しても辺りはさっきと同じ風景のまま。
    「お姉ちゃん! 聞こえる? 私だよ、イサコだよ。助けに来たの」
     お姉ちゃんの影はゆらめきながら少しこっちに近づいた。よく見ると、顔のあたりの光の濃淡が表情のようなものを形作っている。ほほえんでいるのだ。私を受け入れてくれている。
    「今そっちに行くよ。一緒に帰ろう」
     もう1度、私が交差点に進み出そうとした時。
    「イサコ、待て!」
     突然、予想しなかった声が響き渡った。声は景色を揺るがし、お姉ちゃんは再び遠のいた。
     私は後ろを見ずに言った。
    「お兄ちゃん、どうしてここにいるの」
    「イサコを連れ戻すためにだ」
     お兄ちゃんは間を置かずに答えた。
    「私よりお姉ちゃんのことを考えて。ほら、見てよ。いたんだよ、お姉ちゃん」
     お兄ちゃんの足音が近づいて、私に並んだ。お姉ちゃんはやや遠ざかったけれど、十分にそれをわかる距離に立っていた。
    「ミチコなのか?」
     お兄ちゃんが声をかけると、お姉ちゃんは私にやったのと同じようにこっちに近づいた。
     お兄ちゃんは笑いともため息ともつかない息を漏らした。
    「ミチコ……。良かった、消えずにいてくれて」
     いつも落ち着いているお兄ちゃんが見せたことのない涙声を、私はむしろ不思議に思った。お兄ちゃんには私が感じた、やましさのような気持ちはないのだろうか。私の心にはあってお兄ちゃんの心にはないその感情が、小さなとげとなって私の心に残った。
    「ほら、お姉ちゃんでしょ。早く連れて帰ろう」
     私は心の傷を隠そうと、なるべく明るい声をつくろってお兄ちゃんに呼びかけた。
     お兄ちゃんははっとしたように私を見て、地面に視線を落とした。
    「どうしたの。行こうよ、早く」
    「待ってくれ」
     お兄ちゃんは私の顔を見ずに答える。
    「待つ必要なんかないじゃない。お姉ちゃん、出てきてくれたのよ。一緒に帰ろう」
     返事をしないお兄ちゃんの表情に悪い予感を覚えながら、けれどそれを振り切ろうと、私は再び交差点の横断歩道に足をついた。
     さっきと同じ悪寒が走る。全身から冷たい汗が吹き出した。
    「イサコ!」
     誰かが袖をつかんだ。お兄ちゃん? その分だけ悪寒がやわらいだ気がして、私は息をつきながら振り返った。
     が、すぐに自分の表情がこわばったのがわかった。
    「ダメよ。行っちゃダメ」
    「――何故、お前がここにいる?」
     腹が立つというよりは、ひどくみじめな気分だった。理由はわからないままに、ヤサコに見られたのが恥ずかしい。
    「あなたたちを止めに来たのよ」
     ヤサコは強気に言い放つ。だが、私はその言葉から別のことに思い当った。
    「ハラケンとカンナはどうなった」
     この場面でそんな質問は場違いだ。私はきっと、ヤサコを傷つけるためだけにそう聞いたのに違いない。
     予想どおり、ヤサコは表情を曇らせた。
    「ふたりは先に戻ったよ。自分の意志でね」
     口ごもったヤサコの後をお兄ちゃんが引き取った。
    「イサコ、僕たちも帰ろう。今はまだミチコを連れ戻せない」
     お兄ちゃんの言うことは、理屈でなく感覚で理解できた。足元の横断歩道からの悪寒。交差点の向こうで立ったままのお姉ちゃん。私たちとお姉ちゃんの間には大きな溝がある。
     だが、私にはそれを認めることができなかった。認めることは私の、お兄ちゃんの弱さだと思った。
    「ヤサコ、手を離せ」
    「イサコ!」
     ヤサコは離すどころか、つかんだ手首をますます強く握りしめてくる。
    「あなたの気持ち、わかるつもり。でもダメよ。”あっち”との接続が不安定なのよ。今連れ帰ろうとしても――」
     ヤサコはそこでまた黙りこむ。続きは聞かないでもわかった。わかったけれど、
    「だからなんだ。やってみなくちゃわからん。いや、私がなんとかする。してみせる」
     私の気持ちはヤサコなんかにはわからない。お姉ちゃんを連れ戻すために、これまでどれほどの努力を重ねて来たか。そのお姉ちゃんがもうすぐそこにいて、諦めるなんて。
    「イサコ」
     ふと目の前に影が差した。
    「僕が行くよ」
    「お兄ちゃん――」
     言葉が止まり、息がつまる。お兄ちゃんの行動に対してではない。お兄ちゃんは私と同じように交差点に入っていながら、ちっとも苦しそうではない。
    「イサコの言うとおりだ。僕は今まで臆病だった。あの時の事故も、僕のせいで起きたのかもしれない。だから僕が行く。行ってミチコを連れてくるよ」
    「信号が!」
     突然ヤサコが声を上げた。青だった信号が、点滅を始めている。夕陽が大きくかしいで、伸びた影から闇が生まれる。
    「待って! 戻れなくなる!」
     私はなかば直感で叫んだ。
    「その可能性もある。覚悟の上だ」
    「信彦さん!」
     手首を握っていたヤサコの力が弱まり、私は強引にそれを振りほどいた。
    「私も行く!」
     が、駆け出した体は見えない壁に当たって押し戻された。
    「何だ、これは!?」
     もう交差点の中ほどまで差しかかっていたお兄ちゃんは、私のほうを見てちょっと笑った。
    「イサコ、すまなかった」
     なんで今そんなことを言うのか、問いただそうとしても声にならなかった。
    「イサコ!」
     ヤサコがどなり、信号が赤に変わり、足元の地面が崩れる。耳をつんざく轟音が響いて、空に亀裂が走った。空間が壊れる。
    「お兄ちゃん、戻ってきて」
     つぶやいた言葉の届くはずもなかった。水面を隔てるように遠ざかったお兄ちゃんは、交差点の向こうでお姉ちゃんと手を取りあった。ふたりは並んでこっちを見る。はっきりと見える、お姉ちゃんの優しいほほえみ。そうだ、私はあのほほえみが好きだった。私だけのものであってほしかった。だから。
    「走って!」
     それから後は、誰かに腕を引っ張られていたことくらいしか覚えてない。音も光も、目に見えないくらいの断片になって記憶の底の塵になっていった。

     気がつくと実体に戻っていた。ヤサコやハラケンにカンナ、探偵局、黒客、全員そろっている。
     みんなは私と、電脳体を失って横たわるお兄ちゃんを取り囲んでいた。私は泣いている。お兄ちゃんを失ったことが悲しいのか、それともひとり取り残されたのが悲しいのか、私自身にもわからない。ただ支えのない心細さに、私は泣き続けた。
     空には本当の夕焼けが迫っていた。その向こうの闇が、私にはこわかった。

    電脳コイル〈3.00〉 -第17話 思い出の帰る日-

    I part

    「夕暮れがきれいなのは何故か、わかる?」
     僕は言った。

     小さい頃から僕はいつも、一見くだらない、答えのない問いの答えを探していた。するといつも、懐かしさと恐れのない交ぜになった感情がわき上がる。
     その感情をなんと名付ければいいのかわからない。半分は宙ぶらりんな気持ち、けれどもう半分はこれで良かったのだいうわけもない安心感。春の穏やかな午後のようにゆったりとした気分で、僕は幸せさを感じる。同時に寂しさ。僕の心をのぞけるのは僕ひとりだから、僕は一生、僕ひとりに違いない。
     それはカンナと会ってからも変わらなかった。お互いひとりっこで家も近かった僕たちは出会ってすぐ仲良くなった。でも、僕は僕のくだらない問いをカンナには明かさなかった。カンナは多分、僕が人生で初めて会った他人なのだ。だから僕はカンナと一緒にいて時に怒り、傷つき、いらだった。ケンカもした。それでもふたりでいて、なんとなくそれが当り前だと思っていた。
    「『わかりあう』って大事よね」
     いつかカンナがそう言った時、僕は笑ってしまった。カンナのいうことはとても幼いか、それとも非現実的に思えた。僕たちがわかりあうことはない。僕はそう信じていたからだ。
     そう伝えるとカンナは答えた。
    「そうね。それでも大事だと思わない?」
     僕は心に鈍い衝撃を感じた。カンナと僕は、僕が考えている以上に違ったから。それでいて、カンナの言葉は僕の心の別の部分を刺した。
     僕たちは違う。それでも、お互いの言葉はお互いの心に何かを伝える。それは時々、僕たちの違いをはっきりと示して悲しい。けれど、その違いから新しい風景を見つけることができる。
     好きだと伝えあった時、僕たちはわかりあっていた。すぐその次の日にはそれがひとりよがりだったのではないかとも思ったけど、カンナといると僕は何かがつながっているのを感じた。引越しの日が近づくにつれその感じはますます強く僕の心の隅々にまで根を張った。

    「夕方の太陽の光って空気の中を進む距離が多くなるでしょ。そうすると青い光が散らばって、赤とか黄色がよく見えるようになるんだって」
     僕はぽかんとした。カンナはウィンドウを立ち上げて、どこかの事典サイトを見ている。
    「おもしろいわね」
     カンナは僕を振り返り、首を傾げた。不安定に髪に引っかかったハルジオンがくるりと向きを変える。僕は笑っていた。
    「待って」
     カンナは平手を突き出して僕の答えを押しとどめた。
    「そういうことじゃないっていうんでしょ。もちろんそう。だけどそうじゃないかも。私って意外とそういうこと調べるの好きなんだよ。知ってた?」
    「いや」
     僕はほほえんだままで短く答えた。いわれてみればカンナは理科の成績がとてもいい。
    「行こうか」
     立ち上がると目の前に横断歩道と歩行者用信号があった。信号は青だけど、すぐに点滅が始まるだろう。僕たちは行かなくちゃ。
    「私を連れていきたいの」
     僕を追って立ったカンナが聞いて、大きな瞳で僕を見すえた。
    「そうだ」
     僕はうなずく。
    「”あっち”に行けば、僕たちはこれからずっと、永遠に一緒だ」
    「さっきこわいっていったくせに」
     カンナはいたずらめかして笑った。笑いの奥に違う感情がのぞいた。
    「こわいさ、何もかも。進むのもこわい、帰るのもこわい。でも一番こわいのは」
     カンナを失ってしまうことだ。僕がカンナを見つめると、涙がひと筋こぼれた。
     カンナは不思議そうに涙を眺め、そして言った。
    「研一が私を好きだっていってくれるの、すごくうれしい。私が研一を好きなのも同じくらい。だから行かない」
    「行かない?」
     僕の思考は少し混乱した。カンナが”あっち”に行くのを嫌がるかもしれないとは予想していた。けれど、うれしいなら。
    「僕はカンナのことが好きだ。カンナも僕のことが好きなんだろ。だったら一緒に行こう。それが僕たちがふたりきりでいられるたったひとつの方法なんだから。僕たちが幸せになれるたったひとつの――」
     僕はカンナの手を取った。温かい手。カンナは僕を見つめたまま、力強く手を握り返した。
    「このまま行っても、研一は幸せになれないわ。私も」
    「そんなことない!」
     僕は首を振る。
    「僕がカンナを幸せにする。それに、カンナが幸せなら僕も幸せなんだ。絶対だ」
    「研一の気持ち、とてもうれしい」
     カンナの声ははっきりと響く。全てがあいまいに温かい夕焼けにひたされたこの空間で、その声には少しだけ違和感があった。
    「でも、研一もさっき言ったでしょ。私たちって変わっていくものだよ。変わらないのはおかしい。ずっと、永遠にって、違うよ。私たちが望んでることと」
    「違わない! 僕の望みは変わらない。カンナ、君だって。行けばわかる」
     そこでカンナは目を落とした。
    「行くよ」
    「え?」
    「行く」
     カンナは僕たちのつないだ手を大げさにふってみせた。
    「私の言いたいことは言った。私はきっと幸せになれない。でも研一が幸せならそれでもいいよ。行こう」
     カンナは横断歩道に向かって歩き始める。僕は慌てて止めた。
    「ちょ、ちょっと待って」
    「どうして? 研一が行きたいって言ったんでしょ」
    「そりゃ言ったけど、でもこれじゃダメだ。僕はカンナに幸せでいてほしい。僕がカンナを幸せにする。それをわかってもらってから”あっち”へ行きたいんだ」
     カンナは振り返った。視線が僕を射た。
    「私は変わりたい。変わっていっても研一のことを好きでい続けたい」
     僕は答えられなかった。
    「研一がもうこれ以上変わらないでいてほしいなら、私は研一と一緒に行くわ。でも、私がそれを幸せと感じるようになるなら、それは研一が望んだ、研一の心の中だけの私にすぎない」
    「違う……」
     それは違う。僕はありのままのカンナが好きだった。僕の心の中で、自分勝手にカンナの虚像を作り出したりはしていない。
    「私ってけっこうイヤな子だよ。たとえばヤサコのこととか」
     カンナはさっきまでヤサコの立っていた方向を見ながら言った。
    「私、ヤサコのこと好き。友達になりたかった。だけどヤサコが研一を好きだっていうのも気づいてた。だから私から近づいたの。仲良くなれば、ヤサコのほうからあきらめてくれるだろうと思って。ヤサコがなおさら傷つくのわかってて、そうしたの」
     僕はさっきのヤサコの姿を思った。そうして、カンナとヤサコというのを思った。それはひとつの疑問で、その疑問は澱のように残った。
    「イサコちゃんも同じ。イサコちゃんが暗号を使って危ないことをやってるのを知ってて、私は止めなかった。探偵局のみんなは、ケンカになっても止めようとしたのに。私ひとりずるかった」
     そういえばイサコは、僕の前でだけ不安そうな表情を見せることがあった。僕たちと途中で別れたイサコはどうなったろう。
    「そんなずるい私が、私は嫌い。研一、知らなかったでしょ」
     僕は息をついた。
    「僕は好きだ」
     知ってる。僕はそんなカンナの弱さも、自身の弱さに傷つく心も知っていて、それがみんな好きだ。それに、カンナは必ず弱さを乗り越える。これまでもそうしてきた。これからも――?
     これからをなくしたら、カンナは変わらない。
    「変わらない私は幻」
     カンナがつぶやいたのを聞いて、僕が気づいたことがある。
     僕は変わっていくカンナが好きだった。
     成長する、と言ったら、齢が同じなんだからおこがましいのかもしれないけれど、たとえ同じものを見たとしても、昨日のカンナと今日のカンナではその受け止め方が違う。僕にはその些細な違いがよくわかって、何故か知らないけれどうれしかった。そうして、カンナに引っ張られて僕自身も変わってきた。その結果が今の僕で、それはやっぱり、これからも。
     でも、カンナがいなくなったら。
    「僕にはわからない」
     カンナのいないままに変わる僕はこわかった。でも変わらないのもこわい。嘘だった。僕は嘘の中に僕たちを閉じ込めようとして、だけどそうしなかったらカンナはいなくなってしまう。
     僕はいつの間にかしゃがみこんでいた。カンナの影が僕にかかる。全てを飲み込みそうなくらいに黒い影だった。
    「いなくならないよ」
     よく見ると僕にも影があった。
    「私はここにいるよ。研一もいなくならないで。私にはそれで十分」
     そういえるカンナは強いと思った。僕なんかよりよっぽど。そうして僕は。
    「帰ろう」
     カンナとみんなと一緒に、これからも変わっていく。

    「さっきの答えね」
     出口が見えてきたころ、カンナがふとつぶやいた。
    「沈んで、巡るから」
     多分正解だ。それを確かめに、僕たちは戻る。

    さくらのその

    やっとで『3.00』の新作エピソードまでたどりつきました。今後は従来どおり、週末に1パートずつ追加していきますので、どうぞよろしくお願いします。

    また、これからは他の過去作品も載せていくつもりですが、文章がまずいのはともかく、特に初期のは、小説を書く上でのお約束(スペースの付け方とか記号の打ち方といったレベルです)が守れてないので、修正しながらの掲載となります。少し時間がかかりますのはご寛恕ください。

    時に、所用で紀尾井町に出向いてまいりました。帰りに少し寄り道をしまして、紀尾井ホールのすぐ前から上智大のグラウンドを見下ろす土手に上れるんですね。

    桜というのは満開を少し過ぎると黄ばみ始め、また花の落ちたがくや新芽が点々と見えて興ざめですが、その時新しく知ったのが、夕刻の陽を通してだと黄味が隠れ、また芽の黒も逆光に沈んで、盛りの鮮やかさを取り戻すものということです。

    しかし、桜に夕映えとはなんだか食い合わせのようで、また清少納言であれば、いたずらに同様の傾向を重ね合わせ、それを興趣があると騒ぎ立てる人は、見るからに寒々しく「悪し」と断ずるでしょう。桜も夕陽も落ち、果てるものだからですね。

    我々が桜に感じる美というのは、やはりそれが儚いというのが根底にあって、桜の幹も、あれはやけに黒くてごつごつしています。そういう非生命のようなのを、にわかに白くて小さい花が埋め尽くし、そしてすぐ散ります。

    散るのを死に見立てることもできますが死というのは少し重く、流転くらいがちょうどいいかとも思いますが、その満開の時は満開であるからこそ後の散り果てぬ姿も意識され、一種こわいような鮮やかさを、安吾は究極的な孤独と捉え、また梶井基次郎はストレートに死体云々と言いました。

    桜の根本が死体なら散った花びらもまたそうでしょう。帰りの道すがら、外堀を白に染めてゆるく渦巻く無数の花びらが凄惨に見えたのもまた確かで、その辺り、人と桜の共同正犯で幻想を築いているのかもしれません。

    そういえば私は「自然と共存する」という言葉が大嫌いで、そんなことをいう人は、自分が毎日の食卓で化学工業製品のかたまりでも食ってると思ってるんでしょうか(化学工業製品だって自然ですが)。

    ただしかし人が主観において唯一無二の人たるを免れないなら、共存とはまさに逃れ得ぬ主観において共犯となるという、情感における体験の幻想を取ってしかあり得ないでしょう。

    電脳コイル〈3.00〉 -第17話 思い出の帰る日-

    H part

     空間の裂け目をくぐり、外の景色を見た瞬間、私はそこが大黒だと気づいた。今の景色とはかなり違っていて、見覚えのない建物ばかりだったが、それでもわかる。
    「これは何年も前の大黒市だ」
     信彦さんがつぶやいた。
    「ええ、そうね」
     答えると、信彦さんはびっくりしたような顔で私を見た。
    「君は僕たちと同じ頃に越してきたって聞いてたんだが、知ってるのか」
    「知ってるというより、覚えてるっていうか、なんとなくわかるの」
    「そうか」
     返事に納得した感じはなかったが、とにかく信彦さんはうなずいた。
    「それより、あなたこそどうしてここが大黒だってわかったの?」
    「僕は昔、ここに住んでいたんだ。もちろんイサコもね」
    「えっ」
     イサコからそんな話は聞いていなかった。
    「住んでいたといっても、短い間だ。1年とちょっとくらいかな。僕たちの見ているこの風景は、その頃の大黒のものさ」
    「そうだったの……」
     しばらくの間、私たちはふたり並んで、初めて見る”あっち”の、それなのにどこか懐かしい町を眺めていた。懐かしいという気持ちは私たちの内のもので、風景は外のものだ。けれど私には、それとも私たちには、外と内との境はなく、今見ている景色そのものが懐かしさという感情を含んでいるように見えた。逆に言うなら、目の前に広がる大黒の町並みは、私たちの心の中から生まれてここにあるのかもしれなかった。
    「道は知ってる。行こう」
     信彦さんが歩き出し、私は半歩遅れて続いた。
     町の景色をよく見ると、しっかりと作られている場所と、いい加減というほどでもないけど、どこか作り物めいた場所がある。信彦さんの向かう方角には、だんだんリアルではない側の町並みが増えていった。フミエちゃんの見たという2.0の巣はない。多分、フミエちゃんとは反対のほうへ進んでいるのだろう。
     人の気配の感じられない町だった。それでいて、目に見えないところで何か、私たちの知らない生き物がうごめいているような、ひと言でいうなら薄気味の悪い、落ち着かない気分だ。
    「どれくらい歩くの」
     だんだん心細くなってきた私は信彦さんに声をかけた。
    「けっこうかかるね。30分くらいかな」
     素っ気ない答えが返ってくる。
    「そんなに? ここ、大黒なんでしょ。30分も歩いたら町を抜けちゃうわよ」
    「大黒市を模した空間といっても、そのままのコピーじゃない」
    「えっ、どうして」
    「空間の整合性がないからだよ」
    「せいごうせい?」
    「ああ」
     信彦さんは話を打ち切りたがっているみたいだったけど、私は食い下がった。
    「それ、どういうことなの?」
    「君はイマーゴが使えるわりにものを知らないな」
     信彦さんは根負けしたように私を振り返った。
    「そもそもCドメインは、遺棄されたコイルスの空間だ。それくらいは知ってるね」
    「ええ、まあなんとなく」
     頼りない返事に信彦さんはため息をついた。
    「歩きながら基本から説明しよう。当り前だけど、僕たちがさっきまでいた現実空間は、大黒市の本当の町並みにぴったり重ねて作られてるよね」
    「それはわかるわ」
    「道路の整備とか新しい建物の建設とか、町はどんどん変わっていく。それでも電脳空間が現実と合わさっている、つまり空間の整合が取れているのは、僕たちのメガネやオートマトンによって、電脳空間が常に上書きされ続けているからだ。これも常識として知ってるだろ」
    「うん」
     うなずくと、信彦さんは話を続けた。
    「ところがここはそうじゃない。ベースにコイルスが管理していた頃の大黒市があって、そこに時々情報が追加される。電脳霧ってあるだろう。あれが街中に発生してる時、現実空間ではCドメインが現在の空間に上書きされて古い空間が発生しているんだけど、逆にCドメインにも現実空間がコピーされてくる」
    「それって、現実空間とCドメインが入れ替わるってこと?」
    「ちょっと違う。Cドメインのベースはフォーマットできないんだ。サッチーのやってるフォーマットは、リンクを切断してその上に最新の情報を書いてるだけ。だから、何度フォーマットしても電脳霧は現れる。逆に、Cドメインのほうでは、元からある空間に、コピーされてきた空間がだぶってしまう。上書きされるんじゃなく、二重化してしまうんだ。それをなんとかするために、町並みを切って、コピーされた空間を無理に埋め込んでいる」
     よくわからなくなってきた。
    「ごめんなさい、それってパッチワークみたいなもの?」
    「いや、パッチワークなら切れ目に新しい布地をかぶせて覆ってしまうだろ。それはむしろ現実空間に近い。Cドメインでは、切れ目に沿って布地をつないでいる。布に切りこみを入れて、ポケットを作るっていえばイメージできるかな」
    「ポケットはわかるけど、それじゃ空間がだぶだぶになっちゃうじゃない」
    「そうさ、それで間違いない」
     信彦さんはにっとほほえんだ。その笑いはイサコに似ているような気がして、しかしよく考えると私はイサコのそんな笑顔なんて見たことがないのだった。
    「Cドメインには到るところに空間のポケットが作られている。というよりは、もう元の空間とポケットの区別がつかない。だから、外部からCドメインを正確に観測することはできない。中にいる人を呼ぶには、自身がそこに入らなくてはならない」
     その言葉で、私は自分の目的を思い出した。信彦さんとの会話で軽くなっていた心がずんと沈み込む。
     どうして? 私はハラケンを助けたいのに。ハラケンとカンナが仲良くしている姿を見たくないから? それとも他の、私自身にも隠された理由がある?
    「そう、だったな」
     何も言ってないのに、信彦さんは私の顔を見て納得したようにうなずいた。その目に、私と同じ辛さがかいま見えた。
     黙ったまま、ふたりでしばらく進んだ。
     信彦さんが突然、ぽつりと言った。
    「小此木さんは何のために”あっち”へ行くの?」
    「え? 知ってるでしょ、ハラケンとカンナを助け……連れ戻しに」
     信彦さんの目に夕焼けの光が宿った。
    「ふたりが戻りたくないと言ったらどうするんだい」
     私は立ち止まる。足が進まなくなった。
    「現実世界よりもふたりの幸福を選ぶと言ったら」
     信彦さんも足を止め、私を振り向いた。その声はイサコと似て、低く心地良かった。
    「そんなの間違ってる!」
     それでも私は叫ぶ。
    「間違ってると君に断言できるのか」
    「できる! 会ってハラケンにそう伝えるわ」
    「蛮勇」
     信彦さんは寂しそうに笑った。
    「イサコにもそうあってほしいな。あの子には前に進む力が欠けてるから」
    「えっ」
     意外を通り越して、実は信彦さんはイサコについてよく知らないんじゃないかさえと思った。あんなに行動的なイサコに、力が欠けてるなんて。
    「信じられないという顔だね。でも、案外すぐに、君にはわかるかもしれないよ」
     どうして、と聞く前に信彦さんは前を向いた。
    「もうすぐ”あっち”だ。原川君と葦原さん、それにイサコもそこにいる。3人を連れて早く戻ろう。空間が不安定になってきてる」

     空は暮れない夕映えで真っ赤だった。
    「懐かしさとこわさってちょっと似てるよね」
     ハラケンは水路岸の土手に腰を降ろしている。水面は油を張ったように静かで、ふたりの姿、青く染まり始めた雲、沈む草の緑、映し出されたそれらはゆっくりと混ざり合ってひとつになる。
    「2度と手に入らないとわかるから?」
     並んで座ったカンナは、手元にあったハルジオンの花を摘んでハラケンの頭に飾り、すぐに吹き出した。
    「やだ、似合わない」
    「わかってるならやるなよ」
     ハラケンは少し乱暴に花をつかみ取って、カンナの髪に差した。小さな花はカンナの柔らかい髪にぴったりなじむ。
    「手に入らないんじゃなくて、それはもう僕のものなんだ。手に入れたんだ。そうして、永遠に変わらず僕のものになってしまったのがこわい。変わるのはこわい。でもそれ以上に、変わらないのは」
     ハラケンは頭を抱えた。
    「考えすぎよ」
     カンナは立ち上がり、そして私に気づいた。
    「ヤサコが来てくれたわよ」
     ハラケンは素早く振り返って、カンナをかばうようにその前に立った。
    「何の用だい」
    「戻ろう」
     胸が苦しくて、やっと私はそれだけ言った。
     ハラケンは黙って首を振る。
    「どうして? ここは私たちのいていいところじゃない。家に帰ろうよ」
    「家、か」
     ハラケンは顔を上げた。不意に夕焼けが閃いて、私は思わず目を閉じた。すぐに開けると、今まで川と思っていたのは2車線の道路だった。タイヤに磨かれたアスファルトが輝く。ガードレールの根元からやせたハルジオンが1輪、ななめに伸びている。カンナの姿はない。
    「信彦さんが、空間が不安定になってるって。外には2.0もいるし、このままだと本当に帰れなくなるよ」
     ハラケンは笑った。
    「僕はここにいると決めて、さっきカンナにも言ったんだ」
     真っ黒い絶望が心を覆い隠すのから逃げるように、私は声を張り上げた。
    「ダメ! ダメだよ、そんなのハラケンのためにもカンナのためにもならない」
     ハラケンは笑みをひるがえさずに言った。
    「ヤサコにとっての幸せって何だい」
    「幸せ? どうして今そんなこと――」
    「ヤサコは幸せになりたい?」
    「そ、それはもちろんそうだけど」
    「僕は今幸せだ。本当に君が僕のためを思ってるなら、僕が幸せである道を選ぶべきじゃないのか」
    「そんな!」
     違う。でも何が違うのか、ハラケンが間違っているのかそれとも私なのか。
    「迷うことはないんだ」
     優しい口調でハラケンは続ける。
    「ヤサコはヤサコの幸せを追って僕を連れ戻そうとしたんだ。でも僕は僕の幸せを追って手に入れた」
     そこで喋るのを止め、ハラケンは私を見つめた。それが最後の言葉だ。
    「ふたりの道は違う。さよなら」
     そうやって、私は失敗した。
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